F-117は、アメリカ合衆国が開発したステルス攻撃機である。英語ではエフ・ワン・セブンティーンと呼ばれ、愛称はナイトホーク(Nighthawk)。世界初の実用的なステルス機として1981年に初飛行を行った、アメリカ空軍の攻撃機である。レーダーから発見されにくくするため、平面で構成された独特の多面体の機体形状をしている。これにより空気力学的に不安定な形状となっているが、操縦にフライ・バイ・ワイヤを採用し、姿勢制御にコンピュータを介在させることで安定性を確保した。1982年には部隊配備が始まっていたが、アメリカ国防総省が1988年11月に不鮮明な写真を公開するまで、詳細はおろか存在自体が極秘扱いとされていた。機体は黒一色に塗装され、主に夜間作戦に使用されることから、アメリカヨタカを意味する「ナイトホーク(Nighthawk)」の愛称が与えられた。1983年に実戦配備がスタートし、1990年までに全59機の配備が完了した。攻撃機として主に重要施設への空爆を任務としており、湾岸戦争をはじめいくつかの実戦で使用されたが、撃墜による損失はコソボ紛争における1機のみとされている。運用・維持コストの高さから2008年4月22日をもって全機が退役したと考えられていたが、2014年10月9日に、トノパテストレンジにおいて飛行しているF-117が撮影されたことがある。1機当たりの価格は約4,500万ドル(2006年上半期)。技術流出を防ぐ為、輸出は行われなかった。1970年代中期、国防高等研究計画局(DARPA)は、アメリカ国内の航空機メーカー5社に対しステルス戦闘機形態の研究契約を締結した。当初ロッキード社は、1960年代以降戦闘機の開発経験が皆無であったことを理由に参入を見送られていたが、同社のスカンクワークス部長ベン・リッチの主導のもと自主開発研究を行い、国防高等研究計画局に働きかけ追加参入を成功させた。1975年8月にノースロップおよびロッキード社が招聘され、XST:Experimental Survivable Testbedのプランが提示された。これに応じてロッキード社スカンクワークスのトップであったディック・シーラーは電磁気学のスペシャリストのデニス・オーバーホルザーに"見えない戦闘機"の開発が可能であるかどうか打診。オーバーホルザーは可能であるとの見解を示し、コードネーム「Echo1」と言われるレーダー波の物体表面での反射を計算するソフトウェアを作り上げ、引退していたスカンクワークスの数学者であったビル・シュローダーからのアドバイスと、50年前のソビエト連邦でピョートル・ユフィンチェフによって発表されていた電磁波の進行方向を反射面の形状から予測する論文を基にプロトタイプ機を開発した。ノースロップとロッキード両社のプロトタイプは小型の単座式という共通点はあったが外観は大きく異なり、ノースロップ社の物はレーダー波の乱反射を低減させるために丸みを帯び機体に鋭角を生じさせない形状で、当時からサンディエゴのシーパークで有名だったシャチに似ている事から"Shamu"とあだ名されたのに対し、ロッキード社の物は当初からレーダーを特定方向にのみ反射させる為に角張った形状を持っていた。軍配はロッキードに上がり、1976年の4月から開発が開始された。多面体から構成された機体の形状はその飛行特性を危惧されたが、風洞での実験では予想外に良好な結果が得られた。試作機の開発には、国防高等研究計画局の予算から約3,000万ドルが支出された。性質上、この予算は公にする必要がないものとされた。試作機には「ハブ・ブルー(Have Blue)」のコードネームが与えられ、飛行テストではT-2Bバックアイのゼネラル・エレクトリック社製のJ85-GE-4Aエンジンを転用した。最初の飛行空力実験機HB1001(1号機)は、J85-GE-4Aエンジンの排気口からの赤外線放射を最小にする事に主眼を置いて設計された。細長い形状を持っていたが、全体的に細身で大きさが量産機の約60%の縮小モデルであったため重量は4,173-5,669Kgと爆撃機としては軽く、垂直尾翼が内側に傾斜する等、量産型とは形状がやや異なる。F-5の着陸用ギアやF-16のFBWが転用されたことで、試作機2機に要した予算は3,700万ドルに抑えられたという。ハブ・ブルーのスペックは以下の通り。1977年11月4日に、ロッキード社のバーバンクの施設で最初のエンジンテストが行われた。