沖ノ島(おきのしま)は、福岡県宗像市に属する、九州本土から約60キロメートル離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの孤島である。宗像大社の神領で、沖津宮(おきつぐう)が鎮座する。「神の島」と呼ばれ、島全体が御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも一般人は毎年5月27日以外の上陸は基本的に認められず、その数も200人程度に制限されている。山の中腹には宗像大社沖津宮があり、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ。宗像大社HP参照)をまつっている。無人島であるが、現在は沖津宮の神職が10日交代で派遣され、常時滞在している。1855年(嘉永7年)に作成された『皇国総海岸図』には「御号島」と記載される。エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、九州全土、特に宗像地方を中心に沖ノ島を世界遺産にする運動が行われ、2009年(平成21年)1月5日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(現在の名称は「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」)の構成遺産の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年(平成27年)7月28日に文化庁文化審議会により2017年の審査対象として選出。2016年(平成28年)1月28日に正式版推薦書がフランス・パリのユネスコ世界遺産センターに提出し、現地時間27日午後に受理された。9月8日、イコモスから派遣されたニューカレドニアの研究者クリストフ・サンドが上陸を許可され現地調査が行った。領海保持の観点からは、領海及び接続水域に関する法律による特定海域(対馬海峡東水道)の領海を示す基点であり、排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する法律に基づく低潮線保全区域に設定もされている。島の南西部、標高75~85m付近で巨石群が密集する黄金谷と呼ばれる場所に鎮座する。石積み基壇上に木造銅板葺き屋根の神明造社殿が建つ。この社殿は17世紀半ばに建立されたもので、それ以前には社殿がない状態であった。何回かの改築・修復で1932年(昭和7年)にほぼ現在の形になった。「宗像神社境内」として文化財保護法により国の史跡に指定されている。元寇後の1297年(永仁4年)に編まれた『夫木和歌抄』に「うつ波に 鼓の音をうち添えて 唐人よせぬ 沖ノ島守り」と詠まれており、沖ノ島が神国思想の拠り所として最前線の防波堤の役割を担っていたことがうかがえる。古事記には「胸形之奥津宮」とあり宗像大社の奥宮とするのは長年の旧慣であるが、近代的土地登記制度上では1952年(昭和27年)に宗像大社の所有地(神領)となったもので、それ以前は大蔵省所管名義であった。地籍登記上の住所は、福岡県宗像市大島沖ノ島2988番。島に常駐する神職が寝泊りする社務所は御前浜(沖ノ島漁港)と呼ばれる港に設けられており、真水の湧水があり、太陽光発電装置や船舶無線などが完備されている。以前は浜より上段の高台に社務所があり、小さな畑が作られ耕作も行われていた。。出土した土器から縄文時代前期には漁民らが漁業の基地として使用していたらしい。その範囲は、北九州、瀬戸内海、山口県にまで広がっている。沖ノ島で祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から4世紀後半頃と推測される。391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。また、宗像氏がヤマト王権の力を背景に朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのも同時期であり、そうした遺物も確認されている。祭祀の終了は9世紀末頃とみられ、894年(寛平6年)に遣唐使が廃止されたことや神道・神社の形式が確立したこと、仏教による鎮護国家の比重が増えたことなどとされる。第二次世界大戦後、宗像大社復興期成会(発起人と初代会長は出光佐三)により1954年(昭和29年)- 1971年(昭和46年)にかけて三次にわたる発掘調査が行われ、沖津宮社殿周辺の巨石に寄り添う23の古代祭祀跡から約8万点の祭祀遺物が出土(そのほか約2万点の縄文時代・弥生時代の遺物が出土)した。これらのうち第一次・第二次調査出土品は1962年(昭和37年)に国宝に指定、第三次調査出土品は1978年(昭和53年)に重要文化財に指定された。2003年(平成15年)には上述の国宝と重要文化財を統合、さらに同年と2008年(平成20年)に未指定物件が追加指定され、関連遺物全てが国宝に指定されている(約8万点とされる)。こうしたことから、沖ノ島は海の正倉院と称される。