ロッキード コンステレーション (Lockheed Constellation) は、アメリカ合衆国の航空機メーカー・ロッキード社が開発・製造した、与圧構造装備の大型プロペラ旅客機である。コニー (Connie) のニックネームでも知られる4発の高速旅客機で、レシプロエンジン旅客機の歴史の最後を飾る存在として著名な機体である。1939年に、アメリカの大手航空会社トランス・ワールド航空のオーナーで、大富豪として知られるハワード・ヒューズの支援の元、当時の新鋭長距離爆撃機を超える飛行性能で与圧された機体客室を持ち、未完成の北アメリカ大陸無着陸横断飛行できる旅客輸送機を目標に、ロッキード社のカリフォルニア州・バーバンク工場からこの機体計画「L-49」の開発が開始された。1943年1月9日に初飛行。プラット・アンド・ホイットニー R-2800型を4基搭載し航続距離、巡航速度は世界最高性能を誇る最新鋭機だった。しかし、1939年9月第二次世界大戦勃発と1941年12月のアメリカの参戦により、アメリカが戦時体制下に置かれたことから、1943年に完成した初期型「L-49」は、トランスワールド航空ではなくアメリカ陸軍に輸送機「C-69」として納入が決定していたが、ロッキード社では双胴戦闘機のP-38ライトニングなど製造が優先され、生産ライン整備など量産計画すら立てられない状況から1945年8月の戦争終結まで数機が完成したに留まり訓練用など試用範囲で用いられ現場の実用配備には至らなかった。この状況の中 1944年4月17日2号機として完成したC-69にハワード・ヒューズと トランスワールド航空社長ジャック・フライ (Jack Frye)らの操縦でカリフォルニア州・バーバンク から ワシントンD.C. の2,300マイル(3,700 km)を 6時間57分で飛行 、平均速度331マイル/h (533 km/h)で北米大陸横断最短時間記録を打ち立てた。戦時中製造が遅れる一方「L-49」計画名称はロッキード社設計チームとトランスワールド航空の技術職員が改良を討議し未来の展開案で「L-049」計画に変更した。戦争が終結し陸軍の発注「C-69」型仕様で完成が遅れ未納入の機体を違約金を払い買い戻し、追って発生したキャンセル分から「L-049」の本格生産が開始された 。1945年10月1日トランスワールド航空が一機目を受領、同年12月3日ワシントンD.C.~パリ便から運用開始した。ライバルのパンアメリカン航空をはじめ連合国を中心とした各国で民間航空が復活するとともに英国海外航空、エールフランス航空やKLMオランダ航空など各国の航空会社に向けた生産が拡大された。1947年には、ライバルのダグラスDC-6に対抗する2モデルを発表した。大西洋横断飛行用に燃料タンクを増設した「L-749」と、北米大陸横断飛行用にカスタマイズした「L-049-84」案からの量産モデル「L-649」でいずれも換装したエンジンは、ライト R-3350型749C18BDデュプレックス・サイクロンで巡航速度を向上し搭載重量を大幅に拡張している。1947年3月14日「L-749 コンステレーション」が投入され、トランス・ワールド航空やパンアメリカン航空の大西洋横断路線に導入された。「L-649」は同年5月にイースタン航空へ納入し運行開始した。ここでの高評化を得てトランスワールド航空、エールフランス航空の追加採用に続きウェスタン航空などから発注が続いた。ペイロード強化には成功した反面、手荷物や郵便物などを扱う貨物室の狭さと日を追って増加する乗客に機体大型化容積拡大の要望が寄せられ、このうち搭載重量に余裕がある「L-649」へ機体中央に懸架するカッターボート状で非与圧、脱着式貨物用バルク「スピードパック(Speedpak)」をオプションとして開発しイースタン航空とウェスタン航空が採用した。発展型「L-749 コンステレーション」は軍用の「C-121」として採用され、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の専用機(VC-121)やダグラス・マッカーサー元帥の専用機「バターン号(VC-121A)」としても使用された。ダグラスがDC-6のペイロード増加型貨物輸送機DC-6A開発から旅客型DC-6Bの販売にともない、ロッキード社は5.64mの胴体延長した「L-1049スーパー・コンステレーション」を発表した。これによりL-049シリーズモデルの懸案だった容積不足は解消したが、L-1049は北米大陸横断便で搭載人員に対するエンジンの出力不足は否めず、また大西洋横断路線便用のL-749は航続距離不足でトランスワールド航空のハブ空港があったニューヨークのアイドルワイルド国際空港からの大西洋無着陸飛行ができなかった(アイルランドのシャノンやカナダのガンダー、グース・ベイなどへ、燃料給油のための着陸が必要であった)。