マイケル・マリオ・アンドレッティ(Michael Mario Andretti、1962年10月5日 - )はアメリカ合衆国ペンシルベニア州ベスレヘム出身の元レーシングドライバー。1991年のCARTチャンピオン。父はF1とインディカー・ワールドシリーズの元チャンピオンで1969年のインディ500優勝者のマリオ・アンドレッティ。息子のマルコと従兄弟のジョンとアダムは現役のレーシングドライバー、叔父のアルドと末弟のジェフも元レーシングドライバーである。2010年現在はインディカー・シリーズに参戦している、アンドレッティ・オートスポーツオーナー。1981年に北アメリカ・フォーミュラ・フォード、1982年に北アメリカ・フォーミュラ・スーパー・veeでチャンピオンを獲得。1983年も北アメリカ・フォーミュラ・アトランティックでチャンピオンを獲得し、また2度目の参戦となったル・マン24時間レースでは、父マリオ、フィリップ・アリオーと組んで総合3位に入っている。順調にキャリアを積み重ね、同年の終盤にはCARTへの参戦を開始。翌1984年より本格参戦となりこの年は最高3位、1985年は最高位2位と順位を上昇させていった。1986年に、初優勝を含め3勝を挙げランキング2位に食い込むと(PPも3回記録)、1987年にも4勝・2PPでランキング2位に入る等、ほぼ毎年優勝・PPを記録しランキング上位に顔を出すようになる。ただし1988年は未勝利でランキング6位に終わった(PPは1回マークし、非選手権では勝利も記録)。1989年よりニューマン・ハースに所属。移籍初年度に2勝・2PPでランキング3位、2年目の1990年に5勝・4PPでランキング2位となり、1991年には8勝・8PPで念願のチャンピオンに輝く。1992年も1勝・3PPながらランキング2位となり、アメリカにおいて、最も成功を収めたレーサーとしての地位をほしいままにしていた。父のF1時代にGPに同行していたマイケルは、元々アメリカ人ながらF1で成功することを夢としていた。1991年・1992年とマクラーレンのテストに参加した後、1993年に本契約を結び、F1参戦が実現した。CARTチャンピオン経験者として参戦することになったマイケルは、契約時に「アラン・プロストやアイルトン・セナにも勝つ自信がある」と強気なコメントを発し、成功への自信を示していた。しかし、迎えた開幕戦南アフリカGPではスタートでエンストし、その後デレック・ワーウィックに接触し4周リタイア。第2戦ブラジルGPでは、デビュー2戦目ながら予選5番手を獲得するも、決勝はスタート直後の1コーナーで、ゲルハルト・ベルガーを巻き込んで宙を舞う派手なクラッシュを起こし0周リタイア。そして第3戦ヨーロッパGPでも、オープニング・ラップでカール・ヴェンドリンガーに接触し、0周リタイア。開幕前は注目と期待の大きかったマイケルだが、チームメイトのセナとの予選でのタイム差や、3戦を終了した時点で全て接触リタイア(セナは2勝・2位1回)で全周回合わせても4周足らずという状況に期待の声は急速に薄まっていった。第4戦サンマリノGPではようやくまともに周回を重ね、一時5位まで上昇したが、結局32周目に単独スピンを喫し4戦連続リタイアに終わった。第5戦スペインGPで5位に入りF1初入賞、その後暫くは完走を続け、第8戦フランスGPでは6位に入り2度目の入賞となった。しかし第9戦イギリスGPでは、スタート直後にジャン・アレジと接触してスピンを喫し0周リタイア。その後も第10戦ドイツGPでは、5周目の接触事故でリタイア、第11戦ハンガリーGPではスロットルトラブルによりリタイア(マシントラブルによるリタイアはこれのみ)と3戦連続リタイアを喫した。第12戦ベルギーGPは入賞圏外の8位で完走、続く第13戦イタリアGPでようやく3位表彰台を獲得するが、直後にシーズンの残り3戦を残してマクラーレンとの契約を双方合意の上で解除した。マイケルが翌年からのアメリカ復帰を希望し、アメリカで有力チームとの交渉を優先するために契約の解除を申し入れ、ロン・デニスがこれに応じたものであった。結局1度もトップはおろか、マイケルとセナが共に完走したレースでは、セナとも同一周回でフィニッシュしたことは無かった。期待と裏腹の成績に終わった理由は、「アメリカのオープンな雰囲気とF1の閉鎖的な雰囲気の違いに馴染めず、また欧州に拠点を置かずレース毎にアメリカからサーキットへ入る生活を続けたことから、なかなか思う通りの成績を収めることができなかった為」「当時のF1マシンはサイドプロテクターが無く、肩まで露出するコックピットに恐怖を覚えていた」とされることが多い。