トラック島空襲(トラックとうくうしゅう)もしくは海軍丁事件(かいぐんていじけん)は、太平洋戦争中の1944年2月17日-18日になされたアメリカ軍機動部隊による日本軍の拠点トラック島への航空攻撃である。この攻撃により日本軍は多数の艦船と航空機を失った。トラック島は無力化されたが、アメリカ軍は攻略にかかる手間を避けて進攻を行ったため、敵中で孤立したまま終戦まで日本軍の拠点として残った。アメリカ軍の作戦名はヘイルストーン作戦(Operation Hailstone)で、位置付けとしてはエニウェトク環礁攻略を目的としたキャッチポール作戦(Operation Catchpole)の支作戦であった。マリアナ諸島(サイパン、グアム)に向けて中部太平洋を西に進むアメリカ軍はマーシャル諸島のクェゼリン島を攻略(1944年2月)後、続けてエニウェトク環礁に進攻することを決定した。この進攻部隊が近隣の日本軍の航空基地から攻撃されるのを阻止するため、エニウェトク環礁進攻と同時にトラック、ポナペ、マリアナ諸島の日本軍基地の攻撃を計画した。この空襲を担当するのは第50任務部隊(TF50)とされ、空母9隻・航空機約600機が投入されることになった。(アメリカ側戦力の詳細は#米軍戦闘序列参照)。広大な環礁を有するトラックは、日本海軍の太平洋中部における一大根拠地となっていた。2月初頭の時点では、アメリカ艦隊との決戦に備えて戦艦武蔵以下の連合艦隊主力30隻以上と、その後方支援を担当する工作艦や補給艦などが待機していた。激戦が続くラバウル方面への兵站拠点としても重要な役割を有しており、輸送任務中の多数の輸送船が常時滞在し、補給用の予備航空機など多数の物資が保管されていた。アメリカ軍の攻撃に際して問題となったのは、トラック島に関する地形情報を殆ど持っていないことであった。そこで、アメリカ軍は2月4日から航空機、潜水艦によりトラック周辺の偵察を実施した。偵察の結果などを踏まえ、アメリカ艦隊の作戦計画は以下のように決められた。第50任務部隊の行動要領は、2月12日-13日にメジュロ環礁を出撃とされた。15日にエニィタニック島北側海面で補給部隊と会合し、補給を実施する。そして、16日午後から、30ノットにて目標への接近を開始、出来るだけ日本軍の航空哨戒圏を避けつつ17日払暁に攻撃隊発進点であるトラック諸島東部200海里の地点に到達する。航空・水上攻撃要領として、まず日本軍の防空能力を奪うため、最初の攻撃目標は航空基地とされた。航空機破砕性集束爆弾(Fragmentation Cluster)と集束焼夷弾(Incendiary Cluster)を使用して攻撃効果の拡大を図った。制空権を確保した後、艦船や地上施設を攻撃目標とする本格攻撃に移行する計画だった。攻撃は、17日と18日の2日間に渡って徹底して実施する。このため、空母群は攻撃目標の100海里圏内に止まるように行動する。一方、第58.3任務群(TG58.3)の戦艦部隊は、本格攻撃開始後に第50.6任務群(TG50.6)となり、ウィリス・A・リー少将の指揮の下でトラック環礁水道を制圧し日本艦船の脱出を阻止するよう分離行動する予定であった。なお、作戦に際しての制約条件としてトラックの破壊は徹底して実施しなければならないが、損害は極限しなければならないと言うものがあった。これは、太平洋方面での本格的な侵攻が始まって間もなく、攻略すべき拠点を多数抱えていた事情による。吉田昭彦によれば、上述の高速での接近(実際には30ノットで航行したのは16時間)などはそうした条件を満たすための行動であり、ガダルカナル、ソロモンの戦いにて日本軍が実施した東京急行(駆逐艦による夜間高速輸送)のひそみに倣ったものだと言う。