このため長胴モデル「L-1049」を更に改良し1950年には「L-1049C」で、エンジンをターボコンパウンド付ライトR-3350型972-TC-18DAに換装し出力不足を解消後構造強化した改良型と貨物旅客混載型「L-1049D」を追加した。1951年7月に就航した航続距離性能を向上した「L-1049G スーパー・コンステレーション」が導入され、トランス・ワールド航空のみならず長距離路線を多く運航するエール・フランス、ルフトハンザ・ドイツ航空やヴァリグ・ブラジル航空など世界の大手航空会社に導入された。「L-1049G」の特色とされる多くの機体翼端にある燃料タンクで通称「チップ・タンク」はオプションで、おもに大洋横断飛行用など長々距離飛行用仕様に装備され、陸上を飛行する「L-1049G」や準同型モデル「L-1049H」では取り付けない機体もあった。「L-1049G」からは後部に大型貨物ドアをもつモデルが派生し「L-1049H」となった。貨物専用か旅客専用にコンヴァート出来、米軍の人員や物資輸送支援を行っていた航空会社がおもに採用しスリック航空とフライング・タイガーにシーボード・ワールド航空()では以前受領した「L-1049D」を「L-1049H」に改修した。「L-1049H」を3機導入したブラジルのレアル航空()では貨物旅客混載型として使用、「スーパー・コンステレーション」生産最終期の「L-1049H」に「チップ・タンク」を装備し1958年から定期便でリオデジャネイロ発ニューヨーク便やロサンゼルス便に南米大陸縦断便を展開し、1960年にはリオデジャネイロ発ホノルル経由東京便を開設した。その多くが太平洋や大西洋横断路線、アメリカ大陸横断路線などの長距離かつ需要の大きい路線にダグラスDC-6などともに投入され、その結果1950年代に至るまで「クイーン・メリー」や「ユナイテッド・ステーツ」、「クイーン・エリザベス」などの豪華客船が大きなシェアを占めていた大西洋横断航路や、同じく客船が大きなシェアを占めていた太平洋横断航路は衰退に追い込まれた。1956年には、開発中のDC-7Cに対抗し設計変更により翼型を大きく変え、航続距離をさらに伸ばした最終発展型の「L-1649A スターライナー」が追加されたが生産は44機に留まった。採用はトランス・ワールド航空、ルフトハンザドイツ航空、エールフランス航空の3社に留まり、遅い納入期から2機を発注していたヴァリグ・ブラジル航空は「L-1049G」に切り替え、ダグラス社の機体を併用していたイースタン航空はキャンセルで「L-188 エレクトラ」に振り替え「DC-7B」を採用、「ダグラスDC-6B」と「L-1049G」を併用したKLMオランダ航空は納期の早い「ダグラスDC-7C」に絞り、ノースウエスト航空も「ダグラスDC-6B」、「L-1049G」に「ボーイング377」にダグラス「DC-7C」を採用、パンアメリカン航空と英国海外航空は「L-1049G」を見送り「ダグラスDC-7C」と「ボーイング377」を運用している。ボーイング377やダグラスDC-6の発展型のDC-7Cとともにレシプロ機の黄金時代の最後を飾った。ローンチカスタマーのトランス・ワールド航空はハワード・ヒューズとの繋がりからハリウッドの映画やTVドラマでスポンサーとして、また撮影協力で当時の映像作品や写真スチールで多くのトランス・ワールド航空のコンステレーション機を見ることが出来る。エールフランス航空はコンステレーションシリーズすべてのモデルを採用した。英国海外航空(BOAC)同様国営で国産機材を優先または試用採用する一方コンステレーションシリーズで競合するモデルタイプを取捨選択せず導入している。航路新規開設、増便対策で多くの機材確保に「L-749」、「L-1049G」とダグラス「DC-6B」、「DC-7」など競合する機材両方を保有するオペレータは数社みられた。新型ターボプロップ機のL-188 エレクトラの生産開始を受けて1958年を最後に「L-1049H」の生産で終了となり、L-188 エレクトラなどのターボプロップ機や、同年に導入が開始されたボーイング707やダグラスDC-8などのジェット機に道を譲った。生産が開始された1943年から1958年までの間に、民間型、軍用型合わせて856機が生産された。1960年代初頭には、世界中の大手航空会社においてはジェット機やターボプロップ機に入れ替わり、ライバルのダグラスDC-4/ DC-6/ DC-7同様に、南アメリカやアフリカなどのローカル中距離路線や、アメリカやヨーロッパでチャーター便を運行する会社に引き取られた。