厚生連富士見高原病院(こうせいれんふじみこうげんびょういん)は長野県諏訪郡富士見町にある長野県厚生農業協同組合連合会(JA長野厚生連)が経営する病院。1926年(大正15年)に富士見高原療養所として設立された。結核の高地での長期療養を主目的としたサナトリウムであったが、初代院長の正木不如丘は周辺住民の結核療養所に対する忌避感情に配慮し、外科・眼科・耳鼻科・婦人科なども設置した。しかし標榜科を増やしたことから人件費がかさみ、療養所は3年で財政難に陥った。文才もあった正木は、文筆活動で収入を得、療養所の経営を支えた。戦後は医療の進歩もあり結核療養施設の意義は薄れ、正木も医師を引退する。1981年(昭和56年)には長野県厚生連の管理に移管、後に周辺地区の病院・診療所・老人福祉施設を運営する組織として富士見高原医療福祉センターが成立すると、富士見高原病院はその富士見事業部下の本院として位置付けられている。この病院の前身である「富士見高原療養所」は、1926年、株式会社組織の総合病院として設立された。かつては不治の病とされた結核患者の療養所(サナトリウム)として機能させるため、八ヶ岳山麓の空気清浄なこの地に設けられた。文学の素養にも秀でた初代院長・正木俊二(筆名:正木不如丘)の交友関係から、堀辰雄・竹久夢二・横溝正史らの文人もここで療養生活を送った。また、当時の結核療養の状況を背景とする、患者や看護婦らの恋愛模様を描いた原作に基づく映画撮影の舞台としても用いられ、その悲恋物語が人々の涙を誘うヒット作品となった。(『月よりの使者』『愛染かつら』『風立ちぬ』など)長らく創立当時の病棟が「旧富士見高原療養所資料館」とされ、往時の様子を偲び、「亡国病」ともいわれた結核の歴史と現況を伝えていたが、老朽化が著しくなり、耐震性にも問題があることから解体されることになり、2012年9月から解体工事が開始された。2012年10月には病棟のあった場所で6階建て新病棟の起工式が行われた。旧病棟の展示資料や現在の建物の一部は保存される予定。
出典:wikipedia
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