またトーマス・B・ブュエルによれば、レイモンド・スプルーアンスがこの戦いの際に旗艦を空母から戦艦へ変更した理由は、環礁を攻撃すれば、在泊しているはずの大型艦艇多数を捕捉し、一戦交えることが出来ると考えたからであった。他に、戦艦を環礁至近に接近させ、直接的に優越の誇示を行って戦意喪失を図る旨を語っていたとされ、また、スプルーアンスの戦艦砲撃戦に対する執着などが指摘されている。スプルーアンスは通常は艦隊の指揮を隷下の指揮官に任すようにしていたが、この時はそれをせず、14日のTF58との合流後は自分で指揮を執り、ミッチャーに指揮を任せたのは17日朝の攻撃隊発進直前であった。なお、航空戦に関する助言者としてボールディ・パウノールが旗艦に乗艦していた。その助言は非常に役に立ったとスプルーアンスは語っている。連合軍のカートホイール作戦でトラック南方のラバウルの孤立化が進む中、1943年の末に連合艦隊司令部はトラック島についても防備計画「T作戦」を立て、T作戦警戒を発令した。しかし、発令当時、移動中に立ち寄っている部隊や在泊艦艇こそ多かったが、トラック固有の防備兵力としては第四艦隊(軍隊区分では内南洋部隊)所属の航空隊(七七五空、陸攻1個中隊9機、水上偵察隊等)が所在する程度であった。1944年1月26日から28日にかけて、ラバウルから第十一航空艦隊所属部隊(二〇四空、二〇一空)が撤収してきたものの、大きく消耗した状態で再建が必要だった。そのため、テニアン島の七五五空から陸攻1個中隊が移駐した。なお、トラックには第二航空戦隊の空母が在泊中だったが、艦載機98機をラバウルに進出させており、搭載機が無いため戦力にならなかった。機動部隊の主力である第一航空戦隊は、ろ号作戦で受けた打撃を回復するため日本本土などに下げられていた。(展開航空兵力の詳細は#航空機参照)日本側はトラックを絶対国防圏に含め、陸上防備についても強化を図っていた。しかし、米潜水艦の活動は1943年半ばを過ぎると急速に活発になり、トラックに向かう輸送船も次々と沈められた。最も典型的なケースは1943年11月23日に横須賀を出港した第3123船団である。この船団の積荷は殆どがトラックの基地強化の為の建設資材やセメント、分解された航空機や対空火器、及びその弾薬等計7000トンであった。しかし、途中マリアナ西方沖にて待ち伏せに遭い、4隻が沈められ、12月4日、1隻だけがトラックに到着した。揚げることの出来た積荷は10%に過ぎなかったと言う。こうした損害は基地の拡充や防備強化を直接的に遅らせた。空襲時、多数の船舶が在泊していた理由の一つは、揚陸した陸軍部隊に対する兵器や弾薬の荷役作業の為でもあった。トラックには本土の港湾や真珠湾のような整った荷役設備は無かった。2月4日、トラックがアメリカ軍の偵察を受けたことで、日本海軍は攻撃の危険が高まったと判断し、10日、トラックにあった連合艦隊主力は日本本土、空母部隊はパラオへ退避した。これにより、連合艦隊旗艦の戦艦武蔵以下、空母2隻、巡洋艦10隻、駆逐艦20隻、潜水艦12隻がトラックを去った。しかし、約50隻の各種の補助艦船はそのままとされ、新たな護送船団もトラックへと航行を続けさせた。たとえば2月11日には第五五一海軍航空隊の天山26機が改装空母海鷹によりトラックに到着、楓島に配備された。1944年2月頃、航空機による偵察・哨戒は七五五空と七五三空がテニアン、トラックの両基地を使用して実施している状況であった。航空哨戒のパターンは3 - 5機程度の陸攻による1日2回(黎明、薄暮)が通例であった。