LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

アウクスブルク

アウクスブルク(標準ドイツ語:Augsburg, アレマン語:Augschburg(アウクシュブルク))は、ドイツ連邦共和国バイエルン州南西部に位置する郡独立市である。シュヴァーベン郡市連合、シュヴァーベン行政管区およびアウクスブルク郡の本部所在地であり、大学都市としても知られる。アウクスブルクは1909年に大都市となり、26万人強の人口を有するこの街はミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐバイエルン州第3の都市である。アウクスブルク都市圏はその人口、経済力ともに、やはりバイエルン州で3番目の規模であり、約83万人が住むアウクスブルク開発地域の一部である。都市名はローマ属州時代のアウグスタ・ヴィンデリコルム (Augusta Vindelicorum) に由来し、紀元前15年にローマ皇帝アウグストゥスによって築かれた城にその起源を持つ。このため、アウクスブルクはドイツで最も古い都市の一つに数えられる。また、15世紀から16世紀に、フッガー家やヴェルザー家によって金融都市として繁栄を極めたことから、「フッガーシュタット」(フッガー都市)としばしば称される。なお、標準ドイツ語では「アウクスブルク」と発音されるが、日本語では「g」を濁音で読み「アウグスブルク」「アウグスブルグ」等と表記される場合もある。アウクスブルクはレヒ川とヴェルタハ川に面している。都市の最も古い部分および市街地南部は、東のフリートベルクの急峻な丘陵地と西の丘陵地の縁にあたる尾根とに挟まれた北向きのテラス状の支脈に位置している。市の南部には、氷河期に形成された礫原であるレヒフェルトがレヒ川とヴェルタハ川に挟まれて、珍しい太古の風景を留めて広がる。アウクスブルガー・シュタットヴァルト(アウクスブルクの市の森)とレヒタールハイデンは中部ヨーロッパで最も多様な生物種の棲息地域の一つに数えられている。大きな森林地域であるアウクスブルク=ヴェストリヒェ・ヴェルダー自然公園はアウクスブルクに隣接する。この他にも市域内は緑豊かであり、これにより1997年に「最も緑豊かで最も居住価値の高い街」としてヨーロッパ賞を受賞している。この町はバイエルンの市町村の中で最大の森林所有者であり、ドイツ全土でも3番目にあたる。アウクスブルクは、東のアイヒャッハ=フリートベルク郡、西のアウクスブルク郡に挟まれている。南北に細長い形のこの都市は、多くの市町村と境を接している。東から時計回りに、フリートベルク(アイヒャッハ=フリートベルク郡)、ケーニヒスブルン、シュタットベルゲン、ノイゼス、ガストホーフェン(以上、アウクスブルク郡)は立て込んだ市街中心地が直接アウクスブルクの市境に接している。この他の境を接する市町村は、北から時計回りに、レーリング、アフィング、キッシング、メーリング、メルヒング(以上、アイヒャッハ=フリートベルク郡)およびボービンゲン、ゲッサーツハウゼン、ディードルフ(以上アウクスブルク郡)である。アウクスブルク市の構成は行政上、42の市区 (Stadtbezirk) と、その上位組織である17の計画地域 (Planungsraum) で構成されている。こうした構成は1938年に制定された。市域の面積は147kmで、ドイツの大都市中39番目の広さである。17の計画地域は以下の通り。市区は、かつて独立した市町村であった地区がアウクスブルクに合併して市区となったものや、新しい住宅地が整備され市区となったものがある。このため、市区と同じ名の住宅地をもつ市区もいくつかある。フィールテル (Viertel、街区) は英語のクォーター (Quarter) にあたり、市区とは独立した地理上の概念である。たとえば、テクスティル街は一部がシュピッケル=ヘルンバッハ区、一部がインネンシュタットに属し、市区名でこの街区を規定することはできない。一方アウクスブルガー・アルトシュタット(旧市街)のようにインネンシュタット(中核市区)に内包される街区もある。以前はアメリカ軍の兵舎・居住区であったレーゼ=カゼルネ(リース兵舎)は、1998年に最後のアメリカ軍部隊が撤収した後も、この名称を継承している。この中にはセンターヴィル、クレイマートン、リース(レーゼ)、シェリダン、サリヴァン・ハイツ、サプライ・センターがある。アウクスブルクは3つの川が流れる街である。レヒ川が最も大きな川である。その支流のヴェルタハ川は市内を流れ、ヴォルフツァーナウ風致保護地区北部でレヒ川に合流する。アウクスブルクを流れる3つめの川であるジンゴルト川は、オストアルゴイで湧出し、市内に広く分岐した人工の小川・運河網に注いでいる。その多くが旧市街のレヒ街に張り巡らされている無数の運河網はアウクスブルクを、計500本の橋が架かる橋の街にしている。ジンゴルト川が注ぎ込むファブリーク運河は、ゲッギンゲンでヴェルタハ川から分岐してヴェルタハ運河、ホルツバッハ、ゼンケルバッハと名前を変えながら北に向かって流れ、アウクスブルク風船会社の裏でヴェルタハ川に再び合流する。ホッホアプラス堰の地点でハウプトシュタットバッハとノイバッハがレヒ川から分岐するが、数百m後には再び合流する。その少し下流で北に向かうヘレンバッハ(下流ではハンライバッハやフィヒテルバッハを分岐しプロフィアントバッハとなる)や西に向かうカウフバッハを分岐する。カウフバッハはシェフラーバッハを分岐し市の堀と中核市区運河として流れる。北に向かいUPM Kummeneで再び合流してシュタットバッハとなり、ヴォルフツァーナウでプロフィアントバッハと合流後、ヴェルタハ川河口の数m上流側でレヒ川に注ぐ。ミュールバッハ川はプファーゼー市区を流れている。ここから無数の小川が分岐し、中核市区の手前で合流する。レヒ川が流れる森林地域には、余暇施設が人気のクー湖やこれよりも小さなシュテムプフレ湖がある。アウクスブルク北部には、アウトバーン湖、カイザー湖、アウクスブルガー・ミュールベルクのヨーロッパ池がある。アウクスブルク南部には、ヴェルタハ川の堰止め湖、ラウター湖、イルゼ湖(近郊型保養地)がある。アウクスブルク南部の自然保護地区にはアウクスブルクの飲料水の水源がある。アウクスブルクの市の森やウンターベルゲン近郊のレヒアウヴァルトにも水源はある。硬度 13.5°dH(中硬水)のこの水はアウクスブルク、ノイゼス、フリートベルク、シュタットベルゲンに供給されている。アウクスブルクは、1970年代の大規模な市町村合併後、ドイツの大都市中3番目の緑地・森林面積を有する都市となった。アウクスブルガー・シュタットヴァルトは、アウクスブルク南東部に位置する21.5kmの広さのドイツ最大の湿地森林地域である。この森は自然保護区としての役割と、近郊型保養行楽地としての役割の両方がある。