殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。殷墟から出土した甲骨文字には、王朝名および「殷」は見当たらない。周は先代の王朝名として「殷」を用いた。殷後期の首都は出土した甲骨文字では「商」と呼ばれた。鄭州市の二里岡文化(紀元前1600年頃 - 紀元前1400年頃)は、大規模な都城が発掘され、初期の商(殷)王朝(鄭州商城、建国者天乙の亳と推定)と同定するのが通説である。偃師の尸郷溝で、鄭州商城と同時期の大規模な都城が見つかっている。これは二里頭遺跡から約6km東にある。殷墟のある洹水のすぐ北に、殷中期の都城の遺跡が発見されている(花園荘村)。殷中期に至っても文字資料はほとんど全く出土していない。現安陽市の殷墟(大邑商)は紀元前1300年頃から殷滅亡までの後期の首都。甲骨文が小屯村で出土することが契機で発掘が始められ、その地区が宮殿および工房と考えられ、首都の存在が推定された。都城の遺跡は見つかっていない。洹水を挟んだ北側では22代王の武丁以降の王墓が発掘されている。甲骨文からもここに都を置いたのは武丁の代からと考えられるが、史書では19代王の盤庚によるとある。殷の考古学的研究は殷墟から出土する甲骨文字(亀甲獣骨文字)の発見により本格的に始まった。これにより、『史記』にいうところの殷の実在性が疑いのないものとなった。甲骨占卜では上甲が始祖として扱われ、天乙(名は唐)が建国者として極めて重要に祀られている。以下、史書に基づく。商の名前は『通志』などで殷王朝の祖・契が商に封じられたとあるのに由来するとされ、『尚書』でも「商」が使われている。伝説上、殷の始祖は契とされている。契は、有娀氏の娘で帝嚳の次妃であった簡狄が玄鳥の卵を食べたために生んだ子とされている。契は帝舜のときに禹の治水を援けた功績が認められ、帝舜により商に封じられ子姓を賜った。その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えた。また、契から天乙(湯)までの14代の間に8回都を移したという。契から数えて13代目の天乙(湯)は、賢人伊尹の助けを借りて夏王桀を倒し()、諸侯に推挙されて王となった。亳に都を置いた。殷の4代目の王太甲は、暴君であったために伊尹に追放された。後に太甲が反省したので、伊尹は許した。後、太甲は善政を敷き太宗と称された。王雍己の時に、王朝は一旦衰えた。王雍己の次の王太戊は賢人伊陟を任用し、善政に努めたことで殷は復興した。王太戊の功績を称えて、王太戊は中宗と称された。中宗の死後、王朝は再び衰えた。王祖乙は賢人巫賢を任用し、善政に努め、殷は再び復興した。王祖乙の死後また王朝は衰えた。王盤庚は殷墟(大邑商)に遷都し、湯の頃の善政を復活させた。王盤庚の死後にも王朝は衰えた。王武丁は賢人傅説を任用し、殷の中興を果たした。武丁の功績を称えて彼は高宗と称された。武丁以降の王は概ね暗愚な暴君であった。王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妃の妲己を溺愛し暴政を行った。そのため、周の武王に誅され(牧野の戦い)、殷はあっけなく滅亡した。殷の王位継承について、史記を著した司馬遷は、これを漢の時代の制度を当て嵌め(漢の時代になると、いくつかの氏族で君主権力を共有することなど考えられなかった)、親子相続および兄弟相続と解釈したが(右記図表)、後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。松丸道雄の仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測する。上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話は、殷王朝の10の王族の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落されるのは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。紂王の子である武庚は、周の武王に殷の故地に封じられた。武王の死後、武庚は、武王の兄弟とともに反乱を起こしたが失敗し、誅殺された。その後、禄父(武庚)の伯父の微子啓(紂王の兄)が宋に封じられ、殷の祭祀を続けた。微子啓には嫡子が無かったため、同じく紂王の兄の微仲衍が宋公を継ぐ。異説もあるが、その微仲衍の子孫が孔子とされ、その後の孔子の家系は世界最長の家系として現在まで続いている。紂王の叔父箕子は朝鮮に渡り箕子朝鮮を建国したと中華人民共和国では主張されているが、中国人によって朝鮮が建国されたことになってしまうため、韓国側は檀君朝鮮こそ初の王朝であり箕子朝鮮は単なる後世の創作であると主張している。商人という言葉は、商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、各地を渡り歩き、物を売っていたことに由来するとされる。そこから転じて、店舗を持たずに各地を渡り歩いて物を売っていた人を「あれは商の人間だ」と呼んだことから「商人」という言葉が生まれたというものである。ただし、白川静は「商に商業・商賈の意があるのは、亡殷の余裔が国亡んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、商には賞の意があり、代償・償贖(とく)のために賞が行なわれるようになり、のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる」と否定している。周が殷を滅ぼしたのは具体的に何年の出来事かを推定する作業が進められている。中国の夏商周年表プロジェクトはこの出来事を紀元前1046年であるとした。古い説では『竹書紀年』に武王から幽王(西周最後の王)まで257年という記述があり、幽王が死んだのが紀元前771年のことなので殷が亡んだのは紀元前1027年の出来事となる。また『漢書』には周は867年続いたという記述があり、これからは紀元前1123年の出来事となる。それ以外にも多数の説があり、殷滅亡を一番古い時代に置くのは紀元前1127年、最も新しい時代では紀元前1018年となっている。殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。しかし祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が、周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き、殷を滅亡に導いたとする説もある。殷王朝の軍隊は氏族で構成され、殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員たちが武器をとり、出征する軍隊を編成した。この軍隊を指揮するのは各氏族の貴族だった。強大な軍事力を誇った殷王朝は、度重なる戦争に勝利を収めるために、兵種、戦法、軍備などを発展させていった。その中で特筆すべきは、「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術である。殷王朝が歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化するのは、殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる。『呂氏春秋』によると殷の湯王が夏の桀王を討ったとき、「良車七十乗(輌)、必死(決死隊)六千人」があったといい、「令三百射」「到三百射」と記載された甲骨文があることから、一度に戦役に出撃した戦車は300輌にも達していたことが伺える。戦車は歩兵と共同して戦いを行った。1輌の戦車には3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。戦車部隊は5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人、25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、戦車が5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成されていた。戦車の運用法では「三師戦法」が編み出され、これは軍隊を左、右、中の3つの部隊に分け、互いに連携して敵に対処するというものだった。軍備については戦車戦に適した戈や矛、弓矢、木製の盾、刀などが使われた。その他でも殷王朝では戈と矛を合体させた戟が発明されている。戈や矛の材質は青銅製で、弓矢の鏃の材質は石器や骨器なども使われた。防具については戦車兵が立ったままの状態で戦車に乗っていたため標的にされやすく、そのため重装化が進んだ。殷代の鎧は皮革から、兜は青銅で作られている。また、敵の弓矢から身を守るために盾も戦車には用意されていた。。
出典:wikipedia
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