その後も空港が閉鎖された真夜中に限定した上で、カモフラージュ用のネットがかぶせられて実験が繰り返された。近隣からはその騒音による苦情があったが機密は保持され、後にネバダのグルーム乾湖にその場は移された。契約締結からわずか20ヶ月しか経っていない1977年12月1日に初飛行テストが敢行される。35回のテスト飛行が無事行われたが、1978年5月6日に行われた36回目のテストで着陸に失敗。右主脚が途中まで引き込み、ロックができないと判断されたため、高度3,000mまで上昇したのち燃料を完全に消費しパイロットは射出座席により脱出した。エンジンが停止したHB1001は、背面姿勢のまま地上に落下し大破した。また、パイロットのビル・パークは射出座席が正常に分離せず降下時に重傷を負い、引退を余儀なくされた。事故前から製作が始まっていた2機目のHB1002が、1978年7月20日(同年3月から4月には既に初飛行を行ったとの説あり)に初飛行し、試験飛行を引き継いだ。後に52回の飛行が行われたが53回目の飛行中に油圧系統の故障によりエンジンから発火、炎上した。この2機の破損した実験機は極秘裏に処分され、F-117およびB-2と言ったステルス機が公開されるようになった現在でもトップシークレット扱いで、わずかに公開された写真を除き、その詳細は不明のままである。両機とも失われたハブ・ブルーであったが、飛行試験中はアメリカ空軍が誇るE-3早期警戒管制機ですら極めて近距離での状況以外、探知はできなかったなど、ステルス機としての性能を見せつけた。1978年11月、アメリカ議会は極秘に実用型ステルス戦闘機の開発を承認、本格的な開発に移行した。実用機であるF-117の初飛行は、1981年6月18日にグルームレイクで行われた。ロッキード社はF-117を、カリフォルニア州パームデールのスカンクワークスがアメリカ空軍工場42号(ロッキード工場10号)で製作した後、極秘にグルームレイクに輸送、組み立てを行っている。機体の形状は、レーダー波を特定方向に反射させる反射角を持たせるためひし形になっている。当時のコンピュータの能力では曲面のシミュレートは事実上無理があり、シミュレーションが容易な角ばった機体となった。航空力学的には飛行に不向きな形状であるため、飛行姿勢は4重に管理されたデジタル・フライ・バイ・ワイヤによりコンピュータ制御されることにより初めて飛行可能な機体といえる。直線基調の機体であり最初に公表された1枚きりの写真が機体各部の角度を読み取りにくい方向から撮影されていたため、それを元に作成された非公式な三面図は、実機とはかなり違う寸詰まりなものとなっていた。のちに正式な三面図が発表されて、やっとその間違いに気付くほど、当時は情報公開が少なかった。F-117の実機が完成すらしていなかった1980年(1981年説あり)から、既にアメリカ空軍は戦術航空軍団直轄部隊として(Tonopah Test Range:TTR)にステルス戦闘機部隊「第4450戦術群(the 4450th Tactical Group)」を編成している。この第4450戦術群の下に第4450戦術戦闘飛行隊を編成し、F-117のA-7D攻撃機を配置した。当初はF-16の配置が予定されたが、機体価格の高さからA-7Dに決定された。これは同時に、まだステルス機の存在が秘密であった初期のころは第4450戦術部隊を"A-7飛行隊"として秘匿することにも役立った。カモフラージュとして用いられたA-7Dは後により安い経費で維持可能なT-38タロンに置き換えられたが、転換訓練を行なうパイロットはA-7Dで慣熟飛行を行っていた。最初のF-117の配属が決定したのは1982年5月であり、ジェームス S. アレン大佐が指揮を執る事となった。大佐は1983年8月23日の部隊によるF-117の初飛行も自身で行っている。部隊は1983年10月28日に稼働したが、十分なF-117はまだ配備されていなかった。このためパイロットの飛行時間を維持する事が課題となり、飛行特性が似ていると言われるA-7Dを使ってパイロットの飛行時間を延ばした。1988年1月、アメリカ軍事月刊誌「アームド・フォーセズ・ジャーナル」が、それまで伝えられていたステルス戦闘機F-19は存在せず、F-117というステルス機が極秘で配備されているというスクープを行った。