アメリカ軍の攻撃直前の動きは下記のようになっている。警戒体制が緩められた事情の一つとして、陸軍参謀本部の瀬島龍三や服部卓四郎らと海軍軍令部の伊藤整一次長一行が南方視察行の帰路トラックに立寄っており、16日の晩に夏島の料理屋で宴を催していたことを挙げる者がある。各島の司令部が夏島に集まっていたため、空襲がはじまると指揮官達は各自の島に戻れなくなった…という噂である。『司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまい』という事情があったと五五一空の肥田真幸飛行隊長(67期)や整備長の某大尉が回顧している。佐藤清夫がこの話を知り、存命だった瀬島に手紙で問い質したところ、陸軍単独の視察であったが、料亭に泊まった士官は居り、空襲に対する警戒心が弛緩している傾向は見られた旨の答えが返信されたと言う 。1月ごろに最初の海軍生体解剖事件が発生した。2月15日、物件揚陸を終えた空母海鷹はトラック泊地を出発した。同日夜、損傷状態の軽巡洋艦阿賀野が駆逐艦追風と第28号駆潜艇の護衛でトラックから日本本土へ出航したが、翌16日、空襲の支援のためトラック沖に潜伏していたアメリカの潜水艦スケートがこれを発見し魚雷で撃沈させた。護衛艦2隻は阿賀野の脱出兵員の救助に当たった。16日夕刻、阿賀野を曳航するため軽巡洋艦那珂がトラックから出航したが、途中で阿賀野の沈没の連絡を受けてトラックに引き返した。17日未明、第58任務部隊は高速を発揮しつつ日本軍の哨戒ルーチンを避けて、トラックの東北東約90海里の位置に到達した。数度にわたる空襲をトラックに対し実施した。日本軍はレーダーにより午前4時20分頃には最初の大編隊を捉えていたが南東方面の基地からマーシャル諸島に向かうアメリカ軍大型機の編隊と即断し、内南洋部隊には第一警戒配備を命じたもののトラック地区は平常配備のままとした。攻撃隊は計画通り奇襲に成功した。第1波は5隻の大型空母から発進した戦闘機72機を主力としており、46分でトラック上空に到達、迎撃に上がってくる可能性がある航空兵力の掃討を図った。対する日本側航空隊のうち二〇一空や二〇四空のような練成部隊は機銃弾の積み込みから始めなければならなかったが、それでも両航空隊は初動で35機を迎撃に離陸させた。ほか、五〇一空が攻撃隊として爆装零戦を25機、他に水上機17機が退避の為離陸した。ただし、基地の整備員の動きはラバウルなどに比較すると手馴れず緩慢であったと言う。アメリカ軍は計画通り、空襲はまず航空施設に対して実施し、その後、日本軍の基地施設および在泊艦船に対する攻撃を実施した。攻撃隊の往復は2時間、トラックでの滞空は40分ほどのルーチンであった。第2波は戦闘機に護衛された急降下爆撃機が主体で、6隻の空母から発進している。17日の空襲は9波に達し、日本側の迎撃機は急速に消耗して薄暮時に帰還したのは1機に過ぎなかった。この1日で270機の機体を喪失、補給された最新の零戦52型100機も戦わずに破壊された。制空権を奪ったアメリカ側は艦船に対する空襲を開始した。阿賀野の救助を断念した軽巡那珂は、南へ迂回して攻撃を避けながら入港しようとしていたが、環礁の外で発見されて午後2時頃に航空機により撃沈された。駆逐艦追風は、阿賀野の乗員の救助後に脱出船護衛のためトラックに引き返すよう命じられたが、やはり途中の空襲で撃沈された。港内にいた工作艦明石には、爆弾1発が命中したが不発弾であった。特務艦宗谷は回避行動中に座礁した。駆逐艦松風は機銃掃射で指揮所が全滅する損害を受けた。