市の南西部はアウクスブルク=ヴェストリヒェ・ヴェルダー自然公園の一部である。総面積1,175kmの広さを持つこの自然公園は、バイエルン=シュヴァーベン地方で唯一のものである。北はドナウ川、東はヴェルタハ川やシュムッター川への斜面、西はミンデル川がその境界である。南はウンターアルゴイ地方にまで広がっている。アウクスブルクは環境に優しい照明の連邦モデル都市である。公共照明の光害抑制措置により、電力消費とそれに伴うCO排出量を約20%軽減し、年間25万ユーロの節約になった。アウクスブルク市は、湿潤な大西洋気候と乾燥した大陸性気候の変わり目付近にあたるレヒフェルトの小さな谷に位置している。この他の気候に影響を及ぼす因子には中部ヨーロッパ規模の因子であるアルプスや、それよりは狭い地域の気候境界であるドナウ川がある。これらの因子が干渉しあうことでこの地域の気候は変わりやすい性質を持つ。季節は穏和でそれほど寒くならない冬と、温暖でひどく暑くはならない夏の間で変わる。気温が氷点下から大きく下がるのを防ぐ大量の降雪は、大体1月から3月半ばまで続く。この街はミュンヘンに次いで、ドイツで2番目に雪の多い大都市である。初夏には湿潤な西風に乗って多くの降水がある。長い乾燥期は盛夏から初秋にかけて訪れる。アルプス前山地方からアウクスブルクにかけて、南からのとても暑く乾燥した大気をもたらすフェーン現象は一年を通して起こりうる。この現象は有名なバイエルン・ブルーの青空やバイエリシェ・アルペンやアルゴイアー・アルペンのすばらしい眺望と関係している。年間平均気温は約8.4℃、平均年間降水量は約850mmである。観測史上の最高気温は、1983年7月27日の37.1℃である。また、史上最低気温は、1929年2月12日に観測された -28.8℃である。アウクスブルクは、バイエルン州でも激しい雷雨が最も頻発する地域に位置しており、猛烈な降水によりレヒ川やヴェルタハ川の洪水にしばしば襲われている。最悪の被害としては、1999年にヴェルタハ川の堰が決壊し、全市が水に浸かった事例がある。アウクスブルクは秋になるとしばしば霧に覆われる。これは、この街がレヒ川の渓谷に位置していることに起因しているのは明らかである。アウクスブルクにはローマ時代にはすでに12,000人が住んでいた。その後数世紀間、人口増加はほとんどなかった。1500年頃の人口は約30,000人で、ケルンやプラハに次ぐ神聖ローマ帝国最大規模の都市の一つであった。19世紀の工業化の開始とともにアウクスブルクの人口は急増した。1806年の人口が26,000人であったのに対し、1895年の人口は80,000人に達した。1939年には、さらにこの倍以上の185,000人がアウクスブルクに住んでいたのである。第二次世界大戦でこの街は人口の20%(38,958人)を失い、その結果1945年のアウクスブルクの人口は146,000人であった。人口が戦前のレベルを回復したのは5年後であった。旧ドイツ領からの大量の難民がこの街に流れ込んだこともこの急速な人口増加の一因である。1992年にこの街の人口は過去最大の264,852人を記録した。バイエルン州統計・データ管理局の記録に基づく2005年6月30日付けの「公式な人口」は、262,140人(他の自治体との調整後のアウクスブルクを主たる生活場所とする人口)で、ドイツの大都市中25位の人口である。アウクスブルクの2008年1月1日時点の人口(アウクスブルクを主たる生活場所あるいは副次的な生活場所とする人口で二重計数を排除した数値)は264,265人である。2008年11月現在、就業可能者138,300人中9,181人が職に就いておらず、失業率は6.5%である。隣接する衛星都市・町村を含めたアウクスブルク都市圏には約50万人が住んでいる。外国人比率は16.7%(44,895人)で、ドイツの大都市平均よりもやや高い。ドイツ外の出身者の多くはオーバーハウゼン、シュピッケル=ヘルンバッハ、ホッホフェルト、レヒハウゼン計画地区に住んでおり、トルコ、イタリア、旧ユーゴスラビア、クロアチア出身者が多い。アルメニア系住民もかなりの割合でいるが、彼らはトルコ、シリア、イラン、イラク、レバノンの出身で、多くがシリア正教会に属している。この他に、約5万人の東欧からの引き揚げ者たちもアウクスブルクで暮らしている。彼らはドイツ市民権を有しているが、多くが旧ソヴィエトで生まれた者である。アウクスブルクには、移民を背景にした住民が合計9万人住んでいる。こうした国際的な都市計画は、「In Augsburg ist die Welt zu Hause」(アウクスブルクでは世界中が家にいる)というスローガンに表れている。アウクスブルクの年齢構成はドイツ平均とほぼ同じで、18歳以下が16.0%(43,213人)である。全住民の52.2%(140,592人)が女性、47.8%(128,857人)が男性である。アウクスブルクでは、2001年から定期的にユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の信者が会する「宗教円卓会議」が開催されている。異なる宗教を信仰する者たちが互いに宗教、霊性、儀典、宗教実践について語り合いを始めている。アウクスブルクには、宗教活動の大きな部分を占めるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の他にも、様々な宗教の小規模な信仰組織が数多く存在する。また、無宗教社会論組織の Bund für Geistesfreiheit も1911年から存在している。アウクスブルクはローマ・カトリックの司教座都市であり、同時にプロテスタントのアウクスブルク教会クライスの本部所在地である。住民の多くはカトリック信者であり、8月15日は祝日となっている。さらに8月8日のアウクスブルガー・ホーエ・フリーデンスフェストの日が、ドイツではこの街でだけ、法的な祝日とされている。このため、アウクスブルクではドイツの他の都市や地域よりも祝祭日が1日多い。アウクスブルクは4世紀から5世紀頃にはすでに司教座となっていた。738年頃にアウクスブルク司教区は更新された。1518年からマルティン・ルターの教義を信奉するものが現れ始めた。この教義は普及するばかりで、ついに1534年から1537年に宗教改革は正式に市参事会に受け容れられた。その後、市はシュマルカルデン戦争に参加し、1548年には移行期の宗教行為を制御する帝国会議がアウクスブルクで開催された(アウクスブルク仮信条協定)。7年後(1555年)のアウクスブルクの宗教和議で、両宗派は同等と認められるに至った。こうした事実やルターが滞在したことから、アウクスブルクはドイツ・ルター都市の一つとなっている。比較的強固な組織である再洗礼派は1524年にこの街での活動を始めた。1927年にアウクスブルクでアウクスブルガー殉教者教会会議とよばれる宗派を超えた会議が開催された。