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ニホンピロウイナー

ニホンピロウイナーは、日本の競走馬である。マイルチャンピオンシップ2勝、安田記念優勝など中央競馬の重賞を10勝、特にマイル(約1600メートル)以下の短距離競走では非常な強さを誇った。1983年、1984年、1985年の3年連続で優駿賞最優秀スプリンターを受賞している。本馬はグレード制導入とともに整備されたマイルGIを3勝するなど、八大競走と呼ばれた中長距離の大レースに比して「裏街道」と言われていた短距離レースで勝ち続けることにより、後に続く短距離、マイルGI路線の活路を開いた存在とされる。また種牡馬としてもヤマニンゼファー、フラワーパークという短距離GIの優勝馬を輩出するなど優れた実績を残した。母ニホンピロエバートは1974年のクラシック二冠馬キタノカチドキの半妹であり、管理調教師の服部正利はキタノカチドキを管理していた。主戦騎手は河内洋。叔父キタノカチドキの主戦騎手武邦彦も6戦騎乗している。※本項では1980年産馬について説明する。また、馬齢は旧表記(数え年)に統一する。1982年9月11日の新馬戦に勝利すると、3連勝でデイリー杯3歳ステークスを優勝する。しかし、阪神3歳ステークスはダイゼンキングのアタマ差2着に敗れた。1983年緒戦のきさらぎ賞を勝利してクラシック路線へ進むが、スプリングステークスでタケノヒエンの6着、皐月賞で後に三冠馬となるミスターシービーの20着(最下位)と惨敗。この後はクラシック路線をあきらめ短距離路線に転向し、秋にはオパールステークスからCBC賞まで3連勝した。1984年、この年からグレード制が導入されると同時に短距離路線が整備され、それまでハンデ戦だった安田記念と、新設されたマイルチャンピオンシップが短距離のGI競走として制定された。本馬もこれらを目標とすることになったが、年明け緒戦の淀短距離ステークスは勝利したものの、続くマイラーズカップは不良馬場となり2着敗退。しかも直後に骨折して春シーズンを棒に振る。秋に復帰し、緒戦の朝日チャレンジカップで60kgの斤量を背負いながらも逃げ切ると、次走のスワンステークスでは同期の桜花賞馬シャダイソフィアに7馬身差をつけるレコードタイムで優勝。そして11月18日、京都競馬場で行われた第1回マイルチャンピオンシップに出走、その年の安田記念優勝馬ハッピープログレスを破ってGI初制覇を挙げた。1985年、2000mの大阪杯は8着と敗れるが、1600mのマイラーズカップ、1400mの京王杯スプリングカップでは1番人気に応え優勝。5月12日にはマイルGI安田記念に勝利する。秋は毎日王冠から始動して同レース4着の後、天皇賞(秋)に出走。このレースではギャロップダイナが制覇し、また2着シンボリルドルフとは0.1秒差の3着に入り、2000mの距離でもGI級の相手と闘える事を証明した。続く次走マイルチャンピオンシップで、2着のトウショウペガサスに3馬身差をつけて連覇を達成、これが引退レースとなった。なお、本馬は引退式の開催が予定されていたのだが、直前に骨折しため行われなかった。引退後は種牡馬として5億円のシンジケートが組まれ、北海道門別の下河辺牧場に繋養されたが、後に同じ門別のブリーダーズスタリオンステーションに移動している。種付け頭数は関係者の意向で年間60頭に制限されていたが、下記の重賞勝ち馬を始め多数の活躍馬を送り出している。非常に受胎率が高いことで知られており、またホモ鹿毛遺伝子を持っていて、産駒には栗毛や青毛の馬が存在しない。2002年の暮れにシンジケートが解散され、2004年に種牡馬を引退。2005年3月17日に生まれ故郷である北海道門別町の佐々木牧場で心臓麻痺により死去。その後、墓が佐々木牧場に建立された。後継種牡馬としては、ヤマニンゼファー、ニホンピロプリンス、ダンディコマンド、メガスターダムなどが父の血脈を伝えている。2011年~2012年度の顕彰馬選定投票では無効票扱いとして1票が投じられている。また、2005年度の同投票では18票を獲得している。2012年にJRAが製作した安田記念のCMでは、本馬が「マイルの皇帝」として紹介された。ニホンピロサート(ガーネットステークス、他ダート交流重賞4勝)、エアガッツ(ラジオたんぱ賞)、エフティマイア(新潟2歳ステークス、桜花賞2着、優駿牝馬2着)、ニホンピロレガーロ(小倉記念)などを輩出し、芝ダート・距離を問わず活躍している。通算26戦16勝のうち、1600m以下の距離での成績は18戦14勝・2着3回とほぼ完璧といえる戦績を残し、競走馬時代の当時「皇帝」と呼ばれた一期後輩の三冠馬シンボリルドルフでさえ、短距離・マイル戦ではニホンピロウイナーに勝てないだろうと言われていた。良馬場のこの距離で唯一着外に敗れた4歳6月の阪急杯では道中で落鉄を起こしており、年齢的、時期的にも古馬混合戦に挑むのは厳しい条件だったと考えられる。マイル戦での活躍が目立つ本馬だが、当時はスプリンターズステークスがGIに格付けされていないなど、マイラーとスプリンターの区別が不明確な時代だった。そのためあまり目立たないが、本馬は現役時にスプリント戦(1400m以下の競走)に10戦出走して上記の阪急杯を除き全勝するなど、マイル戦以上の安定感を発揮している。一方で不良馬場を苦手とし、不良馬場で行われたレースではマイル戦も含めて5戦し全敗と精彩を欠いた。やはり不良馬場となり最下位に敗れた皐月賞も、距離よりも馬場の悪さが原因であったとする見方もある。全般的な戦跡を見ると短距離馬のイメージが強いが、1983年のきさらぎ賞では同年の有馬記念馬リードホーユーを破り、翌年の朝日チャレンジカップで60kgの斤量を背負いながらも後に宝塚記念を勝つスズカコバンらを従えて1着、更に1985年の天皇賞(秋)においても勝ち馬ギャロップダイナから僅か0.2秒差の3着となるなど、中距離でもある程度の実績を残している。同期には三冠馬ミスターシービーの他にも、ジャパンカップを日本調教馬として初めて優勝したカツラギエース、1985年天皇賞(秋)・1986年安田記念優勝馬ギャロップダイナ、1983年の有馬記念を4歳で制したリードホーユー、1985年の宝塚記念馬スズカコバンとGIを勝利した牡馬が5頭いるが、本馬はミスターシービーを除く4頭を負かしたことがある。さらに生涯獲得賞金4億8322万1400円はミスターシービーを凌ぎ、1980年生まれの中央競馬所属競走馬の中で最も多い。主戦騎手を務めた河内洋は本馬について「1400mがベストのスプリンターであり、決してマイラーではない」と語っている。また「短距離戦には、それを得意とする馬の全盛期がもって1年、酷ければGIをひとつでも勝ってしまえば後は零落れてしまうような消耗の激しさがある。しかしこの馬は、いくらマイル・スプリント路線の創成期とは言え、その中で3年以上も第一線で活躍して結果を残し、それどころか年々強くなり続けていた。そこにこの馬の凄さ、偉大さがある」とも評している。

出典:wikipedia

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