その他、愛国丸など環礁内の補助艦船は次々と撃沈された。さらに、9時23分、計画に沿って第58任務部隊から戦艦2隻を中心とする水上部隊を分派して第50.9任務群(TG50.9)とした。この部隊は軽空母カウペンスの戦闘機18機が護衛していた。17日昼前に、艦載機から、日本側が艦船の脱出を図っている旨報告された。分派された部隊は西進し、11時47分にはトラック島北水道北方10数マイルの地点に到達した。封鎖部隊は脱出にかかった艦船を発見し、攻撃した。攻撃の間も、スプルーアンスは戦闘の指揮を委譲しないで自ら直接指示を出し続けた。日本側は、引揚民間人等を乗せた第4215船団(赤城丸)を、練習巡洋艦香取と駆逐艦舞風および野分の護衛で脱出させようとしていた。本来同船団の出港は2月16日だったが、赤城丸の荷役がおくれたため1日延期されて17日となった。しかし午前4時30分に出港後、まもなく空襲が始まった。6時45分から7時30分にかけて、空母バンカー・ヒルのSBC ヘルダイバー急降下爆撃機16、TBF雷撃機9が香取と赤城丸を攻撃し、アメリカ軍は香取に大型爆弾5発命中、赤城丸に爆弾1発命中を主張。7時55分、空母ヨークタウン (CV-10)の攻撃機が3隻(香取、野分、舞風)の対空砲火を突破して、香取の煙突に爆弾命中、舞風に直撃弾3発を与えたと主張。両艦に火柱と黒煙があがるをの確認した。さらに空母エンタープライズの攻撃隊は香取の後部煙突に450kg爆弾1発、艦首に125kg爆弾1発命中を記録。それでも香取は動いており、赤城丸と合同している。午前8時30分、ヨークタウン(CV-10)隊が攻撃を開始した。舞風は爆弾1発が命中して航行不能、香取に爆弾3発が命中して大爆発が起きた。続いてエセックス隊、空母キャボット("USS Cabot, CVL-28" )のTBF雷撃機2が、約10ノットで円運動を行っている香取と赤城丸を攻撃し、赤城丸に爆弾5発以上の命中弾を与えた。赤城丸は大火災を起こして午前10時42分に沈没した。香取は赤城丸の乗組員の救助をおこなう。11時20分、エンタープライズ、エセックス、イントレピッドの3空母の攻撃隊が香取と野分を攻撃し、「舞風」が航行不能、「香取」は大火災を起こした。アメリカ軍第50任務部隊司令官のレイモンド・スプルーアンス大将は水上砲戦で第4215船団を撃滅すべく、航空隊に「あの艦(香取、野分、舞風)を撃沈するな」と電文を送り、機動部隊から最新鋭のアイオワ級戦艦2隻を分離すると、自ら乗艦して船団の追撃を開始した。スプルーアンス率いる戦力は、戦艦ニュージャージー(旗艦)、アイオワ、重巡洋艦ミネアポリス、ニューオーリンズ、第46駆逐隊(イザート、シャレット、バーンズ、ブラッドフォート)である。まず艦隊の針路上に出現した特設駆潜艇昭南丸(350トン)を「ニュージャージー」と駆逐艦が撃沈した。12時16分、野分の乗組員は接近する米戦艦2隻を水平線上に発見した。12時23分、まず戦艦アイオワが発砲し、12時25分に香取に対して着弾した。スプルーアンスはまず戦艦2隻(ニュージャージー、アイオワ)と駆逐艦2隻で健在の野分を追い掛け、残る艦に香取、舞風を攻撃するよう下令。米重巡洋艦2隻と駆逐艦2隻は距離17-15kmで砲撃を開始した。米駆逐艦は香取に接近、魚雷6本を発射したが香取には命中しなかったという。米艦隊は艦首を水中に突っ込んだ香取から魚雷、14cm砲、高角砲による反撃があったと報告している。しかし満身創痍の香取になすすべはなく、13分間にわたって米艦隊の射撃を受けて12時37分に転覆し、トラック諸島の北西75kmの地点で沈没した。