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町野武馬

町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。旧会津藩士・町野主水の次男として現在の会津若松市に生まれる。町野は父から武士の子弟としての教育を受けた。松平容保の6男・松平恒雄は少年時代の遊び友達である。山川浩の書生として上京し、成城学校を経て陸軍士官学校に進む。1898年(明治31年)卒業(10期)。歩兵中尉として日露戦争を迎え、旅順攻囲戦に参加。歩兵第十五連隊から一個中隊を率いて白襷隊に加わり負傷している。戦後も中国に留まり辛亥革命では張作霖を支援し、満州独立工作を行ったが失敗している。大隊長等を務めたのち、奉天督軍顧問となる。再び張を支援し日本の満州進出に努めた。予備役編入後も顧問を続け、張は次第に満州での地位を固めていった。郭松齢が張に対し反乱を起こした際は、事態の収拾に努めている。満蒙五鉄道覚書の締結に際しては、田中義一の依頼により張との間で下交渉を行った。のち河本大作らは、北京から帰還する張の列車を爆破し殺害した(張作霖爆殺事件)が、その際町野は同乗するも爆破前に中途で下車している。町野が事前に情報を得ていたかは不明である。1924年(大正13年)5月に行われた第15回衆議院議員総選挙で福島県第二区から当選し、衆議院議員を1期務めた。満州問題に関心を失うことはなく、満州事変直前に第2次若槻内閣の閣僚であった江木翼に警告を発している。また陸軍が次第に政治に介入する情況を憂い、内大臣・湯浅倉平に面会し対策が必要であることを述べている。これに対し湯浅は危険を顧みず痛烈な陸軍批判を行い、町野は湯浅の人物に打たれ涙した。町野は近衛文麿を中心とした木曜会に参加しており、対英米非戦派であった。なお町野は国会図書館が行った政治談話録音の一人目の談話提供者である。会津松平家家臣である町野家は、鎌倉幕府の問注所執事三善康信に発し、室町幕府の評定衆を経て江州日野の町野郷の荘園を領地として存続し、室町時代末期に至り六角氏佐々木家に仕えた町野備前守經春を中興の祖としている。經春より三代目秀長の次男町野繁仍(幸仍ともいう)は蒲生氏郷の重臣で2万8000石を食んだ白河城主であり、「氏郷記」などにその名が見える。その子町野幸和は旗本となり、徳川家光の側室・自証院の養父となった。繁仍の子孫は幕臣として存続したが数代で断絶した。これは続群書類集完成会の「断家譜」巻の十九「町野氏」の項に明らかである。前出の秀長の長男石見守秀俊が町野家を存続させ、寛永13年、秀俊から三代目伊左衛門重成の代に保科正之に召抱えられ、幕末には300石を食んでいた。武馬の父町野主水重安は經春から14代目、武馬は15代目の当主である。なお山鹿素行は蒲生時代の町野家邸内で出生した。町野は郷党の育成に熱意があり、稚松会理事を務め若松の自宅を開放していた。なお陸士同期の西義一も同会の会員である。

出典:wikipedia

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