桂宮宜仁親王(かつらのみや よしひとしんのう、1948年(昭和23年)2月11日 - 2014年(平成26年)6月8日)は、日本の皇族。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第二男子。今上天皇の従兄弟にあたる。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は桂(かつら)。勲等は大勲位。学位は政治学士(学習院大学)。戦後初めて、独身で宮家を創設した。住居(正式には「御仮寓」)は東京都千代田区三番町6番地18宮内庁分室。1948年(昭和23年)2月11日に三笠宮崇仁親王の第3子(第2男子)として生まれた。20歳の誕生日の後、1968年(昭和43年)2月27日に成年式を行い、大勲位に叙されて、菊花大綬章を授与された。1971年(昭和46年)に学習院大学法学部政治学科を卒業して、オーストラリア国立大学大学院に2年間留学した。帰国後、1974年(昭和49年)から1985年(昭和60年)まで、NHKに嘱託で勤務したほか、オーストラリアに留学したことが機縁で日豪協会総裁に就任した。他に日本・ニュージーランド協会など各協会の総裁を務めた。このころは、兄寛仁・弟憲仁と比較して、公の場に姿を現すことはごく少なかった。先天性の疾患があったともいわれ、長く侍従長を務め、三笠宮一家とも親しく接した入江相政の日記には、しばしば宜仁の病状や体調に関する言及が見られる。伯父の高松宮宣仁親王を強く敬慕していたこと、また皇族の数がすでに減少傾向にあったことから、高松宮の死後、大日本農会、大日本山林会、日本工芸会、日本漆工協会の各総裁を受け継いだ。とりわけ大日本農会にあっては、農事功績者の紫白綬有功章・紅白綬有功章・緑白綬有功章の記章の授与を行うなど、表彰をはじめとした各行事に臨席した。1988年(昭和63年)1月1日に、昭和天皇から「桂宮」の称号を与えられ、独立の生計を営むようになった。宮号はお印のカツラ(桂)に因んだもので、かつての四親王家の一つである旧桂宮家とは無関係とされている。同年2月20日に、宮家創設の祝宴を開いた。しかし、その3か月後の同年5月26日、自室で意識不明の状態で倒れているところを職員に発見された。すぐに都立広尾病院に入院して、手術を受けた。病名は未公表ながら、急性硬膜下血腫などと報道された。急性硬膜下血腫は、厳密には病気ではなく、頭部の強打により脳挫傷が起き、脳から出血して硬膜と脳の間に血液がたまり脳を圧迫するもので、死亡率はきわめて高い。いずれにしても転倒・転落などの事故があったことになる。幸いにも同年8月に意識を回復し、同年11月に退院した。翌1989年(昭和64年/平成元年)初めにあった昭和天皇の死去と今上天皇の即位に伴う一連の行事は欠席したものの、リハビリの甲斐もあり、1991年(平成3年)11月には公務に復帰した。以降、右目の視力の喪失、記憶障害、右半身の麻痺といった後遺症を抱えつつも、車いすを使用しながら公務を行なった。2008年(平成20年)9月28日、予定されていた第63回国民体育大会の観覧出席を急遽取りやめ、敗血症の疑いで東京大学医学部附属病院に入院した。同年12月2日には、集中治療室から一般病棟に戻ることができ、リハビリも本格的に始めた。翌年の2009年(平成21年)3月29日に退院して、宮邸で療養につとめた。2011年(平成23年)冬、唾液などが気管に入って発症する誤嚥性肺炎が頻発したため、喉頭をふさぐ声門閉鎖手術を東京大学医学部附属病院で受けて、同年12月30日に退院した。このときの手術により発声能力を失った。2014年(平成26年)1月、高熱のため東京大学医学部附属病院に1か月入院。以後は、発熱などで入退院を繰り返した。同年6月8日午前9時すぎ、東京大学医学部附属病院に救急搬送されたが、すでに心肺停止の状況だった。同日午前10時55分、急性心不全により薨去した。66歳。死去にあたっては内閣総理大臣謹話が発表され、一般からの弔問記帳を受け付けた(同10日から16日までの7日間で3268人が記帳)。同年6月17日には、父の三笠宮崇仁親王が喪主(喪主代理は姪の彬子女王)、生前親交のあった一條實昭が司祭長(司祭副長はNHK勤務時の同僚の長谷昴彦)となり、豊島岡墓地で喪儀(斂葬の儀)が執り行われ、560人が参列した。墓所は同じく豊島岡墓地に、兄の寬仁親王、弟の高円宮憲仁親王の墓所と並ぶように建てられる。政府の正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠することはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示を掲載する官報では「宜仁親王」と表記され、「桂宮」は冠さない。ただし、同じ政府の表記であってもホームページなど「国民一般に対するわかりやすさ」を重視する場面では「桂宮」の表記も用いる。ちなみに戦後新宮家の設立は、次男以下が婚姻による独立を契機にして行うことが多いが、宜仁親王は独身のまま宮家を創設するという珍しいケースに該当する。生涯にわたり妻子が無かったことから、桂宮家は「一周年祭の儀」と、その二日後の「権舎の儀」を経て断絶することになる。
出典:wikipedia
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