琴錦 功宗(ことにしき かつひろ、1968年(昭和43年)6月8日 - )は群馬県群馬郡箕郷町(現・高崎市)出身の元大相撲力士。佐渡ヶ嶽部屋所属。本名は松澤英行。最高位は東関脇。現役時代の体格は身長177cm、体重144kg。得意技は突き、押し、右四つ、寄り、もろ差し、掬い投げ。現在は年寄・朝日山。箕郷町立箕郷中学時代は柔道部に所属し活躍していたが、相撲大会にも借り出され全国大会にも出場した。その実績によりロサンゼルス五輪金メダリストで国民栄誉賞受賞者の山下泰裕からもスカウトの声が掛かり当初は高校進学が決まりかかっていたが、佐渡ヶ嶽親方(先代(12代)、元横綱・琴櫻)の再三に渡る勧誘により入門を決意。決め手となった殺し文句は「相撲に来れば強い奴とたくさん戦えるぞ。柔道なんて目じゃねぇよ。」であり、このセリフをきっかけに大相撲へ進むことを決意したという。1984年3月場所に初土俵を踏んだ。同期生には湊富士、大至、旭豪山らがいる。入門当初から期待され、初土俵から2年ほどで幕下に昇進した。西幕下5枚目で迎えた1987年(昭和62年)9月場所には11代(先々代)佐渡ヶ嶽親方(元小結・琴錦)の四股名でもある『琴錦』と改名した。このとき鏡山部屋の序ノ口力士に同音の虎勝錦がおり、本来は改名できないはずであったが、佐渡ヶ嶽親方より鏡山親方に懇請し格違いで譲ってもらい、改名を果たしている。実は『琴錦』の四股名は入門する直前に友達と考えて出来た四股名とまったく同一であり、11代親方と相撲の型(のみならず容貌、性格も似ていたといわれる)が似ていたこともあって11代親方夫人の許しを得たものであった。しかし、当の本人は11代親方の現役時代の四股名が琴錦だったということは全く知らず入門後に聞いて驚いていた。その場所は2勝5敗と負け越しはしたものの、翌11月場所・1988年(昭和63年)1月場所と2場所連続して5勝2敗の好成績を挙げ、3月場所に十両に昇進した。その場所は4勝11敗と大きく負け越し、1場所で幕下に陥落したが、同年9月場所に再び十両に昇進すると十両に定着。その後は順調に番付を上げて行き、1989年(平成元年)5月場所に新入幕を果たした。小柄な体から繰り出される、速攻の突き・押しの取り口から「F1相撲」と評された。これに因んだか、『風のエール』という応援歌も作られている。このほか「角界のマイク・タイソン」と評した力士もいた。又、若貴兄弟に強い時期は若貴キラーとも呼ばれていた。1990年(平成2年)5月場所には横綱・北勝海を破り初金星をあげ9勝6敗と勝ち越し、初の三賞となる敢闘賞を受賞。翌7月場所では東前頭筆頭で横綱・千代の富士、大関・北天佑を破るなど9勝6敗で初の殊勲賞を受賞。9月場所で新三役(小結)に昇進し初日に北勝海を破るなど9勝6敗と勝ち越し、2場所連続2回目の殊勲賞を受賞した。翌11月場所には新関脇に昇進。この場所では大関・霧島、小錦、横綱・旭富士を破るなど初日から6連勝の活躍を見せ10勝5敗と二桁勝利を挙げ、3場所連続の殊勲賞と初の技能賞を受賞。翌1991年(平成3年)1月場所には初日から8連勝の活躍を見せ11勝4敗と2場所連続で技能賞を受賞、2場所連続して2桁の勝ち星を挙げいよいよ大関の声が掛かるようになった。しかし師匠の佐渡ヶ嶽親方は琴ヶ梅に代わる大関候補の誕生に期待をかけながらも琴錦の素行面を不安視していた。その不安が的中するように次の3月場所前に琴錦の女性問題が発覚。琴錦は当時入籍済みで身重の婚約者がいるにもかかわらず別の女性の方へ走り、挙句「どっちも好きだし…」と発言するなど人間性を疑われるような言動に終始し、「重婚をするつもりか。」とマスコミからバッシングされ、『さまよえる下半身』という秀逸かつ不名誉なニックネームを付けられた。この問題を重く見た日本相撲協会は琴錦と佐渡ヶ嶽親方に対して譴責処分を発表、「相当の好成績を挙げない限りは大関昇進はありえない」と厳しい対応を決めた。この場所では前例のない辛辣な野次を浴びた影響もあってか、9勝6敗に終わって大関昇進の絶好機を逃してしまった。その後も5月場所は8勝7敗と勝ち越したが、7月場所は場所中に左足首を痛める不運もあり4勝11敗と不本意な成績に終わり関脇から陥落した。