小林 宏之(こばやし ひろゆき、1978年6月4日 - )は、埼玉県草加市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球監督。2010年から2012年および2014年西武在籍時の登録名は、姓名の区切りがない小林宏(こばやしひろ)。春日部共栄高校からのドラフト会議で千葉ロッテマリーンズより4位指名を受けて入団。同校はプロ野球選手を多数輩出しているが、大学や社会人を経ずに直接プロ入りしたのは小林が初めてだった。1年目の1997年は1軍登板なしに終わった。翌年1998年にプロ初登板を果たした。しかし、1999年と2000年は1軍登板はなかった。プロ5年目の終盤から1軍に定着。この年7月9日の対福岡ダイエーホークス18回戦(千葉マリンスタジアム)で、10回表に藤田宗一が大道典嘉に3ラン本塁打を浴びて3点ビハインドとなった場面で藤田の後を受けて登板し、1/3回を無失点に抑えると、10回裏の攻撃でフランク・ボーリックが満塁本塁打を放ち逆転サヨナラ勝利となり、小林がプロ初勝利を挙げた。この年は22試合に登板し、防御率3.70の成績を残した。、シーズン当初は先発投手として起用されたが結果を出せず脱落、その後セットアッパーに回り活躍した。8回を小林宏之・9回を小林雅英と繋ぐ投手リレーは「小林リレー」と呼ばれ、勝ちパターンの継投として定着した。また、オールスターゲームにも初出場を果たした。この年は58試合に登板し、防御率2点台と好投した。、開幕からリリーフとして活躍。シーズン中盤に再び先発に復帰し、先発ローテーションに定着。初の規定投球回と2桁勝利を達成した。最終的に50試合に登板した。開幕前、6年間交際していた当時18歳の女性と入籍。この時小林は25歳だった。このシーズンは先発ローテーションの一角として初めてシーズン通して先発起用され、8月には自身初の月間MVPも獲得した。しかし二桁勝利には届かず、全体的には不安定な内容だった。は、セ・パ交流戦中、打撃では打率3割に3打点、投げては6試合で5勝0敗という成績を残し、チームの交流戦優勝に貢献。初代の交流戦MVPも獲得した。交流戦の対読売ジャイアンツ(巨人)戦では登板直前に長男が誕生。本人曰く「睡眠時間3時間ぐらい」というコンディションで粘投を見せ勝利を収め、試合後のヒーローインタビューで長男の誕生に喜びを見せた。レギュラーシーズンでも清水直行・渡辺俊介らとともに先発三本柱の一角として活躍し、12勝6敗、防御率3.30の成績を挙げた。プレーオフ、日本シリーズでも活躍し、チームの日本一に大きく貢献した。、第1回WBC日本代表に選出されたが、渡米中に発熱などで調子が上がらず、本大会で登板することはなかった。またWBCの影響で足を故障し開幕から出遅れたが、4月26日の対オリックス・バファローズ戦で初登板、2安打完封、98球で勝利。その後、シーズン最終登板となった対西武ライオンズ戦で10勝目を挙げ、2年連続の二桁勝利を記録した。翌年1月1日にTBS系で放送された『スポーツマンNo.1決定戦』では、初参加ながらショットガンタッチで12 m 50 cmを記録し総合6位に入った。は、シーズンを通して先発ローテーションを守り、自己最多の投球回を達成。13勝を挙げて3年連続の二桁勝利となった。クライマックスシリーズでも第1ステージ第2戦・第2ステージ第2戦で先発したが、第1ステージでは2回途中6失点の大乱調で敗戦、第2ステージでは足の痙攣が治まらず4回途中に降板した。同年は北京五輪アジア予選日本代表に選出され、初戦の対フィリピン戦を打者3人、2奪三振で締めた。背番号はロッテでの41を稲葉篤紀に譲って14を着けた。オフにはポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍の希望を球団に訴えたが認められず、総額2億円+出来高の2年契約を結んだ。、プロ12年目で初めて開幕投手(対北海道日本ハムファイターズ戦)に指名された。相手投手のダルビッシュ有と投げ合い、6回途中まで無失点に抑えたものの足の痙攣で降板、敗戦投手となってしまった。これ以降は右肩痛を発症したこともあり不調が続き、シーズン5勝12敗・自己ワーストの防御率5.02と、先発としての役割は果たせなかった。は先発ローテーションの一角を担ったが、4勝13敗・防御率4.29という前年同様の不本意な成績に終わってしまった。2年連続で規定投球回未到達に終わった。救援時には4試合登板で無失点、WHIP0.78, 被打率.130と好成績であったため、シーズンオフにクローザーへ転向した。4月6日より登録名を小林宏に変更。