カール・カウツキー(Karl Johann Kautsky, 1854年10月16日 - 1938年10月17日)は、ドイツのマルクス主義政治理論家、革命家、政治家、哲学者、経済学者。オーストリア帝国、ボヘミア(現在のチェコ共和国中西部)のプラハに生まれる。父はチェコ人で背景画家、グラーツからプラハに移り住んでいた母はシュタイアー人(民族ドイツ人)で女優・作家だった(ユダヤ人の両親のもとプラハで生まれるとも言われている)。7歳の時にウィーンに移り、ウィーン・ギムナジウム(グラマースクール)を経て1874年にウィーン大学に入学。大学では歴史哲学を専攻する傍ら、在学中の1875年にオーストリア社会民主党へ入党。大学卒業後の1880年にチューリッヒへ転居し、翌1881年にロンドンを訪問しマルクスやエンゲルスと意見交換する機会を持った。1882年にマルクス主義機関誌「Die Neue Zeit」を創刊、1885年~1890年にかけてロンドンに滞在しエンゲルスと度々意見交換をしながら、アウグスト・ベーベルやエドゥアルト・ベルンシュタインらとともにドイツ社会民主党(SPD)のエルフルト綱領の策定に関わった。エンゲルスの死後はベーベルと共に社会民主党のマルクス主義中間派を形成して党内の主導権を掌握した。しかし1913年にはベルンシュタインや社会民主党左派とともに、軍事力増強法案に反対し、1917年に至って「Die Neue Zeit」の編集主幹を辞しベルンシュタイン、フーゴ・ハーゼ、ゲオルク・レーデブーアらとともに独立社会民主党(USPD)に参加した。第一次世界大戦後の1922年にドイツ社会民主党に復帰しヴァイマル共和国の要職を短期間務めたものの、フライコールによる革命派の弾圧に反対し党の国会議員団から除名。1924年に政治活動から引退してウィーンへ帰郷するも、アンシュルスに伴いナチスに追われて、プレスブルク、プラハを経由してアムステルダムへと逃れ其処で客死。生前のマルクス、エンゲルスと直接意見交換する機会を持つばかりか、エンゲルスの死後にはマルクスの遺稿の整理・編集の仕事を引き継ぎ、『経済学批判への序説』(『経済学批判要綱』の一部)、『剰余価値学説史』、『資本論・民衆版』を編集・刊行した。また、ベーベルやベルンシュタインなどと綱領策定に関わったことから、マルクス主義理論の正統的な後継者の地位を確立。自ら編集主幹を務めた「Die Neue Zeit」を足場として、社会主義の最も重要で影響力のある理論家の一人となりマルクス主義の法王と渾名された。ベルンシュタインとは大学時代からの知り合いでマルクス主義者となったのも彼の影響だったが、1890年代半ば以降ベルンシュタインが打ち出した修正主義が党内に台頭していくと、『農業問題』(1899年)、『ベルンシュタインと社会民主主義の綱領』(1899年)などの著作で修正主義の一連の主張に反論した。一方で、1910年代に入って盛んとなったローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトなど左派の側に対しても批判を行い、1918年には『プロレタリアートの独裁』でソヴィエト社会主義政権を一党独裁であると非難し、民主主義による社会主義の実現を主張した(それに対してレーニンは『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年)で彼を「背教者」や「ユダ」などと激しく罵倒し、『国家と革命』第6章でブルジョア政府への入閣を一時的例外的手段として認めた第二インターナショナルの「伸縮自在決議」を例に挙げてその議会主義を日和見主義と批判した)この他、『資本論解説』(1887年)、『近代社会主義の先駆者たち』(1895年)、『倫理と唯物史観』(1906年)、『キリスト教の起源』(1908年)、『権力への道』(1909年)、優生学についても語るなど、極めて多方面の文筆活動を行った。
出典:wikipedia
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