カトリックの住民は、かつてはマインツ大司教区の管轄下にあったアウクスブルク司教区に属していた。この都市がバイエルン支配下に移された後もしばらくはこの関係は維持された。1821年になってアウクスブルク司教区とその下部にある司祭区は、新たに創設されたミュンヘンおよびフライジング大司教区の管轄下に移された。プロテスタント信者らは、遅くともヴェストファーレン条約までには、聖アンナ教会、聖ウルリヒ教会、跣足教会、聖ヤーコプ教会を有していた。これらは市参事会の管轄下に置かれていた。アウクスブルクがバイエルンの支配下に置かれた後、これらの教会組織は最初ルター派と改革派の宗教組織を取り込んだバイエルン王国プロテスタント教会の一部となった。この都市は、1827年にまずバイロイト教会役員会に属す教区監督官本部所在地となり、その後上位組織は1876年からアンスバッハ教会役員会、1923年からミュンヘン教会クライスと変遷し、1971年からはアウクスブルク教会クライスの一部となっている。アウクスブルク教区監督官は、市内の教会組織だけでなく、市外、特にアウクスブルク郡やアイヒャッハ=フリートベルク郡の市町村の教会組織をもその管轄下に置く。1648年のヴェストファーレン条約は、アウクスブルクにとって、1548年に制定された両宗派対等の行政運営システム(最終的には役職の配分に至るまで両宗派対等とした)を確認するものであった。この対等に関する制度は1805年の陪臣化まで存続した。自由教会組織は、再洗礼派運動終結後、アウクスブルクでは19世紀から20世紀に再興した。最初はメノー派が1870年からアウクスブルクでの宗教儀式を執行した。1963年にメソジスト教会は「私的教会団体」の権利を得た。1925年頃にはミュンヘンの組織を母体団体とするバプテスト教会が活動を開始した。さらに1968年からアウクスブルクには自由福音派教会がある。宗派別の人口構成は19世紀の初めまではカトリックが60%、プロテスタントが40%であった。この比率はカトリック信者が多い周辺市町村を合併することでカトリック優位に変化し、1950年頃にはプロテスタント住民の比率は約23%まで低下した。南欧や東欧の正教会もアウクスブルクに組織がある。シリア正教会はアウクスブルクで宗教儀式を何度か行っている。アウクスブルクの約3,000人のシリア正教徒は主にトルコ南東部(トゥル・アブディン地方)やシリア出身者でイエスの言葉(アラム語、アッシリア語、シリア語)を話し、メソポタミアに先祖を持つ。これらのキリスト教徒は、その多くがトルコで差別を受け迫害された避難民たちで、1980年頃からガストアルバイター(外国人労働者)としてヨーロッパにやってきた。6,000人以上の信者を持つギリシア正教会は米軍撤退後に旧高射砲隊兵舎のゴスペル教会を購入し、守護聖人 Agios Panteleimon にちなんだ名を冠した。この他、アウクスブルクにはロシア正教ベルリンおよびドイツ主教区に属すロシア正教会もある。この組織は1930年代から存在し、現在は100人ほどの信者がいる。この他に多くのキリスト教系宗教組織が存在している。たとえば、古カトリック教会、新使徒派教会、エホバの証人などである。イスラム教徒はアウクスブルクで2番目に大きな宗教組織を形成している。市内にはそれぞれの目的や重点によって様々に異なった組織があり、これに応じた祈りの場や集会施設が多く存在している。イスラム系住民の多くはトルコからの移民の1世から3世で構成される。その他にアラビア系、ボスニア系、イラク系、それぞれの組織や宗教施設があり、アレヴィー派の文化センターもある。最初のユダヤ人がアウクスブルクにやってきたのは、1世紀のユダヤ人蜂起の際にローマにイェルサレム神殿が破壊された後のことであった。9世紀にはアウクスブルクのユダヤ人に関する史料上の記述が認められている。1438年7月7日に市参事会はユダヤ人が市内に住むことを禁止したため、ユダヤ人らは市内から追い出され、市門の前の現在のクリークスハーバー地区に住み着いた。アウクスブルクのユダヤ人組織の歴史は1803年に再開された。この年、市内の商人たちの強い抵抗にもかかわらず、3人のユダヤ人(銀行家のアーロン・エーリアス・ゼーリクマン、後にアイヒタール男爵となるヤーコプ・オーバーマイヤー、ヘンレ・エフライム・ウルマン)に対して、毎年納付金を納め莫大な借金を引き受けることと引き替えに、市民権が与えられた。その後のユダヤ人家族の増加は緩やかで(1840年 79人、1852年 128人)、定住に際しては相変わらず厳しい審査がなされていた。明らかな方針転換がなされたのは、保守的なカトリック勢力が1857年の選挙で敗北したことによってもたらされた。1861年にはアウクスブルクにイスラエル文化協会が設立された。それまで、クリークスハーバーのラビ管区に置かれていた間の宗教教育は、当時は独立した町であったプファーゼーの教師によって行われていた。行政当局の認可が得られる3年前の1858年にはすでにヴィンターガッセA13番の屋敷を13,000グルデンで購入しており、最初は純粋なシナゴーグに改造し、後にラビや教師の居住空間を増築した。この建物は1685年に完成した。19世紀後半、この街のユダヤ人人口は急速に増加し、1895年には1,156人が住んでいた。やがてユダヤ人墓地が造られ(1867年)、慈善活動が活発に行われるようになった。ユダヤ人の工場主、銀行家、貿易商、小売商らが市の経済生活で重要な役割を担い、街の中・上流階級をほぼ独占するようになっていった。この頃までにはすでに信者らから新しいシナゴーグ建設の要求が再三行われ、加えて市側からの要求もあった。古い建物は、みすぼらしい状態になっていたのである。そこで1903年にハルダー通り沿いの庭園の地所を獲得し、シナゴーグ建設のための建築コンペが1912年に行われた。1914年から1917年までをかけて最終的にはフリッツ・ランダウアーとハインリヒ・レムペルの設計案が採用された。1933年のナチスの権力掌握により、アウクスブルクのユダヤ人は迫害の圧力に繰り返し苦しめられるようになった。5年以内にすべてのユダヤ人企業が閉鎖もしくは「アーリア化」された。ユダヤ人迫害のピークとなる事件が、1938年11月10日早朝の、いわゆる「水晶の夜」である。約30人のNSDAP党員がシナゴーグ内を破壊し、火をつけた。これは周辺の民家や商店、ガソリンスタンドを護るために消火された。こうして焼失を免れたこの建物は、第二次世界大戦中は市立劇場の舞台装置倉庫に転用された。シナゴーグの丸天井には高射砲隊の監視所が設けられた。1933年以降、多くのユダヤ人が流出したにもかかわらず、周辺の田舎から流入する者があり、市内のユダヤ人人口は大幅には減少しなかった。356人から450人のユダヤ人たちは7回に分け、アウシュヴィッツ、ピアスキ、リガ、テレージエンシュタットに移送された。