今野 浩(こんの ひろし、1940年(昭和15年) 8月11日 - )は、日本の数理計画法、金融工学の研究者、著述家。Ph.D.(スタンフォード大学、1971年)、工学博士(東京大学、1977年、論文博士)。東京工業大学名誉教授。資産運用の最適化では平均・絶対偏差モデル(MADモデル)を提唱し、線形計画法のアルゴリズムを特許化した通称カーマーカー特許には訴訟で抵抗した。週刊誌連載「大学教授の株ゲーム」の共著者であり、「工学部の語り部」として「工学部ヒラノ教授」シリーズ など多くの著書を執筆した。筑波大学電子・情報工学系助教授、東京工業大学工学部人文社会群教授(統計学担当)、同経営工学専攻教授、同大学院社会理工学研究科長、同理財工学センター長、中央大学教授を歴任し、学会関係では第13回国際数理計画法シンポジウム実行委員長、日本知財学会副会長、金融・証券計量・工学学会(JAFEE)会長、日本オペレーションズリサーチ学会会長などを務めた。1940年生まれ。祖父は旧制高校の校長を務めた人物で、父は数学を専門とする大学教員であった。今野は静岡県の小学校を卒業し、東京都の中学校へ進学。さらに日比谷高等学校を経て、東京大学理科一類に進む。高校・大学の同級生に野口悠紀雄がいた。進学説明会における森口繁一の話に感化され、今野はオペレーションズ・リサーチが自分の生涯の仕事と決意し、何とか東京大学工学部応用物理学科の数理工学コース(現在の計数工学科)への配属を勝ち取る。森口研究室に配属され、卒業研究ではゲーム理論を研究、1963年には卒業と同時に結婚する。大学院修士課程に進学し、修士課程では偏微分方程式の数値計算をテーマとする。今野は電力中央研究所から依頼を受けてダムの地震時の振動の計算を実施し、これは論文となり書籍にも掲載される。今野は本心では博士課程進学を望んでいたが、先輩たちの優秀さに気が引け、就職の道を選ぶ。当初は奨学金の関係からメーカーへの就職が決まっていたが、指導教授の森口に断りを入れてもらい、自由な研究ができそうな電力中央研究所を選択する。今野は1965年にから1974年まで財団法人電力中央研究所に入所。原子力発電研究室に配属されたが、希望した計算機室ではなかったこともあり、研究所ではなかなか満足いく研究活動ができなかった。この間、野口悠紀雄(当時大蔵省)や斎藤精一郎(当時日本銀行)とともに、「21世紀の日本」懸賞論文コンテストに応募。今野らの「10倍経済社会と人間」は2位の堺屋太一(当時通商産業省)を抑え、内閣総理大臣賞を獲得。論文は書籍として刊行された()。1968年には新設された海外留学制度を利用してスタンフォード大学大学院へ留学、1965年に発足したばかりのオペレーションズ・リサーチ学科に所属する、統計学の修士号を取得するとともに試験を突破して博士候補生となる。当初は2年間の予定であったが、電力中央研究所の都合で留学期間が1年延長される。今野は「線形計画法の父」であるのもとで博士論文研究に取り組み、双線形計画問題に切除反面法をあてはめるアイデアを出す。1971年の夏にオペレーションズ・リサーチの博士課程を修了し、Ph.D.を取得するものの、ほかの研究者から証明の誤りを指摘されてしまう。後年正しい証明に成功し更なる発展を遂げるものの、長い間今野の研究生活に影を落とすことになる。また、留学を終えた後に今野は約1年間の休職を取り、ウィスコンシン大学数学研究所に滞在。目的であった前述の博士論文の問題は解決できなかったが、このとき出した論文がホアン・トイ教授らとの交流につながっていく。1974年、声が掛かった複数のアカデミック・ポストの中から、「国際A級大学」「ソフトウェア科学の世界的拠点作り」の名に惹かれて筑波大学電子・情報工学系に助教授として就任。全学共通の情報科目を担当する一般教育を担当する。今野は着任早々の1974年、1年間ほどオーストリアので研究生活を送ることになる。原子力発電システムの最適化問題に取り組み、「数理モデルの具体的システムへの応用研究」の面白さに目覚めることになる。また、この滞在中に博士論文の問題にも取り組み、証明を誤りを正して内容を拡張した2編の論文をまとめている。また、1977年には東京大学において、論文博士で工学博士を取得し、1979年にはパデュー大学で4ヶ月ほど客員教員を務める。この間、今野は多くの授業を引き受けるとともに、数冊の著書を執筆した。特に山下浩との共著である『非線形計画法』は長く売れ続けた。1982年には東京工業大学工学部人文社会群に教授として招聘される。推薦したのは吉田夏彦で、スタンフォード大学の統計学修士号と著書『10倍経済社会と人間』が評価されたという。当時の人文社会群には、吉田のほか江藤淳、永井陽之助らがいた。1994年同大学経営システム工学科教授、1996年同社会理工学研究科経営工学専攻教授、研究科長( - 1998年)、1999年同理財工学研究センター長。四十代半ばからは「資産運用理論」、六十歳ごろからは「信用リスク」を主な研究対象とした。2001年に東工大を定年退職した今野は、中央大学理工学部経営システム工学科の教授に就任する。2004年には日本オペレーションズ・リサーチ学会の会長も務め、「OR40年」と題した会長随想を連載、近藤賞の創設にも携わった。また、私生活では妻の介護に追われている。2011年には中央大学も定年退職。晩年は「工学部の語り部」を自称。自身のやるせなさを表すのに“awkward”(ぶざまな、ぎこちない、などの意)という語が似つかわしいと述べている。今野は「拙速」を良しとし、期限を守ること、頼まれた依頼は断らないこと、研究成果は素早く公表することなどを掲げる。論文100本を目標とし、最終的におよそ150本の実績をあげた。また、今野は様々な身近な現実問題にオペレーションズ・リサーチの手法を適用した。電力中央研究所時代には、自身が複数の誘いからどこへ転出するかそれとも残留するかという問題に対し、階層分析法(AHP)に近いものを適用して筑波大学を選んでいる。また、東京工業大学の受講学生が約1300人になる「総合講義」という科目において、12-15クラスへ学生を振り分ける問題に最適化手法を適用した。東京工業大学において定年の年齢変更が検討された際にも、AHPを適用して最適解を導出した。今野は“Financial Engineering”の訳語として「金融工学」を避け、「理財工学」を提唱した。「金融」を避けたのはこの言葉に対するエンジニアの否定的な感情に配慮したためであり、「理財」は明治時代に“Economics”の訳語として理財学が提案されていたことに由来する。なお、論文査読や学会発表で他者に厳しいスタンスを取ったり「金融工学は単なる計算」と否定してきたりする経済学者に対し、今野は対抗心を持っていた。東大大学院時代の工学部・経済学部・医学部合同の統計学輪講、シンポジウムの招待講演でのやり取りなど、多くの経験を著作の中で語っている。また、師であるジョージ・ダンツィクがノーベル経済学賞受賞を逃したことも、同賞や経済学への疑問につながっていた。(数理計画法)(金融工学)(知的財産)(その他)【目次へ移動する】
出典:wikipedia
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