また舞風も米重巡洋艦により撃沈され、この艦も全滅した(磯久駆逐隊司令も戦死)。沈没する香取から3隻の救命艇が脱出した、海面には「舞風」・「香取」の乗員が多数漂流したが、アメリカ軍機の銃撃で全没したとアメリカ軍は記録している。このため舞風および香取と同艦に救助された赤城丸の生存者は1人もいなかった。また第4215船団では野分だけが米戦艦ニュージャージー及びアイオワの40.6cm砲による砲撃を回避して脱出に成功している。フォレスト・シャーマン少将はこの戦艦部隊の行動は空母艦載機による攻撃をややこしくしただけだったと評した。時雨と春雨の2隻の駆逐艦も、午前4時30分頃に脱出を開始した。空襲で時雨が爆弾1発を受けたが、第50.9任務群の攻撃は受けずに離脱に成功した。また、ちょうどトラック島に北方から近づいていた第3206船団の一部(輸送船辰羽丸、瑞海丸)も空襲を受け、全滅した。同船団では、これより前の17日未明にも米潜水艦により暁天丸が撃沈されている。同船団にはほかに輸送船2隻と駆逐艦藤波、特設掃海艇羽衣丸以下の護衛艦艇がいたが、サイパン島へ引き返すなどして沈没を免れている。第3206船団には第52師団の第二次輸送部隊(歩兵第69連隊・歩兵第150連隊など9000名余)が乗船しており、陸軍兵員7000名が死亡したという。日本軍は17日の夜、春島に残存する九七艦攻4機をアメリカ艦隊攻撃のため出撃させた。また、テニアンからも七五三空の陸攻2機と七五五空の陸攻3機を出撃させた。17日の晩の月齢は23日だったが、雲のある海域だと下弦の月は隠れてしまっていた。各隊は敵を求めばらばらに行動したが、この内七五五空の陸攻1機が空母イントレピッドに魚雷1本を命中させた。イントレピッドは右舷艦尾を破壊されて舵が停止したため、6隻の護衛をつけられエニウェトクに後退した。これはこの作戦におけるアメリカ軍最大の損害である。一方、アメリカ軍も空母エンタープライズからTBFアベンジャー12機が夜間雷撃(空母搭載機では初めて)の為に発進し、艦船に夜間攻撃を加えた。このときの使用機はレーダーを試験的に装備したTBF-1Cであった。翌日の迎撃に備えて二〇四空では機体の修理・整備を実施し零戦6機が使用可能となったが、機体の側に落ちていた不発弾(または時限爆弾)が突然爆発したために全機飛行不能となってしまった。これにより、18日には日本軍は迎撃機を上げることが出来なくなった。18日午前中もTF58は空襲を継続し、引き上げた。#吉田によれば両日繰り出した攻撃隊は計12波、延べ1200機であった。佐藤清夫によれば艦船に投下された爆弾および魚雷は400トン、地上に投下した爆弾は90トンになると言う。前日の攻撃で航行不能状態だった駆逐艦文月は、午前2時に至近弾を受けて放棄された。擱座状態で応戦していた駆逐艦太刀風も午前8時に沈没した。特設給油船富士山丸が18日11時00分に、同じく特設給油船の第三図南丸が2時10分に、特設潜水母艦平安丸が18日9時30分に撃沈されるなど、補助艦船11隻が撃沈された。一方、水上機母艦秋津洲は、途中で空襲を受けながらも18日朝に脱出に成功し、19日にメレヨン島へたどり着いた。サミュエル・E・モリソンによれば東京のラジオ放送では「戦局はかつて見ない重大性、否峻烈さを加えた。敵作戦の速度より判ずるに、敵の攻撃威力はすでにわが本土に迫りつつある」と警鐘を鳴らしたと言う。本件に関して大本営発表は下記のような内容であった。「トラック諸島に来襲せる敵機動部隊は、同方面帝国陸海軍部隊の奮戦により之を撃退せり。