強制収容所の恐怖を逃れた者はほんのわずかであった。第二次世界大戦後この街に帰ってきた数少ないユダヤ人の中に、アメリカ軍司令部によって戦後の初代市長に指名されたルートヴィヒ・ドライフスがいた。1946年にはイスラエル文化協会アウクスブルク=シュヴァーベンが設立されたが、その後長らく大きな成長はなかった。1987年時点での会員数は247人であった。1990年のソヴィエト崩壊に伴う旧ソ連からの移住者によって事態は急速に変わり、シュヴァーベンに属す市町村全体のユダヤ人総数は約1,800人にまで増加した。ワット・ブッダ・アウクスブルク(会員約130人)の創設に伴い、2002年にゲッギンゲン地区に寺院が造られた。この寺院の親寺はタイ王国にある。毎月第一日曜日にはバンコク近郊の寺院 Maha Dhamma Kaya Cetiya からインターネット経由で法要が中継される。この日には参詣する信者が増加する。やがて、この宗教団体はケーニヒスブルンに移転した。仏教徒グループ「禅 イン・アウクスブルク」は2000年から水曜日と日曜日ごとに定期的に瞑想を行っている。教義や作法は伝統的な日本の臨済宗の伝統に則っている。アウクスブルクの創設は、現在のオーバーハウゼン地区にローマの軍団基地が設けられた紀元前15年とされている。この基地は後に補給物資倉庫としても利用された。皇帝アウグストゥスの2人の養子ドルーススとティベリウスが運営を任された。この年号は、アウクスブルクがトリーアに次ぐドイツで2番目に古い都市であることを意味している。また、「アウグスタ・トレヴェロールム」(、トリーアの古名)に次ぐ、アルプスの北側で最大のローマ人入植地の一つでもあった。紀元の替わり目直前に建設された基地は、1世紀には入植地「アウグスタ・ヴィンデリコルム」()となり、121年に皇帝ハドリアヌスはこの街にローマの都市権を授けた。アウクスブルクは95年頃にはイタリア北部にまで広がるラエティア属州の首都になっていた。アウクスブルクがいつ首都になったのか、正確なことはわかっていない。ただ、考古学的出土品から1世紀の遅くまでは、アルゴイのケンプテンにその機能が置かれていたことがわかっている。最新の研究では、ネッカー=オーデンヴァルト=リーメスはトラヤヌス帝治世下の西暦98年に初めて建設されたとしている。この同じ年にマインツからバート・カンシュタット(現在はシュトゥットガルトの一部)を経由してアウクスブルクに至るローマ街道も建設されている。こうした2つの戦略的プロジェクトの開始は、属州の首都がケンプテンからアウクスブルクに移転したことと関係しているのかもしれないが、これを積極的に支持する証拠は今までのところ発見されていない。260年、ユートゥンゲン族がイタリアとラエティアに突如来襲し、数千人のローマ人を捕虜にした。しかし、その帰路2日間にわたる戦闘の末、ローマの総督により全滅させられた。1992年にこの時の勝利の祭壇が発掘された。271年にユートゥンゲン族は他の部族を伴いこの都市を包囲する軍事行動を再度行っている。294年のラエティア分割後、アウクスブルクは Raetia Secunda の首都となった。古代後期にはすでにアウクスブルクは司教座都市となっていた。300年頃から司教ナルキスス・フォン・ギローナに関する伝承が遺っている。市の守護聖人となったアウクスブルクのアフラの殉教もこの頃の事である。450年頃にフン族の襲撃を受けてローマ支配が終焉した後、5世紀からアレマン人がこの地に進出した。しかし入植地は破壊されることなく、その後も存続した。565年に発表された(600年以後にポワチエで殺害された)の詩 Vita sancti Martini の642節には 聖アフラの墓への巡礼について言及されている。8世紀にはフランク王国のカール大帝に占領された。その後、フランク王国は分裂し、東フランク王国を経て、アウクスブルクは中世の何世紀もの間、特筆すべき事件なく過ごした後、神聖ローマ帝国の治世に移った。955年に神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世がの援助を得てと戦ったレヒフェルトの戦いが市の南部で行われた。11世紀にバイエルン大公ヴェルフ1世 (バイエルン公)の支配下に移った。1156年6月21日に皇帝フリードリヒ・バルバロッサはアウクスブルクに再び都市権を授けた。バルバロッサのアウクスブルクの分割は1158年(アウクスブルクが市に昇格した2年後)にミュンヘンの公式な都市創設会議に記録されている。それから約100年後の1251年には印章の使用と市民への課税の権利が与えられた。発展のピークは、1276年3月9日にドイツ王ルドルフ・フォン・ハプスブルクにより保護特権を与えられ、自由帝国都市の肩書きとともに帝国直轄の地位を得たことである。この都市権は1276年の帝国台帳にも記録されている。この拡大された自治権は、司教領主の世俗領主機関である司教本部との間に激しい論争を引き起こし、最も甚だしい時期には司教の主所在地をディリンゲン・アン・デア・ドナウに移したこともあった。1331年11月20日、アウクスブルクはに加盟した。徐々に都市貴族一門が都市の支配権を獲得していったが、問題がないわけではなかった。1368年にツンフト制度を導入しようとした手工業者らが決起した。ツンフト制度導入以後、手工業者らは連帯して業務の調整を行うことでツンフトの権力は急速に拡大した。1388年にシュヴァーベン都市同盟は解消された。近世はじめからルネサンス末にかけてアウクスブルクは世界で最も重要な貿易・経済センターに成長していった。これは特にフッガー家やヴェルザー家といった商家の影響に由来するものであった。の独裁制がこの時代のピークであった。彼は1469年に大きな政治的ビジョンを持って市長となった。彼は下級のツンフト成員を市行政に登用し、アウクスブルク市の負債を完済した。しかし貴族が彼の妨害をした際に暴力的手段を執り、貴族家の兄弟を死刑にしたことを契機に、1478年に失脚して処刑された。がこの街に移住したことが、アウクスブルクの印刷業隆盛の端緒であった。1468年に S. Bonaventurae meditationes vite domini が出版された。宗教書の他に、ドイツ語の通俗本、精神修養書、医学書、暦が出版された。1471年にツァイナーはドイツ初のの一つである Type3を制作した(1470年のによる「Jenson-Antiqua体」がドイツ初と見直されている)。はヴェネツィアから移入したアンティーク体を洗練させた。この他に、15世紀から16世紀への変わり目頃に印刷工場も造られ、アウクスブルクはヨーロッパで最も名高い出版都市に数えられるようになった。この帝国都市には大学がなく、科学や宗教以外の世俗の大衆に市場を求めたことから、1480年から1500年までの間にアウクスブルクで出版された書物の75%がこの地方の方言で書かれていた。