この場所は同部屋の兄弟子琴富士が平幕優勝した場所だったが、場所後の打ち上げでは自ら歓喜の輪に入らず、隅の方で一人寂しく兄弟子の姿を眺めるだけだったという。自分の撒いた種とはいえ、琴錦の落ち込みは相当のもので、一時は廃業も考えたという。そんな琴錦に弟子想いの佐渡ヶ嶽親方は7月場所後しばらくの間故郷に帰っての休養を命じた。故郷でも周りから白い目で見られると思っていた琴錦だが地元のファンの温かい励ましを受けたことでやる気を取り戻し、怪我の治療をしながら稽古に励む。東前頭5枚目まで番付を下げた翌9月場所は貴花田、若花田には敗れたものの13勝2敗で幕内優勝し、7月場所に優勝した同部屋の琴富士に続き平幕優勝を成し遂げた。翌11月場所では小結に復帰。初日に霧島、9日目、新入幕の貴ノ浪に敗れるも14日目まで2敗で大関・小錦と優勝を争う。その14日目に1敗の大関小錦を破りついに2敗で並ぶ。前々場所4勝11敗と負け越しているのにも関わらず、場所中に当時の二子山理事長から「連覇なら大関も検討する」と言われ、過去に例のない「関脇以下での連続優勝」および前田山以来の「関脇を飛び越えての大関昇進」に期待が高まった。しかし千秋楽若花田に負けて12勝3敗と優勝次点に留まり、連覇にあと一歩及ばなかった。しかもその相撲で古傷の左足首を負傷、1992年1月場所は関脇に返り咲き大関昇進を目指すも、前場所でのケガの回復が遅れて7勝8敗と負け越し、大関取りは振り出しに戻ってしまう。翌3月場所で前頭筆頭で9勝6敗、5月場所で小結で9勝6敗の成績を上げ7月場所で関脇に返り咲くも6勝9敗に終わりあえなく三役から陥落、9月場所には前頭筆頭で11勝4敗、11月場所では小結に復帰。この場所大関曙と優勝を争い千秋楽まで1敗をキープ。しかし千秋楽に翌場所に大関昇進の望みを繋ぎたい関脇貴花田に敗れまたも優勝を逃す。それでも13勝2敗の好成績で翌1993年1月場所に関脇に返り咲き、今度は貴花田とともに大関取りとなったが、場所直前の膝の故障が響いて稽古不足。10日目までは7勝3敗でしのぐも終盤5連敗で7勝8敗と負け越し。結局大関昇進の大チャンスに3度も手を掛けておきながら、大関昇進が実現することは無かった。その後は1993年9月場所から6場所連続、1995年11月場所から4場所連続で関脇を保つなど常に三役から幕内上位で活躍する。このころから貴乃花や曙には力負けすることが多くなったが、若乃花に対しては1995年1月場所から4連勝するほか、武蔵丸や貴ノ浪の大関陣をたびたび破り大関陣には互角に近い力を発揮(対・若乃花の対戦成績は16勝25敗、対・武蔵丸の対戦成績は18勝26敗、対・貴ノ浪の対戦成績は19勝21敗である)また次の大関を狙う魁皇や武双山などに対しても重要なところで痛い黒星をつけるなど存在感を示し、たびたび三賞を受賞した。1998年1月場所では武双山に対して、同年5月場所では貴闘力に対して八艘飛びの奇襲を仕掛けともに勝利するなどファンを驚かせ楽しませる相撲を見せた。正攻法の速攻相撲が基本だが、このような奇襲戦法もたびたび用いて成功させることがあった。1998年(平成10年)1月場所では小結で武蔵丸、若乃花の2大関を下し10勝5敗と二桁勝利をあげ技能賞を受賞。翌3月場所は6勝9敗と負け越し平幕に下がるも5月場所は横綱昇進を目指す若乃花、4年間勝てなかった横綱曙を下し11勝4敗の好成績を挙げ3年ぶりの殊勲賞を受賞する。しかし7月場所の貴乃花戦で右足を痛め途中休場。公傷申請できるほどの怪我だったがあえて公傷を申請せず出場した9月場所では東前頭7枚目で5勝10敗と負け越し、11月場所には西前頭12枚目に下がった。30歳を迎え体力、気力の衰えを感じていた琴錦は場所前に師匠の佐渡ヶ嶽親方に引退を相談。年寄名跡を所得していなかったため、引退後は協会に残らず、自動車整備工の仕事に就きたいという意向を示した。そんな琴錦に師匠は激怒。当時36歳で十両を務める琴稲妻を例に出し「(琴)稲妻を見てみろ、今でも頑張っているじゃないか!それに転職なんかこの不景気の中予想以上に物凄く大変なんだぞ!