このスクープを受けたアメリカ国防総省は、いつまでも秘匿としておく事が難しいと判断し、同年11月10日にF-117の存在を公的にはじめて発表した。この時明らかにされた項目は以下の通り。この乏しい内容に記者たちは質問を浴びせたが、国防総省の報道官は「ノーコメント」を連発している。回答を拒否した項目は以下の通りであった。下請け会社を秘匿としたのは、そこから情報が漏れる事を危惧したためとされる。また、戦術戦闘機という抽象的な任務しか公表していないため、搭載兵装や部隊の任務などは当然ながら極秘とされた。コソボ空爆において、1999年3月27日にセルビアの首都ベオグラード近郊上空で米空軍第49戦闘航空団に所属する1機、コールサイン「ヴェガ31」、シリアルナンバー「82-0806」(1982年度会計発注の22号機)が撃墜されている。同機は、1984年8月20日に進空して同年9月12日に空軍へ引き渡されており、湾岸戦争では第415戦術戦闘飛行隊に所属し39回出撃している。撃墜当日、同機は僚機とともにネヴァダの基地から発進し大西洋を横断し、数回の空中給油の後、地中海上で最後の空中給油の後ベオグラード近郊まで進空したところで撃墜された。撃墜後パイロットは緊急脱出し、数時間後に救助されている。同機のキャノピーのフレームには「ケン・"ウィズ"・デュエル大尉」と記載されているが、同パイロットは当時除隊を控えているためアメリカ本土に居た。当初はパイロットの名前、階級は公表されなかったが、Dale Selko(デール・ゼルコ)大尉(当時。2007年時中佐)が当日操縦していたことが明らかになっている。また、撃墜された時にパイロットが、僚機(「ヴェガ32」)等及び管制機に向けて発した、「Mayday! Mayday! Mayday! Vega 31 …」との連呼した救助コールと、それに呼応する音声、及び続いて発信されたF-117の遭難信号音等も傍受され録音が残っている。自機のレーダーも外し、僚機との交信も控えて隠密作戦をするF-117であるが、墜落時には敵側にも傍受可能なウォーキートーキーを使って救助発信を行なった。事件当初、様々な説があったものの、その後、アメリカ合衆国、セルビア側の双方で公表され、当事者のインタビュー記事などもあり、概容は判明している。迎撃したのはユーゴスラビア防空軍第250地対空ミサイル旅団第三中隊で、同部隊は開戦と同時に従来のミサイル基地から秘密基地に移動しており、開戦後数日で従来のミサイル基地にやってきた3発の巡航ミサイルからの被爆を回避していた。F-117の撃墜時刻に任務分担についていた8名の班の指揮官名はダニ・ゾルタン中佐。撃墜に利用された兵器は1960年代初期に登場した中低高度用対空ミサイルS-125N ネヴァー(西側名称SA-3ゴア)である。当時のS-125の射撃管制システムは、目標捕捉レーダー、追跡管制レーダー、高角レーダー、TV追跡システムからなり、この第三中隊では西側の新鋭軍用機に対応する為に射撃管制システムを改良しており、レーダーの送受信機を改造して長波長、低周波数の電波を利用してF-117の探知を可能にしていたとされる。F-117に対して発射された2発の対空ミサイルの内、一発がF-117の左翼を直撃し、F-117は墜落した。パイロットは当日の作戦について最初から撃墜される事を危惧しており、当日の現地の天候が雨模様だったことも、撃墜された原因の一つとして挙げている。いずれにせよ「見えない筈の爆撃機」を「狙い撃ち」できた訳である。この教訓からか最近のロシア戦闘機は、T-50を始めとして、機首に装備しているXバンドレーダーだけでなく、主翼前縁スラットにLバンドレーダー(N036L-1-01)を装備し、対ステルス対策としているとの説もある。セルビアの山中に墜落した機体の残骸は、ベオグラードの航空博物館に展示されている。一部の破片は裏取引によってロシアや中国に回収され、PAK FAや殲20といったステルス戦闘機、あるいは対ステルス用の地対空ミサイルが開発されたとの情報がある。「撃墜されたF-117の部品を入手した中国にとって、最大のステルス技術の収穫は、F-117が木製の飛行機だった事だ。」との笑い話も中国情報部で囁かれた。高いステルス性を持つF-22 ラプター、B-2 スピリットが配備されたことに加え、F-35 ライトニング IIも将来配備される予定であることと、これらのステルス機が「1時間飛ぶと30時間メンテナンスが必要」と米議会で質問されたように、F-117も機体表面のステルス能力の維持に時間がかかり、費用も高くつくことから、2008年4月22日をもって全機が退役した。