ドイツ語版イソップ寓話集は22版と版を重ねた。もこれに貢献した。シェーンスペルガーの Theuerdank はルネッサンスに出版された書物で最大の成功を収めた作品である。この都市は、1529年のシュパイアー帝国会議では新教支持の少数派であったが、プロテスタント運動には加わらなかった。1530年のアウクスブルク帝国議会におけるフィリップ・メランヒトンのアウクスブルク信仰告白で述べられた福音派信仰の布教が妨げられないことを市民階級は要求した。「アウクスブルク信仰告白」はルター派教会の教義と設立意義を述べたものである。アウクスブルク市には1524年から1573年までの間、重要な再洗礼派の組織があった。特に1527年8月に行われたアウクスブルク殉教者会議は、異なった再洗礼派グループの使節が集まる国際会議で教義の確認を行っている。アウクスブルクの再洗礼派の重要人物はヤーコプ・ダハザーとハンス・ロイポルトである。この教会会議の参加者は、そのほとんどが後に殉教している。1534年7月22日に市参事会は、指名された説教師だけが市内での説教を許されることを決議した。カトリックの礼拝は8つの教会に制限され、小さな教会や修道院教会は廃止された。参事会はこの宗教令によって形式上、教会の高権 (Kirchenhoheit) を市に委譲するよう要求したことになる。1540年にはすでにアウクスブルク証券取引所が創設されていた。ツンフトは、その7年後の1547年までには市政に関与するようになっていった。1547年に最終的にツンフト支配が力を失った後、1548年に皇帝カール5世は市政構造の刷新を促し、アウクスブルク仮信条協定を公布した。新しい市政構造では、カトリックとプロテスタントが対等となる統治管理システムが採用された。1555年のアウクスブルクの宗教和議と帝国執行令はこの都市でも市民の共存に関する議論を沈静化させた。その28年後、1583年2月24日にアウクスブルクでグレゴリオ暦が採用された。三十年戦争の間、1632年4月20日にアウクスブルクはスウェーデン軍に占領された。この時代に、ともにアウクスブルクの防衛施設の一部であるスウェーデン塔やスウェーデン階段が造られた。スペイン継承戦争では、1703年12月13日にバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル率いるバイエルン軍によってアウクスブルクは占領された。この軍は1704年にこの都市を明け渡した。18世紀にアウクスブルクで精密器具製造が新たな隆盛を迎えた。これはゲオルク・フリードリヒ・ブランダー(1713年 – 1783年)の名前と密接に結びついている。1784年から1785年に織工の暴動が起き始めた。これは最終的には1794年1月29日の織工の反乱にまで発展した。この争乱の背景には、織工が携わる手工業的繊維業を脅かすコットン織機(プリント模様の平織り綿布の織機)による繊維産業の工業化の兆しがあった。1771年にヨハン・ハインリヒ・シューレはヨーロッパ大陸初の工場である Schüleschen Kattunfabrik をアウクスブルクに設立していたのである。1805年12月21日にはすでにバイエルン軍に占領されたアウクスブルクは、同年12月28日のプレスブルクの和約により帝国自由都市の地位を失い、バイエルン領となった。それまでこの都市は7つの都市貴族家によって支配されていた。1809年に市警察本部が設けられ、市はクライス行政部の直下に置かれた。1862年にベツィルクスアムト・アウクスブルク(後のアウクスブルク郡)が成立した。この郡は、1972年の郡域再編で旧シュヴァープミュンヘン郡、旧ヴェルティンゲン郡の一部、ドナウヴェルト郡およびノイブルク・アン・デア・ドナウ郡のいくつかの町村を合併した。その後1994年にバールをアイヒャッハ=フリートベルク郡に移管し、現在の郡域となった。アウクスブルク市自身は郡独立市を保持している。19世紀にアウクスブルクは繊維工業と機械生産のセンターとして重きをなした。現在MANの略号で知られるMaschinenfabrik Augsburg Nürnbergで、ルドルフ・ディーゼルは1892年にディーゼルエンジンを発明した。この他にも、たとえばメッサーシュミットは1927年からこの街に本社を置いている。また1798年にによって創刊された最も重要な日刊紙の一つであるが、1807年からアウクスブルクに移転してきていた(1882年にミュンヘンに転出)。19世紀末から20世紀初めにかけて、フッガーシュタットにも技術革新が起こった。1881年に鉄道馬車が敷かれ、1898年に路面電車が営業を始めた。第一次世界大戦後の1917年にこの街に電灯が灯った。それまですべての灯りはガス灯であった。1933年の帝国議会選挙で、国家社会主義ドイツ労働党 (NSDAP) は32.3%の票を獲得した。3月9日の「バイエルン国家革命」の開始により、アウクスブルクでは政敵に対するテロが始まった。1929年に選出された市議会は1933年3月末に解散され、3月5日の帝国議会選挙の結果に基づいて(ただしドイツ共産党 (KPD)を除いた形で)市議会の議席が割り当てられた。市政のすべての委員会から締め出されたドイツ社会民主党 (SPD) はNSDAPの市議らによる圧力を受けて5月に市議会を去り、7月5日にはバイエルン人民党 (BVP) の議員もこれに続いた。ドイツ国家人民党 (DNVP) の議員はNSDAPに協力を誓った。4月28日の市議会で第2市長でSPD所属のフリードリヒ・アッカーマンは名目上辞任をし、それ以前に委任を取り付けていたヨーゼフ・マイアー (NSDAP) が新たに第2市長に就任した。7月31日には上級市長のオットー・ボール (BVP) が解任され、8月3日に開催された市議会はエドムント・シュテックレ (NSDAP) を後任とした。こうしてこの街におけるナチスの権力掌握は完了した。これ以前の3月9日にはすでに共産主義活動家が「保護検束」(すなわち拘禁)された。逮捕は初め共産主義者や社会民主主義者に対して行われていたが、やがてユダヤ人やBVP議員などのNSDAPの政敵らにも及ぶようになった。1934年4月30日のゼンガーハレ(現在のヴィッテルスバッハ公園内)の火災はその逮捕の波を助長させた。1933年新たに成立したドイツ帝国はバイエルンを6つの大管区に分割した。アウクスブルクはシュヴァーベン大管区の首都となった。1938年11月のユダヤ人排斥運動では11月10日にハルダー通りのシナゴーグが放火され、ユダヤ人の商店や私邸が襲撃された。1985年にシナゴーグは長い修復作業を終えて再開され、一部はユダヤ博物館に利用されている。ハウンシュテッター通りのユダヤ人墓地にはユダヤ人犠牲者のための追悼碑が建てられている。