LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

馬山市

馬山市(マサンし)は、大韓民国慶尚南道にかつて存在した市。鎮海湾最奥部に位置し、古くから港を中心に発展した土地であり、近代には開港場となった。1970年に設定された馬山自由貿易地域は、韓国経済テイク・オフの導火線となった。2010年7月に昌原市に編入され、馬山合浦区と馬山会原区が置かれた。旧馬山市は、慶尚南道南部海岸地帯、鎮海湾最奥部に位置する。西南に固城郡、西に晋州市、北に咸安郡と境を接していた。南と東は海(鎮海湾)に面しており、東にある鎮海湾の入り江を特に「馬山湾」とも呼ぶ。2010年7月に編入されるまで、昌原市は馬山湾対岸の市であった。古代には伽耶の領域で、骨浦(コルポ)と呼ばれた。統一新羅時代の757年に骨浦県を改めて合浦県となり、義安郡の属県とされた。日本で「がっぽ」と読まれる合浦は、元寇における日本侵攻の基地として著名である。文永の役では1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。その7年後の弘安の役では(1281年・弘安4年・至元18年)5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人の東路軍900艘が、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航した。1282年には会原県と改称され、金州に属する郡県の一つとなった。李氏朝鮮時代の1408年、会原県と義昌県(義安県から改称)が統合され昌原府となった。以来、朝鮮時代を通じて馬山浦は昌原府の一部であった。近代に入ると、対馬海峡に程近く鎮海湾を抱くこの地は日露の覇権争いの舞台となる。1899年、ロシアが馬山に単独租界を設置しようとした馬山浦事件を経て、馬山は朝鮮半島第五の開港地となる。馬山には日本人租界のほか、日露戦争まではロシア租界もあった。昌原府は1910年10月1日に馬山府に改名された。1914年に開港地付近を管轄する府制に基づく馬山府が設置され、商業の中心として発展した。1949年、馬山市と改称した。1950年-1952年の朝鮮戦争時に韓国軍や韓国警察によるとされる民間人虐殺事件が起きた(保導連盟事件)。1960年3月、李承晩独裁政権の不正選挙を糾弾する市民デモが発生、治安当局との衝突で多数の死傷者が出た(3.15義挙)。のちに頭部に催涙弾を打ち込まれた高校生の遺体が発見され(馬山事件)、同年4月19日の学生革命の導火線となった。1970年に朴正煕政権は輸出振興のため馬山自由貿易地域を設定し、外国企業を誘致して成功を収めた。のちに設けられた中国の経済特区は、韓国や台湾の自由貿易地域を参考にしたとされる。1973年、北東に隣接する昌原郡昌原面・上南面・熊南面を編入。この地域は「産業基地開発促進地域」に指定されて大規模な計画都市(昌原新都市)が建設され、1980年には昌原市として分離した。1990年には市域に合浦区・会原区を設けている(2000年末に廃止)。1995年には市域の西隣に残っていた義昌郡(旧・昌原郡)管下の5面を合併して都農複合形態市となった。2005年3月18日、馬山市議会は島根県議会の竹島の日制定に反発して「対馬の日」条例を制定した。これは、1419年に朝鮮王朝軍が行った対馬征伐(応永の外寇)により対馬が朝鮮領になったとの理屈に基づき、対馬征伐の船団が馬山浦を出発した6月19日を「対馬の日」としたものである。これに対し韓国政府は適切ではないとして、馬山市に条例の撤回を要請している。2010年7月1日、馬山市は昌原市に編入され、旧市域には馬山合浦区と馬山会原区が置かれた。2つの区の範囲は、かつて設置された合浦区・会原区の範囲と同じである。2010年6月末の時点では、下位行政区画として1邑4面27洞(68法定洞)が置かれていた。金海国際空港からは43キロの距離。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。