オスナブリュック(Osnabrück 、: )はドイツのニーダーザクセン州に位置する同州の代表的な都市である。16万人強の人口を有し、これは同州においては州都であるハノーファー、ブラウンシュヴァイクに続く第三の規模にあたる。近隣の都市として、43km南東にビーレフェルト、44km南西にミュンスター、45km東にライネが位置している。1974年創立のオスナブリュック大学がある。市から35kmほど離れた地点にミュンスター・オスナブリュック国際空港がある。ミュンスターからこの空港へは約25kmである。オスナブリュック中央駅は優等列車であるインターシティやICE(少数のみ)が停車する。ハンブルクやブレーメンなどとルール地方や南ドイツなどを結ぶ南北の線とベルリンやハノーファーなどとオランダのスキポールなどとを結ぶ東西の線とが交差する交通の要衝である。中央駅から市中心部のノイマルクトまでは徒歩10-15分程度である。市内交通では主にバスが便利である。路面電車は1906年に運行が開始されたが、1960年に廃止された。西や北西からの風の影響により夏は涼しく、冬は雨がちではあるがそれほど寒くならない。年間の平均気温は9.4℃であり、1月が平均1.8℃で最も寒く、7月が平均17.6℃で最も暑い。市の南東から北西にかけて(エムス川支流)が流れている。市の北側にはヴィーエン山地のヘーエンツーク山が立ちはだかり、南側には9年にトイトブルク森の戦いがあったトイトブルクの森林地帯が広がっている。隣接する独立市はなく、北部、東部、南部でオスナブリュック郡と、西部でノルトライン・ヴェストファーレン州のシュタインフルト郡と接している。オスナブリュックは780年にカール大帝によって司教座が置かれて以降、発展した都市である。地名の由来はハーゼ川の古名、オスナに「橋」を意味する「ブリュック」がついた。1648年にはオスナブリュックとミュンスターにおいて、三十年戦争の講和会議が行なわれ、ヴェストファーレン条約(日本では一般的にウェストファリア条約と呼ばれる)が締結された。これに由来し、オスナブリュックは「平和都市・オスナブリュック」を名乗っている。1669年にはハンザ同盟都市となった。1661年、エルンスト・アウグストはこの地の統治者となり、後にハノーファー選帝侯になった。息子のイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世は、1727年にオスナブリュックで亡くなった。第二次世界大戦では連合国により計79回もの空襲を受けた。最初の大規模な空襲は1942年6月20日で、英国により、9000発の焼夷弾を投下された。同年10月6日には同じく英国が計1万1000発の破裂弾と焼夷弾を投下した。1944年9月13日には2171発の破裂弾と18万1000発の焼夷弾が投下され、市内の歴史的な建造物のほとんどは壊滅的な損傷を受けた。さらに、同年10月13日には2616発の破裂弾と1万6000発の焼夷弾が投下された。空襲による市民の死傷も多く、多い時では米国の1日の空襲により、241人の死亡者が出た。また、これらの空襲によって、市域の65%、歴史地区の94%が破壊された。VfLオスナブリュックが、オスナブリュックを代表するサッカークラブである。近年は、サッカー・ブンデスリーガ2部への昇格と地域リーグへの降格を繰り返している。2004-05シーズンのリーグ戦においては好成績を維持しており、近郊のブラウンシュヴァイクなどと、激しい昇格争いを展開している。再び2部への復帰が期待される。日刊の一般紙として、1967年より、新オスナブリュック新聞(Neue Osnabrücker Zeitung)が発行されている。先に見たように姉妹都市の締結がなく、行政レベルでの関係構築は活発でない。在オスナブリュックの日本人は、オスナブリュック大学で学ぶ日本からの留学生や正規生があわせて10人ほどと、ドイツ人男性と結婚した日本人女性数人ほどである。また、オスナブリュック大学には「日独研究会」、さらに大学外には「オスナブリュック日独友好会」などが存在する。ダイヤモンド社のガイドブックである「地球の歩き方」には掲載されておらず、日本に紹介されている観光資源が少なく、知名度の高い都市ではないため、観光客はほとんどいない。しかし、稀にハンブルク方面やルール地方方面からの列車が遅延し、オスナブリュック中央駅で1日数本しかないオランダ方面への直通優等列車の乗り継ぎが予定通りできなくなった際、次の列車を待つため中央駅周辺で暇を潰している観光客はいる。
出典:wikipedia
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