甘ったれるのもいい加減にしろ!!もう一度死んだ気になってやれ!!」と長時間にわたって叱責されたという。師匠の言葉にもう一度思い直した琴錦は引退を撤回。その幕尻近くで迎えた1998年11月場所は、初日から見違えるような相撲を取り11連勝し優勝争いの筆頭に立つ。12日目に横綱若乃花に惜敗し連勝がストップしたが黒星を喫した相撲はその一戦のみで、その後13日目にこれまで15連敗中だった横綱貴乃花に完勝し、金星を獲得。九州場所の館内は沢山の座布団が乱れ飛んでいた。この相撲を協会の役員室でテレビで見ていた佐渡ヶ嶽親方は取組後役員室を飛び出し、琴錦に握手を求めにいったほどの会心の相撲を見せた。14日目にも大関貴ノ浪を圧倒、2敗で追いかけていた平幕土佐ノ海が貴乃花に敗れ、琴錦の二度目の平幕優勝が決定した。この日審判長を務めていた佐渡ヶ嶽親方は感極まって涙ぐむシーンも見られた。それと同時に佐渡ヶ嶽親方は「あいつは相撲も速いが気も早い。やれば出来るんだよ。(琴)錦本人がそれに気付いていないんだから」と苦笑いしながらコメントしていた。結果琴錦は、千秋楽も勝って14勝1敗の好成績で、史上初(現時点で唯一)となる2度目の平幕での幕内優勝を飾った(同時に殊勲賞と技能賞も受賞)。43場所ぶりの優勝は史上最長間隔である。また、最高位が関脇以下の力士で唯一複数回の優勝を経験した力士でもある。翌1999年(平成11年)1月場所には小結に復帰、初日に横綱貴乃花を破り、前場所の優勝がフロックではないことを証明した。この場所は6勝9敗と負け越したがそれ以降も幕内上位で活躍。史上初の平幕2回優勝を決めた1998年11月場所からは、6場所連続で対横綱戦勝利(最高位が関脇以下の力士としては史上初)を挙げていた。しかし、2000年(平成12年)1月場所では東前頭3枚目で3勝12敗と大敗。西前頭8枚目まで大きく番付を下げた翌3月場所の4日目、それまで39勝8敗と大の得意としていた安芸乃島との相撲で、前日の相撲で痛めていた右肘内側側副靱帯をさらに損傷し悪化させたために途中休場。翌場所には初めて西十両筆頭に陥落した。その場所は公傷認定され全休し、7月場所は8勝7敗と勝ち越したが、翌9月場所の番付は半枚上の東十両筆頭に留まり、幕内復帰が見送られた。同場所は初日から5連敗し7日目に敷島に敗れたのを最後に現役を引退、準年寄・琴錦を襲名した。師匠の佐渡ヶ嶽親方はこの時は琴錦の引退の決意を翻意できず、琴錦の引退会見では「やる気があればまだこれからなのに…辞めるのには早過ぎる」と惜しんでいた。引退後の会見にて、印象に残る力士に若乃花の名を挙げている。小柄な体格ながらも横綱まで昇進した若乃花に対して琴錦は一目置いており、「若乃花関は動きの速い力士で、対戦すると何かを学べるから楽しい」と語り、若乃花も「琴錦関は自分と同じ瞬発力で相撲を取るタイプ。取り口を真似したことがある。良い手本で、学んだり盗んだりした」とお互いに認め合っている。土俵上でも両者は熱戦を展開しており、琴錦が優勝した2度の場所では、いずれも琴錦は若乃花に敗れている。琴錦が大関になれなかった理由には、ムラッ気の多さと連相撲だった事などが挙げられ、平幕では11・12勝できても、いざ三役になると前半勝ち続けても、中盤から崩れ8勝や9勝に終わる場所や、序盤星が上がらないと後半も尻つぼみで負け越す場所が多かったのである。また幕内優勝争いにも何度か加わりながら、終盤の重要な取組で負けて結局優勝を逃すケースが多かった。例では1991年1月場所10日目に前日初黒星を喫した翌日にこの場所初日から9連敗中の新小結隆三杉に敗れその後も連敗し優勝争いから脱落。1991年11月場所9日目では新入幕の貴ノ浪に破れたのが優勝と大関を逃した原因といわれ、1993年7月場所では14日目栃乃和歌に破れ優勝争いから脱落したなど。但し引退後には、琴錦本人曰く「現役時代は本気で大関を目指してはいなかった」「自分は関脇のままでも良いと思っていた」等と白状している。しかしながら実力は大関クラスであり、関脇在位は同じ佐渡ヶ嶽部屋の長谷川と並ぶ21場所で、当時史上1位タイの記録だった(現在はのちに大関となった琴錦の弟弟子である琴光喜に更新され、史上2位タイ)。