退役後はネバダ州にあるでモスボールにて保管され、必要が生じれば復帰することもあるという。また、機密情報を保持したまま解体する最適な方法を探るため、2008年8月26日に1機が同実験場で解体実験に供された。が、2014年頃にアメリカ・ネバダ州のトノパ・テストレンジにてこの機体が移動している所を目撃され、米空軍は未だに何らかの用途でこの機体を使用していると思われる。F-117は敵のレーダーに発見されにくいステルス技術を全面的に取り入れた世界初の航空機であり、従来の航空機のイメージを覆す多面体の形状をしているのが特徴であるが、一部においては既存のジェット機の技術が採用されており、操縦系統はF-16から、コックピットの機能はF/A-18から、ナビゲーションシステムはB-52から採用している。レーダーや赤外線などではできるだけ敵に発見されないように以下の対策が施されている。敵レーダー波を照射源方向に反射させないために、いくつかの工夫が行なわれている。これらの工夫によって高いステルス性能を獲得できた一方で、ステルス性を最重視した機体形状は空力学的に優れた形状とは言えず、最高巡航速度もF-4などの主力戦闘機と比べて劣る。フライ・バイ・ワイヤ技術により安定した飛行を可能としている。F-117ではレーダー以外のセンサーに対するステルス性も考慮されている。例えばエンジンはアフターバーナー非搭載のF404-GE-F1D2を使用し、排気口を機体上面に設けるなど、できるだけ赤外線によって発見される危険を減らす工夫を行なっている。使用していない間でも外部からの電波をよく反射させ、使用すれば敵のレーダー警戒装置(RWR)によって探知される危険が高い為に、F-117ではあえて機上レーダーを搭載せず、目標の探知や捕捉などには、機体下面の前脚部にある目標指示用のレーザー目標指示装置や機首最前部にあるFLIR(前方監視赤外線装置)、機首下にある引き込み式のDLIR(下方監視赤外線装置)などを使用している。機体が黒いのは夜間に飛行することで人の肉眼での視認も避けるよう、夜間飛行に特化した塗装が行なわれているためである。また、先述のように、2003年には試験的だがガルグレイ主体の昼間ロービジ塗装を施したこともあり、それらの機体は一部で俗に「Dayhawk」(昼の鷹)と呼ばれた。対地攻撃任務の多くの時間は、あらかじめ設定されたルートを自動操縦装置により飛行する。編隊飛行はせず原則、単独飛行で任務遂行する。全般的な特性はデルタ翼機のそれとほぼ同じである。その形状により空力特性は悪く、フライ・バイ・ワイヤの使用により無理矢理飛ばしているとも言える。そのため離着陸の速度は比較的高く、長い滑走路を必要とする。亜音速では機首が上がり、急旋回すると速度が大幅に低下して高度が下がり、墜落事故も起こしている。エンジン整流板が付いているので飛行音は非常に静か。また、前述の理由と、アフターバーナーを装備していないため、スーパークルーズは出来ない。空対空ミサイルについては、自衛用にAIM-9L サイドワインダーを搭載可能ではあるが、機体試験で搭載と発射をしたのみで、F-117の訓練にAIM-9の発射訓練は含まれておらず、実戦部隊で装備された記録も無い。機関砲などは搭載されていない。F-117は戦闘機を表すFナンバーを冠している。しかし当時の技術力でステルス性を限界まで優先した機体設計のために厳しい機動制限があり、また最高速度も亜音速に留まるため、実戦での空戦能力は無いに等しい。このため、F-15やF-16のような制空・迎撃ではなく、対地攻撃や偵察に用いられる。そのため、本項目では戦闘機と明記したが、実際の運用上は攻撃機に分類される。命名当時のアメリカ空軍に攻撃機を示すAナンバーを使う習慣がなかったという説明がなされているものの、米空軍は既にA-10 サンダーボルトII というAナンバーを持つ機体も導入しているため、信憑性は低い。一説には、この様な最新鋭機を操縦するようなパイロットは軍用機の花形たる戦闘機に乗りたがる傾向があり、鋭くとがった近未来的な形状と合わせて「F」ナンバーを付けたと言う談話があるとされている。さらにF-117という制式コードも、センチュリーシリーズにおいて直前の機体はF-111であって、112-116までの番号を飛ばしてこの名称にしている。