ハインケル He 111は、第二次世界大戦前から大戦終了まで、ドイツの航空機メーカーのハインケルが製造し、ドイツ空軍が使用していたレシプロ双発爆撃機。ドイツはヴェルサイユ条約の規制のため、戦闘機などの開発を民間機の名目で行っており、He 111も民間用輸送機として開発が進められていた。まずは民間用にC型が開発された。このC型を元に軍用機も研究、開発が進められた。こうして開発された機体He 111 A型は当初、重量過多により巡航速度が予定の数値を大きく下回り、「期待はずれの落第機」の烙印を押されたが、その後DB 600 Aエンジンを搭載したB型が開発され、この機から実戦配備された。ドイツ空軍の「爆撃機の高速化」のコンセプトにも基づいており、当時の爆撃機としては高速であった。本機は楕円翼を持つ。機体内にある爆弾倉は2つの区画に分かれており、爆弾は弾頭を上に向けて垂直に8発搭載するという、独特の構造をしている。また、機体腹部に、爆弾倉のものより大型の爆弾なども搭載できる。機首部と腹部のゴンドラに自衛用の銃座を備える。初めは、操縦席の風防と爆撃手の風防が独立した、段差のある機首であったが、P型以降は、これらが一体となった前面ガラス張りの風防に変更され、機体上部に銃座が追加された。最終的にH型まで改良された。変わった機体として、大型輸送グライダーMe 321の曳航用に、2機の機体を中央主翼で横に繋ぎ合わせた5発双子機(ツヴィリング)であるZ型が製造されている。1937年 - 1939年のスペイン内戦で、実戦投入され、一定の戦果を挙げる。また同時期に、日独伊防共協定を結んでいた大日本帝国で、日中戦争(支那事変)が勃発。大日本帝国陸軍は、使用できる重爆撃機が時代遅れの九三式重爆撃機しかなく、新鋭後継機である九七式重爆撃機の配備にはまだ時間がかかる状態だったため、中継ぎの爆撃機を海外から輸入して対応する計画を立て、He 111の輸入を希望したが、ドイツ軍部の反対で実現しなかった。その後勃発した、第二次世界大戦では、1939年のポーランド侵攻や1940年のフランス戦など、大戦当初は主力機として活躍したが、爆弾の大型化に伴い速度が低下し、また防禦力も低かったため、バトル・オブ・ブリテンでは大損害を被った。以降、東部戦線を除いて昼間爆撃任務の殆どはJu 88が行うようになり、He 111は夜間爆撃機、ミサイル母機や偵察機、雷撃機として活躍した。東部戦線でも1943年頃からHe 111の爆撃任務は夜間に限定されるようになった。1942年にはスターリングラード攻防戦で包囲された友軍への空中補給任務を行い、大戦末期にはほとんど輸送機として任務に就いた。1942年に、後継機のHe 177が登場したが、技術的問題で初期不良が多発したため稼働率は低く、He 111は既に旧式化していたものの1944年まで製造された。大戦前に中華民国へ輸出され、大戦中にはドイツと同盟関係にあった枢軸国にも供与された。大戦末期には、スペインが、CASA 2.111としてライセンス生産し、大戦後も1973年まで使用された(後述)。CASA 2.111は、スペインの航空機メーカーのコンストルクシオネス・アエロナウティカス(CASA)がライセンス生産したHe 111である。He 111 H-16が基となっている。1945年5月23日に初飛行。1956年までに236機が製造された。初期の機体のエンジンは、オリジナルと同じくユモ 211 F-2(1,350hp)を搭載した。しかし、ドイツの敗戦により製造元のユンカースは軍用品の製造を禁止されたため、消耗部品の調達ができずにエンジンの整備が困難な状況に陥った。そのため、1953年より製造された機体からは、部品の入手が容易なロールス・ロイス製の民間用エンジンマーリン 500-20(1,500hp)を搭載するようになった。エンジン変更により、エンジンカウルとエアインテークの形状が変わった。実戦では、1957年 - 1958年に、モロッコとのイフニ戦争で近接航空支援として投入された。1973年に全機退役した。退役した機体の中には、第二次世界大戦を題材とした戦争映画にHe 111として、ドイツ空軍の塗装に変更されたうえで撮影に使用されている。
出典:wikipedia
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