沖ノ島の祭祀遺構の特徴はながら埋蔵文化財化しておらず、遺構や遺物が千年以上も地表に露出したまま荒らされずに残されている点にある。沖津宮が建つ黄金谷という奥行約100mの小谷地形に12個の巨石(磐座)と無数の岩が散乱する中に点在する。正倉院にも収められているシルクロードを介してもたらされたペルシア産ガラス盃など地方豪族では入手困難なものが多数含まれていることから、ヤマト政権による国家的な祭祀が行われていたと推測され、古代における沖ノ島の重要性を物語っている。位置関係と遺物編年から四つの時期に区分される。祭祀空間が遷移したのは、徐々に大人数が参加する大規模なものへと発展したことでより広い場所を確保する必要性が生じたためと考えられている。また、8世紀後半から9世紀には神仏習合が起こり、宗像大社にも神宮寺として鎮国寺が併設されたが、沖ノ島祭祀に関しては仏教的要素はみられない。1905年(明治38年)5月27日、沖津宮の神官に仕えていた佐藤市五郎(1889~1974)が、樹上から日露戦争の日本海海戦の始終を目撃している。彼は両艦隊の乗組員以外で同海戦を目撃した数少ない人物の一人であり、その子細は創建以来書き継がれている沖津宮日誌に記されている。1940年(昭和15年)、陸軍は沖ノ島に有効射程20キロの96式2連装15センチカノン砲を4門据え、下関要塞重砲兵連隊が配備され、敵艦船・潜水艦の撃退を任務とした。海軍も艦船を探査する防備衛所を置き、戦時中には陸海軍合わせて200人ほどの軍人・兵士が駐屯していた。白岳(標高162m)近くの藪の中に弾薬庫、島西部の高台には砲台跡など、戦争遺跡が残されている。これら軍事施設を築き、炊事のために神木である原始林を伐採し、オオミズナギドリとその卵を食糧とした。一般人の上陸が許可されるのは、通常毎年5月27日に日本海海戦を記念して開かれる現地大祭の時に限られている。上陸できるのは事前に申し込みを行った中から抽選で選ばれた200人程の男性のみである。この上陸はすべて神事の一環として行われるため、前日に筑前大島の中津宮に参拝し、沖津宮奉賛会費(事実上の船代)2万円を支払い、島内に分宿。大祭当日は早朝より筑前大島船籍の釣り船などに分乗、2時間弱で島に到着する。現地に着いたあとは御前浜でまず全裸で海に入って禊(垢離)をしなくてはならない。島全体が天然記念物であるため、島内の植物や岩石の収集は禁止されている。ただし、島内の湧き水(ご神水)のみは例外とされている。島での滞在は2時間程の制限時間がある。同日、女性は大島にある瀛津宮から沖ノ島を遥拝する。沖ノ島は第4種避難港指定を受けていることから、荒天時などに付近を航行中の船が避難できるよう港湾設備が整備されている。そうした際に寄港して上陸する場合には、社務所に許可を取って禊をすることが必要である。葦津敬之宮司は「世界遺産になっても沖ノ島は開示するものではない」と明言しており、一般開放はもとより、女人禁制の伝統的禁忌も継承される。このことについてなどから抗議の声が上がり観光業界でも懸念が広がった。これに対しユネスコ指針「ジェンダーと世界遺産」では、「個々の宗教観や文化性は尊重する」「因習を話し合う場があるべき」とし、女人禁制が世界遺産登録審査の障害にはならないことを示唆している。国内法的には、宗像大社の私有地内であり、所有者が立ち入りを拒否する権利があり、女性差別などの違憲(日本国憲法第14条への抵触)には当たらないとの見解がある。。沖ノ島は無人島で監視員も少ないため不法侵入が複数回起きている。対馬海流に1998年(平成10年)に北朝鮮からの脱北者が潜入し海上保安部に身柄を拘束される事件が起きており、遡れば1963年(昭和38年)には韓国から大挙34人もの密入国もあった。これらの場合、出入国管理及び難民認定法により退去強制することになる。一方で日本人が無断上陸した場合、の住居侵入罪が適用されるが、の礼拝所不敬罪にも問われる可能性がある。不法侵入対策として、島の港湾部に監視カメラが設置されることになった。なお、島周囲の岩礁(実質的に島本体の地磯を含む)への磯釣り目的の上陸は容認されている。年一回のみの上陸・女人禁制・禊などの禁忌から神聖性が強調される沖ノ島だが、江戸時代を通して福岡藩が防人をおいていた。これは神域を守る目的ではなく、江戸幕府の鎖国政策に伴う外国船の監視任務であった。島での見聞については「お言わずさま」といって一切口外が許されないとされるが、貝原益軒は防人を務めた者からの聞き取りを行っており、『筑前国続風土記』に島の詳細な様子を記している。また、江戸時代の文献には女人禁制については一切記されていない。島内の「一草一木一石」たりとも持ち帰ることも許されないが、黒田長政は祭祀遺物を取り寄せさせており、防人は嶋土産と称し山中から薬草を持ち帰っている。島内での殺生は禁じられているが、防人や水夫らは魚介を食し、直会の後は酒盛りも行われていた。当然ながら防人は多数の武器を持ち込んでいた。沖ノ島には筑前大島の漁師も訪れ、禊などの神事なしで上陸していた。山中では「唾を吐かない」「用を足さない」「忌言葉を口にしない」といった不浄を避ける行いをするが、山と磯とには聖俗の境界があり、島全体を神聖化していた訳ではない。