昭王(しょうおう、? - 紀元前489年、在位:紀元前515年 - 紀元前489年)は、中国春秋時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は珍または軫。平王の子。昭王の母は秦の公女で平王の太子建()に嫁ぐ予定だったが、太子と不仲だった少傅の費無忌が破談に追い込み、平王の側室とした。生まれたのが昭王である。この事件を機に平王と太子建は対立、太子派の重臣だった伍奢と長男の伍尚()が処刑され、次男の伍員(伍子胥)は逃亡した。前506年の柏挙の戦い()では、伍子胥率いる呉の軍勢が楚の都郢に攻め入ったので、昭王は都を脱出して隨に逃れた。楚の臣申包胥は秦を訪れ、哀公に救援を求めたが、哀公は当初これに応じなかった。そのため、申包胥は秦の宮廷の庭で7日7晩にわたって泣き続けた。哀公はその忠誠心に感じ入り、ついに楚に援軍を出した。これにより楚は呉軍の撃退に成功し、昭王は郢に戻ることができた。帰国した昭王は、異母兄の公子申(子西, ())、公子結(子期, ())をはじめとする近臣らと力を合わせ、楚の復興に務めた。同時に呉と対立していた越王の勾践と同盟し、勾践の娘を妻に迎えている。前489年、昭王は陳を征伐する軍を起こしたが、遠征の途上で没した。死に際して昭王は、息子である幼少の公子章(後の恵王())を退け異母兄の公子閭(子啓, ())に譲位しようとするが、昭王の没後、子啓は子西・子期らと謀って公子章を擁立した(楚の恵王)。『春秋左氏伝』によると孔子は昭王について、「大道を知れり(古の聖王の道理を解する人物だ)」と大絶賛しており、この王なら国が滅亡しないのももっともである、と述べたという。
出典:wikipedia
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