ビーボ・ヴァーガーをはじめとするレジスタンス運動の闘士や、SPDの州議会議員クレメンス・ヘックらがナチス時代に殺害されている。第二次世界大戦中は、軍需産業の分散化政策に基づき、飛行機製造のメッサーシュミットAG がアウクスブルクに造られ、周辺地域にはダッハウ強制収容所の外部収容所が多く設けられた。クリークスハーバー地区では、現在のウルマー通り沿いの産業公園の場所に女子収容所が造られ、500人のハンガリー系ユダヤ人が収容されていた。ハウンシュテッテン地区では、インニンガー通りの旧砂利採取場付近に2,700人を収容する男子収容所が建設された。この収容所が空爆により破壊された後、プファーゼーの空軍兵舎の場所に新しい収容所が設けられた。ガプリンゲン地区にも1,000人を収容する施設があり、ホールガウにも収容所が設けられていた。235人の収容者が親衛隊に殺害されたか、あるいは劣悪な生活環境に耐えられず亡くなり、西墓地に埋葬された。ここには3つの記念板が掲げられている。2,000人の収容者は1945年の春にプファーゼー兵舎からクリンマハ(現在はシュヴァープミュンヘンの一部)へ死の行進が行われ、多くが命を落とした。アウクスブルクは第二次世界大戦中、空爆により甚大な被害を受けた。メッサーシュミットやMANといった重要な軍需企業があったため、連合軍の空爆目標になったのである。アウクスブルクは10回以上の空爆を受け、このうち2回は大きな被害をもたらした。1942年4月17日の攻撃ではMANのU-ボートのエンジン生産が、1944年2月25日から26日の攻撃ではメッサーシュミットの工場と南ドイツの鉄道の分岐点となっていた中央駅が破壊された。1945年4月28日にアメリカ軍の第7軍の部隊が抵抗を受けることなくアウクスブルクに入り、多くの兵舎や基地をこの街に築いた。これらは最後の部隊が撤退した1998年になって初めて完全に返還された。重要な建築物があった旧市街は戦後に大部分が復興されたが、一部の作業は現在も続いている。アウクスブルクはドイツおよびバイエルン州の政治システムにおいてはシュヴァーベン行政管区の本部所在地となった。ローゼナウシュターディオンを建設した(1951年完成)ことにより、この街は戦後無数に開催された大規模なスポーツイベントの多くの開催地となった。大規模スポーツイベントの最大のものは、「アイスカナル」でのカヌーおよびカヤックの競技会と1972年のミュンヘンオリンピック大会で、バスケットボール、サッカー、ハンドボールの予選がアウクスブルクで開催されている。多くの単科大学を統合した後継者として、経済学、社会学を専門分野とするアウクスブルク大学が1970年に創設された。その後、他の学部が新設され、1974年から新しいキャンパスが設けられ、現在では確固たる地位を築いている。2008年から2009年の学期で約14,000人の学生がこの大学に籍を置いている。市の健康医療システムは何世紀もの間分散化し、組織化されない状態にあったが、「クリニクム・アウクスブルク」と呼ばれる中央病院が建設された1982年に大きな転換点を迎えた。これ以降は、すべての救急患者と手術患者は中央病院で集中的に扱うこととなった。小規模なクリニックは、やがて専門化していった。建都2000年にあたる1985年から黄金の広間の修復が始まり、1996年に完成した。1999年には大きな自然災害も経験した。レヒ川とヴェルタハ川の渓谷に降雨があったと同時にアルプスの雪解けが始まり、増水した川の水が堤を越えたのである。最終的には堰が決壊して全市内が水浸しとなり、多大な被害となった。さらにその後、深刻な不況から大企業の倒産が相次ぎアウクスブルクの経済を揺さぶった。この街の失業率はバイエルン州の平均を超えた。さらに飛行場を大規模な地方空港に拡大する計画の頓挫やBMWの工場誘致失敗といった20世紀の終盤に起こった積極的経済政策失敗の反動が市を直撃したのである。近年のアウクスブルクはモーツァルト・イヤーやブレヒト・イヤーといった様々な大規模文化イベントで注目を集めるようになっている。アウクスブルクは2011年の女子サッカーワールドカップ開催地の一つになっている。Cisa(dea Ciza) がアウクスブルクの女神である。シュヴァーベン族によってレヒ川とヴェルタハ川の間に築かれた都市 Cisaris(後のアウクスブルク)に対するローマ人の包囲戦失敗について、1135年頃にウルスベルク修道院で制作された『Excerptum ex Gallica Historia』の傍注に記述されている。それによれば、この街は女神 Cisaの聖域にちなんで名付けられたとされている。この文書にはさらに、地区名のクリークスハーバーはグリーヒェン・アファー(ギリシアのAvar)に、ハーフェンベルクはローマの軍事長官ハベーノ(またはヘバイノ)にプファーゼーは軍事司令官フェレスにそれぞれ由来すると記述している。この12世紀のテキストは明白な重点をもった散漫な寄せ集めであり、伝承研究にとっては、アレマン時代以前の地域名にありきたりでファンタジックな解釈を施したものに過ぎない。ただし、女神 Cisa についてはヤーコプ・グリムがその著書『ドイツ神話学』で「注目すべき伝承」とはっきりと重視しており、議論の対象となっている。現在の聖ウルリヒおよび聖アフラ・バシリカに近いキッツェンベルク付近でアレマン人によるテュール神崇拝の儀式が行われていたかどうかは、未だに学問上確定していない。アウクスブルクでは、遅くとも中世後期以降にはローマ属州時代のメドゥーサの首が、現在のウルリヒ教会に塗り込められていた。これは現在、市内のローマ博物館で見ることができる。Cisaの姿はペルラハ塔の風見に見ることができる。また、アウクスブルク聖堂の聖堂の扉の彫刻にこの女神を示唆するものがある。「シュトイネルネ・マ」(=「石の人」)は東の市壁、いわゆる「スウェーデン階段」脇のガルス教会に隣接して建つ等身大以上の石像である。これは、パンの塊と盾を持った片腕のパン焼き職人の像である。足下には螺旋状にひねった台座がある。パン焼き職人「コンラート・ハッカー」の伝説は以下のような話である。アウクスブルクが長い包囲戦に見舞われたとき、彼はおがくずでパンを焼き、包囲軍に見せつけるようにしてこれを堀に投げ込んだ。アウクスブルクには壁から投げ捨てるほど大量のパンがあると思った包囲軍は士気を失い、苛立って弩を発射した。その一発がパン焼き職人の腕に当たった。包囲軍はやがて撤収した。歴史上、この事件は三十年戦争時代、精確には1634年から1635年のできごとで、カトリック軍がプロテスタントのスウェーデン軍に占領されていたこの街を包囲した際のものである。パン屋の働きについては、信頼できる証拠はもちろん遺されていない。こうした伝承の背景については、1941年に刊行された「シュヴァーベン歴史協会雑誌」第54号に詳細な研究論文が掲載されている。この論文でエドゥアルト・ラムパートは、以下のように述べている。