当該場所の優勝力士から白星を7回上げたという記録もまた琴錦の実力を物語る事実であり、これは最高位が関脇以下の力士としては最高の記録である。2002年(平成14年)7月場所後に甲山部屋の力士がすべて引退し、甲山部屋は事実上消滅した。当初、9代甲山親方(元前頭1・大雄)は9月場所後を目処に退職し年寄・甲山を琴錦に譲ると公式に表明し、琴錦自身も年寄・甲山を襲名することを発表した。しかし、9代甲山親方が周囲に説得されて翻意し、退職せずに湊部屋に移籍したため、この話は9月場所開場直前に白紙に戻った。結局、2005年(平成17年)5月26日に9代甲山親方が停年(定年。以下同)を迎えても、琴錦が襲名することはなかった。最高位も実績もはるかに劣る準年寄の元前頭11・大碇(同志社大学出身、伊勢ノ海部屋)が翌5月27日に10代甲山を襲名し、後にはこの名跡を正式に取得した。2002年(平成14年)年9月場所後の準年寄としての2年間の資格期間の満了が差し迫っていたため、一門外ではあったが年寄・若松を一宮章(元小結・富士錦)から借り受け、13代若松を襲名した。その後、2003年(平成15年)9月に空き名跡の年寄・竹縄を花田茂廣(元横綱・栃ノ海)から借り受け、若松から竹縄に名跡変更をしている。年寄・竹縄の所有者は栃乃洋に変わったが、引き続き栃乃洋から借り受けた。なお、引退の原因となった肘の故障は栃乃洋との対戦で負ったものである。2007年(平成19年)7月、竹縄から浅香山に名跡を変更。浅香山も借株で、所有者は大関魁皇であるが、その魁皇も2011年(平成23年)7月場所限りで現役引退、年寄・浅香山を正式襲名している。2009年(平成21年)1月13日に稀勢の里が取得した荒磯を、同年9月27日付には先に停年退職した長谷川(当時。その後所有は琴奨菊へ)の持つ秀ノ山を、2014年(平成26年)1月21日には嘉風の持つ中村をそれぞれ借株として名跡変更をしている。また、中村に名跡変更すると同時に尾車部屋へ移籍した。これは財団法人時代の相撲協会に於いて最後の借株襲名であり、その7日後の同月29日を以って公益法人に移行したことで借株が原則禁止となったためまさしく滑り込みで借り換えたことになる。その後2016年(平成28年)1月6日、先代の停年退職により空き名跡となっていた年寄・朝日山を継承・襲名し、合計6株に亘る借株生活に別れを告げた。準年寄時代の2年間も含め、引退から15年4か月、47歳で初めて年寄名跡を取得したことになる。また、朝日山の年寄株取得に際して、2016年中には尾車部屋から独立し、2015年(平成27年)1月場所限りで閉鎖された朝日山部屋を再興する意向を表明した。既に独立時に必要な内弟子は入門しており、部屋の土地も千葉県内に取得済みである。その後、2016年5月26日の理事会で、6月1日付で力士3人を連れて朝日山部屋を独立することが承認された。日本相撲協会の中においての役職は、上述の通り長年にわたり借株であったため平年寄の地位に据え置かれていたが、2016年3月に行われた協会の新たな職務分掌では、2階級昇格し委員となった。現在はしばしば大相撲中継の解説を務めているが、そのとても分かりやすい解説は毒舌の北の富士勝昭からも絶賛されている程である。また、ベースボール・マガジン社発行の雑誌「相撲」では、本場所展望号でその場所の好取組に対する予想と解説を行うことが恒例となっている。また、木戸での切符もぎりを担当する際も、来場客への接客態度を絶賛されている。通算18回受賞は安芸乃島に次ぐ歴代2位。小結・関脇時代を含めると横綱戦では合計17勝(2不戦勝を含む)している。しかし大乃国と武蔵丸には一度も勝てなかった(武蔵丸戦は横綱昇進前に勝利経験あり)。曙にはなかなか勝てず、横綱昇進前からかなり連敗している(通算成績11勝30敗。途中11連敗と15連敗がある)。その代わり大関にはかなり強く、57勝している。
出典:wikipedia
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