本戦闘において敵巡洋艦二隻(内一隻戦艦なるやも知れず)撃沈、航空母艦一隻及び軍艦(艦種未詳)一隻撃破、飛行機五四機以上を撃墜せしも、我方も亦巡洋艦二隻、駆逐艦三隻、輸送船一三隻、飛行機一二〇機を失いたる他、地上施設にも若干の損害あり。」(大本営発表昭和十九年二月二十一日)当時の大本営報道部は陸軍部と海軍部より成り、それぞれの軍から派遣された人員で独立的に運営されており、相互の交流の機会は少なかった。戦局が悪化しているにも係らず上記のような強気の発表を続ける海軍側に陸軍側は反発の念を強めていたが、陸軍側で「海軍の発表は嘘」と報道する訳にもいかず、具体的な行動を起こすことは無かった。陸軍参謀本部では「あれほどいってやっていたのに、今になって何たるざまだ」と海軍誹謗の声が満ち満ちたと言う。アメリカ海軍は「太平洋艦隊は1941年12月7日の日本艦隊による訪問にトラック島で答礼の訪問をして、借りを一部返した」と発表した。損害の詳細は#日本側損害の一覧を参照一連の攻撃で日本側が受けた艦船損害は、戦闘艦艇では軽巡3隻と駆逐艦4隻などが沈没。また、各種の特設艦船や陸軍徴用の軍隊輸送船など徴用商船33隻も沈没しており、この中にはタンカー4隻や各種の優秀船が含まれている。沈没商船の合計は20万総トンで、これは当時の日本の保有船舶の4%にのぼる。艦隊支援のための船舶の他、防備強化のための陸軍部隊の糧秣弾薬、兵器等を陸揚げしていた輸送船がいたことが大被害に繋がった。ただし、在泊艦船が全滅したわけではなく、既述のように環礁外に脱出した水上機母艦秋津洲と駆逐艦3隻(野分、時雨、春雨)などのほか、工作艦明石や標的艦波勝、駆逐艦秋風、第34号哨戒艇などが生き残った。特務艦宗谷は回避行動中に座礁しながらも対空戦闘を続け戦闘機1機を撃墜。高角砲・機銃全弾を撃ち尽くすまで奮戦したが、身動きがとれない状態で総員退艦命令が下され一時放棄される。だが宗谷は総員退艦後に離礁して浮いているのが発見され、結果的には内地に帰投することができた数少ない艦の一つとなった。病院船天応丸も攻撃対象から外されて無事だった。なお、明石は駆逐艦藤波、秋風と標的艦波勝および駆潜艇1隻に護衛されて19日朝にパラオへ向け退避している。そのほか、日本側航空機は、70機が空中で撃墜され、保管機材を含め200機が地上で破壊された。この損害は、保管機材を含めた所在機数の3/4に相当する大損害であった。補給された最新の零戦52型100機も戦わずに破壊された。主力の204空は再進出計画前に壊滅し解隊を余儀なくされた。備蓄燃料もタンク3基分約1.7万トンが焼失し、各種軍需物資も3/4が失われた。陸上での戦死者だけで400人に上り、沈没艦船などの死者を合わせると戦死者は7000人とも言われる。この攻撃で日本海軍は艦隊随行用の輸送船舶を大量に喪失したため、以後の連合艦隊の作戦展開は従来にも増して大きな制約を受けることとなった。連合艦隊主力は、新たな泊地を産油地に近いパラオとして西へ後退した。なお、パラオも安全ではなく、3月末にこれも第58任務部隊によるパラオ大空襲の標的となり、再び在泊艦船が壊滅的打撃を受けている。この空襲における大本営への衝撃は大きく、陸軍からはマリアナ放棄論が強まった。南東方面艦隊の草鹿龍之介参謀長がラバウルへの飛行機の補給を交渉していたが、この空襲のせいで連合艦隊司令部は航空拠点としてのラバウルの放棄を決定、トラック基地の戦力回復を兼ねてラバウルの飛行機は全てトラックに移された。日本海軍は、トラック島の航空戦力を回復させるため、サイパン島の二〇一空主力(零戦24機)の移動を決め、2月18日の空襲直後に到着した。