かつてプルファー通りとウンテラー・グラーベンに面した家の角に素人細工の元々対にならない像があった。これは街の土木工事の際に見つかり、何世代かのうちに前述の家の角に運ばれたものである。この家は1810年まで「市の建築監督官」の公舎となっていた。この像をここに建てたのは、おそらく18世紀の初めから中頃のある建築監督官であろう。歴史的に裏付けのないパン屋のハッカーの話は後に考えられたものである。この像は市壁沿いに散歩する市民に愛されている像である。鼻に触れると幸運になると言われており、恋人たちの好む習慣となっている。バイ・デン・ジーベンキンデルン3番地の家の壁にローマ時代のレリーフ石板が掲げられている。このレリーフには棺の周りに集まって遊ぶ6人の子供が彫られている。伝説では、ローマ時代の司令官が溺死した子供の思い出に制作を依頼した記念板であるという。(「7人の」子供という名であるのに6人しか子供が描かれていない。7人目の子供は棺の中にいるのである。)現在の研究によれば、この石板に描かれているのはキューピッドであり、この石板はかつて石棺の側板であった。市域は古くから周辺地域を併合して拡大しているが、20世紀になされた合併が大きな割合を占めている。合併には2つの波があった。1つは第一次世界大戦前あるいは大戦中で、2つめはバイエルン州の市町村再編がなされた1972年である。アウクスブルクの当時の上級市長ハンス・ブロイアーはさらに多くの市町村合併を目論んだのだが、相手先自治体住民の抵抗に遭い失敗した。1999年7月1日に郵便配送センター建設のため、隣接するゲルストホーフェンとの間で市域の交換がなされた。アウクスブルクの名前は、ローマ時代の都市名 Augusta Vindelicorum を起源する。現在の市名に引き継がれた前半部分の Augusta は、紀元前15年にこの街(最初は軍事施設であったが)の建設を2人の養子ドルーススとティベリウスに命じた皇帝アウグストゥスを示す。後半の Vindelicorum は当時ヴェルタハ川(ラテン名 Vinda)とレヒ川(ラテン名 Licus)の間に住んでいた部族であるヴィンデリカー族 (Vindeliker) を示している。アウクスブルクのトップとしては、1266年に市参事会の議長を務めた Stadtpfleger(市の保護者)という職名が遺されている。この職は、時々は Bürgermeister(後の市長にあたる言葉)と称することもあり、さらに2つの肩書きが同時に使われることもあった。1548年になって初めて肩書きが Stadtpfleger に固定された。この職の在職期間は長期におよび、やがて終身職となり、何人もの Stadtpfleger が同時に存在した。バイエルン州への移管後、アウクスブルクには2人の Bürgermeister職が設けられた。1919年に「市議会」が開設されることとなり、これ以後 Erste Bürgermeister(第一市長)が市の代表者となった。第一市長はもっぱら Oberbürgermeister(上級市長)の肩書きで呼ばれる。第二次世界大戦後の上級市長を列記する。2008年3月16日にクルト・グリープルは決選投票の末に当時現職のパウル・ヴェンゲルトを破り、2008年5月2日に上級市長職に就任した。アウクスブルクは第253アウクスブルク市選挙区に属す。この選挙区にはアウクスブルク郡のケーニヒスブルンも含まれる。アウクスブルクの市章の公式な紋章学上の記述は、赤字と銀地に左右二分割。中央に緑のツィルベルヌス(直訳するとツィベルキーファーという植物の種子であるが、ここでは図案化されたマツカサ状の意匠を指す)。1985年以降、ツィルベルヌスは緑の柱頭の上に描かれている。市の旗はこれに対応して赤 - 緑 - 白である。確認されている最も古いアウクスブルクの市章は1237年のもので、2つの塔がある胸壁の門とその上に星というデザインのものである。門の中には生命の樹が描かれていた。1260年からは、その下にブドウが加えられた。これはブドウの種名である「アウクステル」が市の名前を暗示するものである。15世紀に紅白に左右分割された地の上に緑のブドウが描かれたものが現れ、マツカサ(ローマ時代の墓石の上に飾られていた)が発掘されたことで、1467年にこれに変更された。これ以後、ブドウの代わりにマツカサが描かれるようになった。柱頭は1521年に初めて見られ、1811年から城壁冠となった。このシンボルの意味は明らかでない。市の色は1372年以降、知られている。建都2000年を機会に1985年に紋章は時代趣味に従って新しく改変された。ツィベルヌスは様式化されたマツカサでありローマ軍の軍団識別標識であり、後にラエティア属州の首都のシンボルとなった。現在もツィベルヌスは市内の至る所で見ることができる。他のドイツの都市と同様に、アウクスブルクの姉妹都市の歴史は第二次世界大戦後に始まった。1956年、ミュンヘンにあるイギリス総領事館からスコットランドの都市とアウクスブルクとの間で姉妹都市の提携を結びたいとの希望が示され、その候補として第3の都市であるインヴァネスが提案された。同じ年に公式な代表団の相互訪問がなされた後、継続的な文化交流がなされ、姉妹都市となった。興味深いことに、この姉妹都市協定は文書での契約が記録として残されていない。最初のドイツ=日本間の姉妹都市協定は、第二次世界大戦前にミュンヘンで学び、その研究に関連してルドルフ・ディーゼルに興味を持ってアウクスブルクをたびたび訪れていた一人の日本人、山岡孫吉の功績による。山岡は戦後、ヤンマーディーゼルの社長となり、ヴィッテルスバッハ公園に記念林を贈った。その後、彼は政治上、あるいは個人的な影響力を行使して、1959年に自らの会社の工場がある長浜市および尼崎市とアウクスブルク市の間で二重の姉妹都市協定を締結した。そのわずか5年後に、今度はアメリカ合衆国の都市デイトンと姉妹都市協定を締結した。これは元々、1956年にアイゼンハワー大統領が発表した「ピープル・トゥー・ピープル」プロジェクトの一環であった。これに、デイトンを本拠とするアメリカのNCRコンツェルンのドイツ本部がアウクスブルクにあったことが、友好関係を助長した。最終的に姉妹都市関係は「シスター・シティー・コミッティー」(姉妹都市委員会)の創設により牽引された。1963年の独仏友好条約を承けて、その1年後にアウクスブルク市議会はフランスの都市との姉妹都市協定を結びたい意向を示した。国際市長同盟での協議を経てフランス中央に位置するブールジュがその相手となった。姉妹都市協定は1967年4月に締結された。その以前から、良好な相互訪問や交流が行われている。次の姉妹都市協定は、この31年後に締結されたのだが、これはそもそも第二次世界大戦直後にまで遡る。1955年にアウクスブルクはチェコの都市リベレツ(ドイツ名: ライヒェンベルク)からの避難民すべてに対する保護協力を申し出ていた。