川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手)。日大二高では、1986年の第68回全国高等学校野球選手権西東京大会で準決勝に進出するが、野林大樹のいた日大三高に延長13回サヨナラ負けを喫し、甲子園出場はならなかった。亜細亜大学に進学。同期に小池秀郎、高津臣吾両投手がおり、あまり登板機会には恵まれなかった。東都大学リーグでは1990年に春秋季連続優勝。リーグ通算24試合に登板し4勝1敗。卒業後は日産自動車に入社。投球フォームをサイドスローに変えて頭角を現し、チームのストッパーとなる。1992年にはチームを都市対抗出場に導き、1993年にもいすゞ自動車に補強され、前年に続いて都市対抗に出場。同年の社会人野球日本選手権では準優勝、敢闘賞を獲得する。1994年には3年連続となる都市対抗出場、社会人野球日本選手権では2年連続準優勝と大活躍、同年の第32回ワールドカップ日本代表にも選出される。1994年度ドラフト会議にて阪神タイガースから4位指名を受けて入団。1995年4月28日のヤクルトスワローズ戦ではプロ初登板初勝利。1996年には自己最多となる13勝をマーク、9月には月間MVPを獲得する。以降は同い年の藪恵壹とともに1990年代後半・低迷期の阪神を支える存在となる。1997年には開幕投手を務めた。同年は各地の球場で、試合中にレーザーポインターで投手の視界を遮る悪戯が多発していた。同年は不安定な投球が多く、5勝14敗2セーブの成績で終わってしまった。また、前述のレーザーポインターは翌年1998年5月の甲子園での試合では、ヒーローインタビューに応じる川尻の顔に、赤い光線が何度も走る様子がTV画面ではっきりと映り、各局のニュースでも採りあげられ、全国的な話題となった。1997年オフ、プロ野球脱税事件に小久保裕紀、波留敏夫らとともに関与していたことが明らかとなり、翌1998年に3週間の出場停止処分を受けることとなった。しかし、処分が解けた後は総崩れの投手陣を救う投球を見せ、5月26日、倉敷マスカットスタジアムでの対中日ドラゴンズ戦では矢野輝弘とのバッテリーでノーヒットノーランを達成、5月の月間MVPを獲得。オールスターゲームにも出場し、2年ぶりの10勝を達成。さらに、同年オフの日米野球ではカート・シリングと投げ合い、MLB選抜を0点に抑える投球を見せた。日米野球史上初完封目前の9回一死で死球を与え、監督の長嶋茂雄によって大塚晶文に交代させられた。1999年はまたしても不振に陥り、3勝5敗の成績でシーズンを終えた。2000年にも10勝を挙げ、またも日米野球で同僚の葛西稔、新庄剛志とともに大活躍を見せた。日米野球の好投により、メジャーリーグから誘いがあったが「まだメジャーにいくほどの実力ではない」と、断っている。2001年、3月30日の読売ジャイアンツとの開幕戦で3対12と大敗していたため、6番手として調整のためにマウンドに上がるも清水隆行に満塁本塁打を浴びた。結果的に巨人に1994年の福岡ダイエーホークスに並ぶ開幕戦最多得点記録(17点)を献上した。その後も不振で、1勝6敗、防御率は6.38の成績に終わった。しかし、同年オフの契約更改の席でこれまでの実績を盾に年俸のアップを要求、認められない場合はポスティングシステムでのメジャー移籍を要求。球団、ファンの両方から大いに反発を買う。この騒動は新監督の星野仙一の仲裁で収まる。その後、2002年は故障で出遅れてしまい1軍での初登板が7月4日だったものの、藤川球児、安藤優也、藤田太陽といったローテの谷間を務めた投手の中では、5勝4敗、防御率3.02と一番の成績を残した。メジャー行きは断ったものの、新庄剛志ら知己からメジャーの情報は細かく聞き出しており、球界再編時はメジャー行きも視野に入れていたという。2003年は伊良部秀輝、下柳剛の加入もあり、前年よりさらに少ない2試合の登板に終わった。優勝を決めた9月15日には、ケガのため二軍調整中だった藪、濱中治らが「これまでの功労者」として1軍帯同・胴上げ参加を認められたが、川尻は、胴上げ参加を「俺の行く所じゃない」と拒否し、日本シリーズにも登板機会はなかった。オフに前川勝彦との交換トレードで大阪近鉄バファローズへ移籍。2004年、球界再編問題でオリックスとの合併を迎える。この時には自身の登板日にも拘らず、試合開始直前まで熱心に署名活動に参加したり、登板のない日には試合に出場する他の選手に「後は俺がやっておくから、安心して試合に行ってこい」と声をかけ、吉田秀彦ら交友関係のある友人に協力を求めるなど、精力的に活動し、最後まで球団合併阻止に力を尽くした。しかし、シーズンでは序盤は好投したが、後半は打ち込まれることも多く、4完投を記録するも、4勝9敗、防御率4.26と不本意な成績に終わった。同年オフの分配ドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。主力投手として期待されたが、僅か2試合の登板に終わり、2005年に戦力外通告を受けて現役を引退。その後、緊急地震速報システムメーカー(3Softジャパン)の顧問に転身、2006年緊急地震速報装置の特約店(ユニゾン)を仙台で設立。阪神時代の1995年に阪神・淡路大震災を経験しており、「人の命を守りたい」と思ったからだという。2009年5月に解雇され、給与の未払い(08年1月から09年5月に解雇されるまでの1年5か月分)を理由に同社を提訴したが、2010年10月15日に雇用契約を結んでいたとは断定できないとされ、敗訴した。2007年、松坂大輔がジャイロ回転のスライダーを投げているのではないかと噂になった時、ジャイロ回転のボールを投げられる投手としてTV各局の取材を受け、実際に投げてみせた。その際、現役時代より太っていたため、ますだおかだが自身のラジオ内で「亀山努以来の太り方」とネタにしていた。その後は、ミヤギテレビの野球解説者を務めていたが、2013年3月15日に群馬ダイヤモンドペガサスの投手コーチに就任することが発表された。2014年からは監督に就任。監督初年度はチームを5年ぶりとなるリーグ総合優勝に導いた。2015年10月29日、契約満了に伴い、監督を辞任。2016年、韓国プロ野球ハンファ・イーグルスのインストラクターとなった。阪神時代、開幕投手を打診されながら「開幕投手をしたって年俸が上がるわけじゃない」と発言したり、1997年の脱税事件関与、2001年のメジャー移籍騒動をはじめとする契約更改でのトラブルの多さから「お騒がせ男」のイメージが付いて回った。しかし、2004年の球界再編問題での活躍や、ファンへの対応などの評判は良かった。入団当初は球速が140km/hを越えていたが、年々球速が落ちた。しかし、変化球に磨きをかけ、ジャイロボールを習得するなどした。持ち球は、スライダー・スローカーブ・シンカー・シュートなど。かつては皆川睦雄、小林繁、上田次朗ら多くのサイドスローの先発投手がいたが、年々サイドスローの投手はリリーフでの起用が多くなっており、先発投手はほぼ皆無である。川尻が現役時代のセ・リーグでは巨人斎藤雅樹がケガのために登板数が減った1998年以降は貴重な先発サイドスロー投手だった。
出典:wikipedia
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