また、前述のように航空基地機能の放棄を決めたラバウルから、2月19日に艦攻6機と艦爆14機、2月20日に陸攻4機、彗星3機および零戦37機、2月21日-28日に陸攻5機、艦攻2機、零戦14機および彗星1機をトラックへ後退させた。20日に撤収した機体の多くは消耗した第二航空戦隊の生き残りであった。アメリカ軍がトラック島の迂回決定をした一方、日本軍も1944年4月末の陸海軍作戦連絡にてトラックを絶対国防圏から外した。2月の空襲が実施された時点で、環礁には第52師団をはじめとする1万5000名以上の兵力が上陸していた。孤立後のトラック環礁の島々では、備蓄物資の倹約と自給自足に努めたが、小さな島では多くの兵士の胃袋を満たすだけの量を生産するのは物理的に難しかった。具体的には1944年に守備隊の糧食は定量の6割に落とされ、10月には5割、11月には4割、12月には3割となり、1945年3月には糧食全てが現地生産のサツマイモなどに切り替えられた。このため、ニューギニアの戦いほどではないにせよ、多くの兵士が終戦まで栄養失調に陥った。また海軍生体解剖事件(トラック島事件)が発生した。アメリカ軍の艦船には、空母1隻が損傷したほか大きな損害は無かった。損失航空機は戦闘機12機、急降下爆撃機6機、雷撃機7機であった。一方的な結果に、アメリカでは真珠湾攻撃の復讐を果たしたと言われた。トラック島空襲の直前、海軍作戦本部長アーネスト・キングは、マリアナ諸島とペリリューに加えて、トラックを含むカロリン諸島の占領を提言していた。キングは島伝いに制海権を確立していく飛び石戦略の支持者であった。これに対して、第5艦隊参謀長ムーア大佐はトラック島空襲が完了して艦隊がクェゼリン環礁へ帰還した後、自分の考えを覚書にしてスプルーアンスに提出している。それによれば、日本は今後トラックを中枢の海軍基地として使用する意図は無く、アメリカにとっても脅威ではなくなっており、両国とも戦略的価値を見出していない、という内容であった。また、同島は多数の守備隊により厳重に防備されており、上陸作戦には非常な損害が予想されると見積もっている。なお、ムーアはマッカーサーの取るニューギニアからフィリピンを経る進攻コースを支持しており、最終的に中国本土への上陸を考えていたため、マリアナへの進攻についてもリソースの分散につながると考えていた。結局、基地機能を喪失したトラック島はアメリカ軍の戦略目標から外されることになる。アメリカ軍の目論見通り、エニウェトク環礁攻略作戦は日本軍機の妨害を受けずに実施可能となった。そして、2月18日にエニウェトクの戦いが開始された。日本軍の反撃能力低下が明らかになったと判断したアメリカ軍は、エニウェトクの戦いに付随して、2月23日には第58任務部隊の一部でマリアナ諸島空襲をも行い、絶対国防圏の要であるサイパン所在の基地航空隊を壊滅させてしまった。その後、連合軍の上陸は無くトラックは日本本土との補給線が遮断され、孤立したまま終戦を迎えた。ただし上陸作戦が実施されなかっただけで、空襲は続けられた。1944年3月16日以降9月末までの期間に、B-24など大型機の来襲は延べ3700機に達した。1944年4月4日には伊169が空襲を避けるため潜航した際に起きた事故により沈没した。4月30日にはTF58がホーランジア攻撃の帰途再度トラックに対して空襲を実施し、2日間の攻撃で95機を撃破した。これらの空襲により、二十二航戦は壊滅状態に陥った。5月4日には第2日の丸と札幌丸が、7月3日には第34号哨戒艇が撃沈された。マリアナ沖海戦時にはトラックからも残存基地航空隊が出撃したが、わずかな機数であった。