しかし後年、息子であるマルコ・アンドレッティは、「当時、将来有望で手頃なテストドライバーであったミカ・ハッキネンが父の後ろで控えていたため、マクラーレンが故意にアンドレッティを悪く見られるような作業をした。セナさえも不憫に思い、自身のスペアカーをレースカーに提供したいとチームに進言したほどだった」と発言し、マクラーレンチームを糾弾している。真偽のほどは定かではないが、マクラーレンはこの発言に対し、公式な回答はしていない。1994年にアメリカへ戻ると、以後毎年勝利を記録し、再びCARTのトップドライバーとして活躍。息の長い活躍から、「ミスターCART」と呼ばれるようになっていった。2003年には、自らのチーム(アンドレッティ・グリーン・レーシング(AGR))をチーム・グリーンとジョイントする形で結成。インディカー・シリーズへ転向したが、シーズン途中でドライバー業を引退し、チームオーナー業に専念するようになった。しかし、2006年のインディ500には「カーナンバー"1"」を付け(IRLではチャンピオン自身にではなく、チャンピオンを輩出したチームに1をつける権利がある)参戦し、久々のレースながら3位を獲得。息子マルコも参戦し2位となっており、レースでは親子対決も見られた。また同レースにおいては、ビル・ブコビッチと同様、3代に渡っての参戦となった。その後チームはチップ・ガナッシ・レーシングとチーム・ペンスキーの2強に次ぐ有力チームに成長、2007年にダリオ・フランキッティ、2012年にライアン・ハンター=レイがこのチームでシリーズチャンピオンを獲得した。1993年、輝かしいアメリカでのキャリアに比べて、F1で思うような成績を収められなかったことと、同年にナイジェル・マンセルがあっさりとF1とCARTでの「2年連続」のチャンピオンを獲得したこととにより、F1とCARTのドライバーのレベル差が論争の的となった。その後、ジャック・ヴィルヌーヴがCARTチャンピオン獲得後にF1でもチャンピオンを獲得したが、アレックス・ザナルディはCARTチャンピオン獲得後F1に復帰するものの全く結果を残せなかった。2008年にはCART後継シリーズのチャンプカーで4年連続チャンピオンの金字塔を樹立したセバスチャン・ボーデがスクーデリア・トロ・ロッソからF1に参戦し注目を集めたが成績不振で2009年の第9戦ドイツGPを最後に解雇されている。アメリカにはCARTやインディカー・シリーズ、NASCARなどの国内カテゴリーが盛んなことや、前者と比べアメリカ国内でのF1の人気が低いこともあり、F1ドライバーが多く輩出されない。父マリオがF1を引退して以降、アメリカ人のF1参戦者はエディ・チーバー、ダニー・サリバン、マイケル、スコット・スピード、アレクサンダー・ロッシの5人しかいない。アンドレッティは1985年11月から1996年までサンドラ・スピノッツィと結婚していた。彼らの間にはマルコ(1987年3月13日 - )という息子とマリッサ(1990年10月31日 - )という娘が生まれた。1997年12月24日にレスリー・ウッドと再婚、ルッカ(1999年9月16日 - )という息子が生まれている。2004年9月7日にレスリーとの離婚を申請。約2年後の2006年7月15日、1994年ミス・ティーンUSAオレゴン州代表でモデル・女優、2000年のPLAYBOY誌プレイメイト・オブ・ザ・イヤーでもあるジョディ・アン・パターソンとの婚約を発表。2人は2006年10月7日、カリフォルニア州ナパのアンドレッティ・ワイナリーで結婚。マイケルの出自であるアンドレッティ家は著名なレース一家である。父親はフォーミュラ1、インディ500、NASCARの伝説的ドライバー、マリオ・アンドレッティ。 弟のは、CART、インディ500に参戦。マイケルのおじ(マリオの双子の兄弟)は事故で引退するまでフォーミュラカーレーサーであった。 アルドの息子(マイケルのいとこ)はNASCARのレギュラーになる以前はインディカーに出場していたが、インディ500に出場するためインディカーに復帰、2007年から2011年にかけて参戦。アルドの他の息子、もレーシングドライバーである。マイケルの息子マルコは2006年にインディカー・シリーズにデビューを果たした。アンドレッティ家は5人の親族(マイケル、マリオ、マルコ、ジェフ、ジョン)が同じシリーズ(CART、チャンプカー、インディカー)に参戦するという名門となった。
出典:wikipedia
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