これに基づき、アウクスブルクの至る所で新しい家屋が見られるようになった。冷戦終結後に旧避難民たちはかつての故郷と定期的な相互訪問プログラムなどの、とりわけ文化レベルでの接触を再開し始めた。こうした交流が発展し、2001年5月1日に公式な姉妹都市協定が締結されるに至った。1987年7月9日にバイエルン州と中国の山東省との間で姉妹州協定が締結された。これを承けて、省都である済南市がバイエルン州の都市との姉妹都市協定に関心を寄せた。相互訪問や公的接触の後、2004年9月3日に両市の市長は姉妹都市協定締結に関する公式文書を発効した。このようにアウクスブルクは3つの大陸の7つの都市と姉妹都市協定を結んでおり、住民の相互理解を深めるような親密な交流を行っている。それは様々な分野でなされており、とくに交換留学、スポーツ・音楽・芸術交流、あるいは様々な郷土グループの相互訪問などの活動として表れている。1954年、ドイツ都市会議の提案を承けて、ゲッギンゲン市はズデーテン地方のノイデック市(チェコ名: Nejdek)およびノイデック郡からのドイツ人避難民に対する保護協力を引き受けた。アウクスブルクはゲッギンゲンを合併して以降、この保護協力関係を引き継いでいる。同じ年にアウクスブルク自身は、新たに市に昇格したシュヴァーベンのイレルティッセンの後見役となっている。その1年後にアウクスブルクは、現在はチェコに属すライヒェンベルク(チェコ名: リベレツ)からのドイツ人難民すべてに対する保護協力を引き受けた。この関係から、鉄のカーテンが外された後、両者の間で公式な姉妹都市協定が結ばれた(姉妹都市の項参照)。このフッガー都市はこの他に、いくつかの乗り物の後見役にもなっている。帝国時代の1909年からSMSアウクスブルク号という小型巡洋艦があり、連邦海軍は1958年からF222とF213の2隻のフリゲート艦に「アウクスブルク」の名をつけている。2008年からはアンマーゼー船団の客船アウクスブルク号が就航しており、ドイツ鉄道のICE 3型車両にも2002年からアウクスブルク号が登場している。アウクスブルクは、歴史上常に文化的中心であり続け、現在もなお様々な文化・芸術分野で地域を越えて重要な都市である。Augusta Vindelicorum としてローマ人が定住していた時代からは、わずかな出土品が保存されているが、その大部分が博物館で展示されている。現在も大部分が保存されているローマ時代のクラウディア・アウグスタ街道沿いに立つのが、最もよく当時の生活を感じ取る方法である。中世には、街の姿を特徴付けるような建築物、特に宗教建築が建造された。なかでも重要なのは、「我らが聖母大聖堂」と「聖ウルリヒおよび聖アフラ・バシリカ教会」である。大聖堂の南のクリアストリーにある1140年頃に創られたステンドグラスは、ロマネスク様式のステンドグラスとして世界で唯一のものである。この時代のもう一つの重要な教会芸術作品が1065年に製作されたアウクスブルク聖堂のブロンズの扉である。この扉は2000年に修復された。中世のアウクスブルクは大規模な防衛施設とそれを結ぶ市壁に取り囲まれていた。フュンフグラート塔やヴェルタハブルッカー門をはじめ、これらの施設の一部は現在も保存されている。市壁内には当時、金銀細工師が住んでおり、何世紀にもわたり高い名声を享受していた。その作品は現在も様々な博物館や展示会で見ることができる。この都市は現在も、この分野の手工芸品製造者人口が他の都市に比べて突出して高い。ルネサンス期にアウクスブルクは圧倒的な隆盛を経験した。ハンス・ホルバインやハンス・ブルクマイアーといった傑出した芸術家がこの街で活動し、中央ヨーロッパで最も重要な文化的中心都市となったのである。この時代には、特にフッガー家やヴェルザー家といった裕福な商人の経済的援助を得て、重要で有名な建造物が建設された。エリアス・ホルは市庁舎を建設した。この建物は、アルプスの北側で最も重要な世俗ルネサンス建築と賞賛され、プラハトブルンネン(直訳すると「豪華な泉」、アウグストゥスの泉、ヘラクレスの泉、メルクリウスの泉の総称である)の上にそびえている。この他、フッゲライは最古の社会福祉住宅であり、現在も同じ用途に用いられている。その後の時代様式もアウクスブルクにその痕跡を残している。特にロココは、「アウクスブルク風」とも呼ばれ、この街に印を刻んでいる。この時代の建造物には、司教宮殿やシェツラー宮殿などがある。産業革命の時代には、たとえばシュレーシェ・カッツンファブリーク、グラスパラスト、あるいはファブリークシュロスといった工場施設が建設され、現在はその大部分が別の目的(博物館や芸術ギャラリー)に用いられている。またGignoux家、ハーク邸、ジルバーマン邸といった工場経営者の邸宅も建てられた。ユーゲントシュティールはアウクスブルクにシナゴーグ、プファーゼー地区のヘルツ・イェズ教会やアルテス・シュタットバート、その他の風変わりな建物を遺した。第二次世界大戦勃発前の1937年にアウクスブルク動物園が開園した。戦後この動物園はエキゾチックな動物を展示し、年間50万人を超える来園者がある、バイエルン=シュヴァーベン地方で最も来訪者の多い文化施設である。第二次世界大戦後には、特に大規模な催事場が造られた。なかでもローゼナウシュターディオンは当時最も近代的なスタジアムとして建設された。また、シュポルトハレ(体育館)、ホテル塔を併設した会議センター、クルト・フレンツェル・シュターディオンといった打放しコンクリートの建造物が多く建てられた。バイエルン州文化財保護局が作成・発表している文化財リストには2009年の時点で1226件のアウクスブルクの個別文化財が登録されている。これは、この都市の全建造物の約1.6%にあたる。さらにアウクスブルクは20件の建造物群および65の広場ならびに通りの景観で構成される広域旧市街建造物群が登録されている。マクシミリアン博物館は1855年に建設された建物で、2000年前後に大規模な改修がなされたが、その歴史モダンな雰囲気は保たれている。展示スペースは何階にもわたっており、彫刻、金細工作品、建築図面、市の歴史コレクションといった展示品目ごとに分けられている。また、一部入れ替え展示がなされている。シュヴァーベン手工業博物館はシュヴァーベン手工業会議所が運営する博物館で、たとえば理髪師兼外科医、馬具職人、靴作り職人、時計作り職人、パン焼き職人、製本職人、服飾雑貨製造職人といった古く、多くは後継者のいない手工芸について紹介している。ここでは、その設備、道具、材料を見ることができる。この他ツンフトに関する展示もある。旧ドミニコ会聖マグダレーナ修道院の一角にあるローマ博物館にはアウクスブルクおよびその周辺地域で発見された石器時代から

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。