民間旅客型や定期便の退役は早かったが、アメリカ軍C-121の派生で哨戒機EC-121型は、ベトナム戦争終結後の1970年代半ばまで現役に留まった。最終型「L-1649A スターライナー」は1957年6月に就航、トランス・ワールド航空はジェットストリーム(Jetstream)の愛称で北大西洋路線で1961年10月迄、国内旅客定期便も1962年12月迄、その後貨物機に改装し定期貨物便に就航、1967年に旅客チャーター便と貨物便で飛び続けた2機の「L-749A」とともに引退した。ルフトハンザドイツ航空も旅客便を1960年迄、北大西洋路線で貨物機としてフランクフルト・ニューヨークのノンストップ定期便に復帰、1967年頃まで使用された。エールフランス航空はスーパースターライナー(Super Starliner)の愛称でアフリカや中南米便に極東地区の香港や東京へ就航、旧植民地などの長距離路線が多く旅客定期便の引退は遅かったが1967年に引退した。大手航空会社から放出され中古旅客機市場のコンステレーションシリーズは操縦系統で油圧式をとり煩雑なメンテナンスや部品供給から不評でダグラスのDCシリーズより減衰は早かった。貨物機として載荷デッキが高い独特な胴体は積載作業に都合が悪く長胴型「L-1049」型が早々退役する一方で、初期「L-049」型やターボコンパウンドのないR-3350型エンジンの「L-749」型は載荷容積や運用用途から重宝され長らえた。その後2000年代初頭までごく少数が貨物機として運航されていたが、現在は現役を離れその美しい機体デザインから多数の航空博物館で保存されている。レッドブル会長のディートリヒ・マテシッツなどの愛好家や、当時使用していた航空会社の関係者などが、アメリカ軍のC-121からレストアし保存し、遊覧飛行やエアショー用に使用している。動態保存で民間保存団体が所有する「セイブ・ア・コニー(Save-A-Connie)」が特に有名でかつての トランス・ワールド航空に模した塗装を施し映画の撮影などに利用されている。動態保存機の多くは「L-749」と「L-1049H」の軍用モデルC-121型の払い下げでがほとんどのなか、「セイブ・ア・コニー」のL-1049Hはスリック航空の純民間型で最初の機体登録番号「N6937C」を維持し、保存団体の手で気象レーダーや燃料タンク(チップタンク)装備などへ変更されているが原型の貨物旅客混載型〜コンビ・タイプで保存されている(塗装を似せたトランス・ワールド航空でL-1049H型は採用していないが、貨物型転用機は存在する)。スリック航空では米国軍の後方支援チャーター便を請負い、「N6937C」機もその割当てから1960年代には日本へ幾度か飛来し羽田空港などで撮影された写真が残されている。機首では細く、主翼付け根部分で太くなり、また後尾にかけて窄まる曲線美豊かな胴体と、3枚の垂直尾翼という、極めて優雅、かつ特徴的な形態を備える。なおコンステレーションの翼型はロッキード製のP-38ライトニング戦闘機と同一で違いは大きさだけである。 本機を特徴付ける後部の3枚の垂直尾翼はトランスワールド航空の格納庫に収納で低くする必要があったからである。しかし、尾翼を3枚に変更したことにより空気抵抗が増え、重量も増加した。新しい特徴として、油圧操舵機構と着氷を防ぐ目的で主翼と尾翼の先端に熱による防氷装置を有している。(L-1049 "スーパー・コンステレーション")(L-049 "C-69″)日本では日本航空がダグラスDC-4B、DC-6、DC-7Cとダグラス製の機材を導入していたことや、日本航空以外にこのクラスの大型機を導入し運航することのできる航空会社が存在しなかったことから、日本の航空会社による導入、運航は行われなかった。パンアメリカン航空やエールフランス、ルフトハンザや大韓航空などが定期便、もしくはチャーター便の乗り入れに使用したほか、アメリカ軍チャーターで立川基地や横田基地に乗り入れる航空会社があった。また1964年に開催された東京オリンピックのチャーター機としても乗り入れる航空会社があった。なお、エールフランスが日本航空とともに東京国際空港 - オルリー空港(パリ)間に共同運航便を運航していたことから、1950年代後半から1960年代前半にかけて、エールフランスのL-1049/L-1649に日本航空のロゴを入れ、客室乗務員を乗務させ同路線を運航していた。1972年にL-1649 スターライナー(N1102)が名古屋空港に飛来した後に解体され、新潟に運ばれてレストランとして再利用された。1979年には千葉の谷津遊園に移設されたが、同園閉園の際にスクラップ処分された。
出典:wikipedia
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