その後はウルシー環礁等に対する航空偵察拠点として細々と使用された。連合軍は、実戦訓練を兼ねた空襲を終戦まで継続し、1945年6月にはイギリス機動部隊による空襲と艦砲射撃(インメイト作戦)もあった。日本側はトラック島におけるこの失態を16-17日に警戒を緩めさせた指揮官の判断ミスとした。これを海軍丁事件として処理している。日本側ではこの失態の責任問題について、一定の処分が実施された。まず、現地指揮官である第四艦隊司令長官小林仁中将が2月19日に原忠一中将と交代し、31日には予備役編入された。トラックを管理する第4根拠地隊司令官の若林清作中将も、2月19日に有馬馨少将と交代した。ただし、小林中将は持病によりすでに転勤が予定されており、更迭は空襲と無関係とも言われる。また、軍中枢にまで大きな影響を生じた。2月21日に参謀総長杉山元と軍令部総長永野修身が共に更迭され、陸軍大臣を兼務していた内閣総理大臣東条英機、海軍大臣嶋田繁太郎がそれぞれ兼務するものとされた。これにより、統帥権独立の観点から分離されていた軍令系統(参謀総長・軍令部長)と軍政系統(陸軍大臣・海軍大臣)が、慣例を破って兼務される異例の状態が生じた。首相も兼ねていた東條英機に権力がさらに集中したため、「東條幕府」と揶揄された。当時の海軍水雷学校長だった大森仙太郎少将を団長とする調査団が派遣され、調査が行われた。頭文字はトラック島("Truk Island" )のTをとったとされる。調査団は3月に調査を実施した後「大局的に見て、この少ない兵力をもってあの攻撃に対処するには、誰が作戦指導をしても大同小異の結果であったろう」との結論を出している。なお、T事件調査とは異なるが、戦後、海上自衛隊幹部学校教官を務めた竹下高見が、本空襲についてのセッションで、事前警戒の不備問題について次のような証言をしている。「(前略)トラックとか、テニアンとか、サイパン辺りは、意識の問題もあると思うんですね。同時にやっぱり、さっきいったように防備施設というようなものは、中央の問題もあると思うんです。私は、戦史部におります時に、小林中将に二回ほどなんとか聞きだそうと思いまして、お話伺いましたけれども、トラック空襲については一言もしゃべられませんでした。そのことから『太平洋方面の海戦』の中では「専任防空戦闘機隊の不在、所在航空機部隊の不明確な指揮関係、多数商船隊の在泊など、むしろ連合艦隊司令部あるいは大本営海軍部が事前に適切に処置すべき問題が多かったように思われる。」という表現になったわけです。(笑)」太平洋戦争の終結後、モエン島(春島)に慰霊碑が建立され、そこには「和」の文字が刻まれていると言う。トラック島空襲やその他の戦闘で大量に発生した環礁一帯の艦船の残骸は、沈船ダイビングの対象として世界中からダイバーが集まる観光資源になっている。例えば特設給油船神国丸の船体は浅い地点に沈んでいるため、遺骨や軍刀などが観光ガイドによって小道具として持ち運びされている。沈船ダイビングの状況については、1983年に朝日新聞が遺骨が見世物になっていると批判したのをきっかけに国会でも取り上げられた結果、1984年に日本政府による遺骨収集事業が実施されて愛国丸など5隻から遺骨379柱を収容した。ただ、依然として多数の遺骨が残された状態にあり、産経新聞などが批判している。以上のほか、アメリカ軍はトラックを包囲するため9隻の潜水艦を派遣している。損害の詳細は不明であるが、以下の可動機・保管機のうち70機撃墜、200機地上撃破。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。