1998年から2007年までは小林雅英が、2008年と2009年は小林憲幸が同じ球団に所属していたため、スコアボードや新聞上では「小林宏」の表記が使われていた。2010年シーズンは同姓の選手がいなくなったが、本人は「小林宏」表記に愛着を持っており、「小林」に対し違和感があったことから、山本昌と同様に名字と名前の一文字目を組み合わせて姓名の区別を付けない登録名にしたものであった。シーズンではオープン戦で右肘を痛めたため開幕を二軍で迎え、状態によっては長期離脱の可能性もあったが、開幕7戦目となる3月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で一軍に復帰し、初セーブを挙げた。4月26日に海外フリーエージェント (FA) 権を取得。最終的に3勝3敗29セーブ、防御率2.21, WHIP1.07と好成績を残したが、開幕から5月まで防御率0.00, WHIP0.72, 8月には月間防御率0.69, 同WHIP1.08と好投した一方で、6月には月間防御率5.19, 同WHIP1.73と不調に陥ったほか、9月には月間防御率4.72と救援失敗が相次ぎ、終盤にはセーブ機会でも登板を回避されるなど月によって好不調の激しいシーズンとなった。オフには夢であったメジャーリーグを目指し、FA権を行使。球団は慰留せず、宣言残留を認めないことを伝えた。その後、複数のメジャー球団が興味を示していると報じられたが、メジャー契約のオファーはなかった。1月20日、FA権行使直後より久保田智之・藤川球児に繋ぐ中継ぎの軸として獲得意思を表明していた阪神タイガースと初交渉し、阪神入団を表明。推定2年総額5億円で大筋合意した。そして同年1月28日に入団会見を開き、背番号はロッテ時代と同じ「41」となった。しかしシーズン前半戦は6度の救援失敗(うち4敗)を喫するなど不振で、7月26日の対中日ドラゴンズ戦で移籍後初勝利を挙げたものの、調子は上がらず8月28日に二軍落ち。9月30日に再び一軍登録されたものの、10月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦で失点を喫するなど最後まで不安定なままシーズンを終えた。は先発への再転向を期したが不振で一軍昇格はなく、10月2日に戦力外通告を受けた。11月18日に古巣ロッテの鴨川秋季キャンプで入団テストを受けたが、2回を投げ6安打5失点の結果で不合格となった。1月31日にロサンゼルス・エンゼルスとマイナー契約で合意し、2月14日に契約。スプリングトレーニングに招待選手として参加していたが、3月4日に解雇された。その後、8月14日にベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)の群馬ダイヤモンドペガサスへ入団。7試合の登板で2勝1敗、防御率3.14とまずまずの成績を残したが、11月2日に自由契約となり、退団が発表された。11月22日に行われた、2013年度第2回12球団合同トライアウトに参加したが、獲得に乗り出す球団はなかった。1月、2013年中に獲得を検討していた台湾プロ野球・統一セブンイレブン・ライオンズへの入団を希望したが、統一側は入団テストを行うことなく採用を見送った。2月12日にBCリーグの信濃グランセローズに入団することが報道され、2月20日に投手コーチ兼任で正式に入団。信濃入団後は、セットアッパーとして26試合に登板。2勝1敗、防御率1.26の成績を残した。2014年7月21日、埼玉西武ライオンズが獲得を発表、2年ぶりにNPBに復帰することになり、翌7月22日に入団会見を行った。背番号は「52」。登録名は2010年から2012年まで使用していた小林宏になった。7月25日の対ロッテ戦(西武ドーム)でNPBでは2011年10月4日以来、1,025日ぶりに一軍登板を果たし、6回の1イニングを2与四球1奪三振の無失点で抑えた。その後は中継ぎとして15試合に登板したが、防御率7.94と不安定な成績だった。10月2日、球団から戦力外通告を受け、同月22日に現役引退を表明した。1月8日、BCリーグ・武蔵ヒートベアーズの投手コーチに就任。5月8日、監督の星野おさむが退任したことに伴い監督代行に就任。シーズン終了後の11月2日、2016年より監督を務めることが発表された。制球がよく、低めにボールを集めることができる。ストレートは150 km/h近い数値を計測し、変化球はスライダー、フォーク、チェンジアップを投じる。
出典:wikipedia
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