地籍図には島の東岸に2989番と2990番がふられ、漁業協同組合名義になっており、係留設備や船小屋が設けられていた(この工事の際には島の岩壁を爆破している)。レジャーとしての釣りが盛んになった現代では、沖ノ島周辺の海に漁礁を設けるため、多くの廃船を沈めている。1888年(明治21年)には宗像大社自身が男性氏子を対象にした沖津宮参詣旅行を企画し、博多で参加者を募集して催行された(日程は6月24~27日)。日露戦争時には陸軍の防衛基地が設置されたことで駐屯した兵士の口から島の様子が語られ(箝口令はなかった)、1936年(昭和11年)に宗像高等女学校(現宗像高校)の教師だった田中幸夫(1901~1982)が『宗像の旅』を上梓しその存在が全国に知れ渡り、歴史学・民俗学・宗教学などの学術論議が盛んになり、個人的に渡島する者も多かったという。これらのことから沖ノ島の神聖性が強調され文化的空間が形成されるようになったのは、国家神道の成立過程および戦後のごく最近になってからのことともされる。島は新生代新第三紀中新世の地殻変動に伴い海底岩盤が隆起したものが原形とされ、中核部は主として石英斑岩からなる。第四紀更新世の最終氷期に日本列島がユーラシア大陸と陸続きであった時期、島の原形も陸地の一部(山)となり土壌が堆積。完新世に氷河期が終わり海面上昇で対馬海峡や日本海が形成されたことで玄界灘の孤島が形成され、造山運動で海底に堆積していた対州層が周辺海域での火山活動で噴出し島の表面に露出する泥岩となった。島を上空から見ると北東から南西に向かって紡錘形をなし、北部に主峰一ノ岳(標高243.6m)がある。沖ノ島は亜熱帯性植物の北限でビロウやオオタニワタリ等の亜熱帯性植物が生育し、森林域はタブノキやヤブニッケイ等を中心とした原生林であるため1926年(大正15年)10月20日に「沖の島原始林」として国の天然記念物に指定されている。また、ヒメクロウミツバメ、カンムリウミスズメ及びオオミズナギドリなどの海鳥の集団繁殖地となっており、1978年(昭和59年)3月31日に国指定沖ノ島鳥獣保護区(集団繁殖地)に指定され(面積97ha、うち特別保護地区94ha)、玄海国定公園の自然環境保全地域でもある。その他の動物相としては、爬虫類でヘビが生息しておらず、天敵がいないことで海鳥が繁殖している点が上げられる。また、九州大学によって行われた昆虫調査では、99科448種が確認されている。 世界遺産推薦に際し掲げられたテーマに「宗像信仰の根幹となる海神(海洋)崇拝を表現する海(玄界灘)」があり、沖ノ島周辺海域の自然環境は重視される。1980年代に九州大学が実施した海洋調査では64科168種を確認したが、近年の調査では南洋系の熱帯魚などが増えており、海藻が育たなくなる磯焼けも発生し漁獲量が減少するなど地球温暖化(海水温上昇)を指摘する見方もある。この数年来、韓国や中国において海洋投棄された漂流・漂着ごみの着岸が確認されており、聖域を汚すのみならず、景観や生態系を損なう恐れもある。沖ノ島の周囲には岩場や瀬が複数ある。島の南側約1キロにある小屋島と御門柱・天狗岩が沖ノ島の鳥居の役割を果たしているとし付帯施設として世界遺産候補の構成資産となり、世界遺産に求められる完全性(インテグリティ)としての法的保護根拠を満たすため史跡の追加指定を目指しているが、小屋島(標高29m)は瀬渡しの釣り船に紛れ込んで上陸したネズミがカンムリウミスズメを捕食し、生態系を脅かしている。沖ノ島の北岸から20~30mにあるノリ瀬()は、「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」(総合海洋政策本部決定)に基づき排他的経済水域の外縁を根拠付ける離島として2011年(平成23年)に行政財産化され、翌年にノリ瀬が正式な名称として地図・海図に記載されることになった。この他、島の港湾施設目前にケーソンの防波堤があり、釣り目的で女性でも上陸が可能である。また、島北東部の海底岩礁では人工的な階段や道らしい遺跡のような構造も見つかっている。一般に海底遺跡と呼ばれているが、学術的検証は行われておらず正式な遺跡として確定しているわけではない。但し、玄界灘界隈では沈没船やその積荷などが水中文化財として確認されており、沖ノ島周囲の海中にも存在する可能性は高い。確認されれば日本が未締結の水中文化遺産保護条約により、世界遺産保護根拠ともなりえる。沖ノ島灯台(おきのしまとうだい)は、島の主峰一ノ岳の頂上に建つ白塔形の灯台である。灯火標高は253mで、日本では6番目の高さである。灯台が設置されたのは、日本海海戦直前の1905年4月のこと。1921年(大正10年)に改修された際、国産初のフレネルレンズが設置され、2007年(平成19年)まで使われ続けていた。現在は無人化されている。2002年(平成14年)、灯台にNTTドコモのアンテナが設置され、約20キロ四方の洋上で携帯電話の通話が可能になった(wi-fi未対応)。
出典:wikipedia
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