これについては、117の名称を持つ偵察衛星や音響監視システムなどの画期的な製品にあやかってあえてこの番号をつけたという説がある。あるいは、アメリカが秘密裏に保有するソビエト製戦闘機にF-112-116が割り当てられており、万が一外部に情報が漏れた時、F-117もまた、そういう機体だとミスリードするのが目的だったなど、いろいろな説がある。航空関係者の間では、F-117は政治的な偽装名称で真実の制式コードはF-19であることに疑いを持つ者はほとんど居ないと言われるほどだが、今のところ当事者の米空軍からは両者の関係について何の説明もない。117という数字は搭載エンジンの型式だという説もある。正式公開以前は、同じく欠番になっている「F-19」がこのステルス機ではないかとする説が有力だった。また、この機体(F-117またはF-19)の姿が公表されるまでは、実際の機体とは正反対に電波を特定方向に反射しない曲面で構成されていると言われ、丸い曲面からなる想像図がいくつか流布した。これを基にしたプラモデル(イタレリ社の「F-19 Stealth」など)も発売され、「フリスビー」という愛称もつけられた。後の小説で、当該機を取り上げる際に「フリスビー部隊」と呼ぶものがある。ロッキードから提案されたF-117の海軍型。バブルキャノピーの採用、尾翼追加、主翼の大型化、着艦装置および構造強化がされる予定であった。不採用。存在が発表される以前はステルス機はレーダーに映らないと言われていた。レーダーは照射した電波が物体に反射されて返ってくるのを感知して対象の大きさや距離などを測定するので、ステルス機は照射された電波をさまざまな方向に乱反射させてレーダーに映らない程度に弱める、丸みを帯びた形状であると想像されていた。しかし、実際は電波を特定方向にのみ反射する事により探知方向を制限させるという、予想とは全く逆の方式を用いていた。つまりレーダーに全く映らないのではなく、偶然にも特定方向に反射したレーダー波がキャッチされてしまう事もありえる。しかしそれはごく短時間で終わってしまい、レーダー上に反映される機影は飛行機と判別されないほど全く異なったものとなってしまう。この関係からレーダー上での機影は数あるアメリカ空軍の機密の中でも最重要軍事機密となっている。これはF-117に限った事ではなく、B-2やF-22などの他のステルス機についても同様である。また、特定方向以外に反射されるレーダー波も皆無という訳ではなく、極めて微弱でRCSが極端に小さいというだけである。そのため湾岸戦争時には単機で侵入したF-117も、ユーゴスラビア介入の際にはソ連製の濃密な防空システムをかいくぐるためにEA-6B電子戦機の電子戦支援を受けていたといわれる。また、この事実は、「さまざまな方向に乱反射」という手法では、ステルス能力が不十分である事を示している(反射するレーダー波の総量が同じであれば、当然ながら『さまざまな方向に乱反射させたレーダー波』と『特定方向にのみ反射を制限し、その方向以外への微弱な反射レーダー波』を比較すれば、前者のレーダー波のほうが強くなる)。自機のレーダーがないため単独では周辺の他機の飛行が全くわからない。平時にこのまま飛行すれば友軍機や民間航空機などもF-117のステルス特性のためにお互いがレーダーで見えないので非常に危険である。このため基地から基地へのフェリー時など非戦闘行動時には、レーダー・リフレクターと呼ばれる突起を胴体側面に取り付け、レーダーへの反射を確保する。エンジン排気口は機密とされ、従来は後方からの撮影が禁止されていたが、現在では一般雑誌などでも見ることが出来る。排気口は押しつぶされたように極端に横方向へ押し広げられており、整流フィンが内部に並んだハーモニカの吹き口のような形状を成している。これに加えて排気口の真下に吸熱タイルを配置して排気温度を下げる工夫がされているレーダー探知を極力避けるために非金属素材が多用されていると言われ、コソボ紛争で撃墜された機体片の写真では木材が使われているのが確認できる。F-117の直線的デザインは今までの航空機には無いものであり、各方面に大きな衝撃を与えた。そのため一時期は、この独特な形状はステルス設計に必須のものであると解釈された事もある。ただし上記でも述べた通り、これは当時の設計用コンピューターの能力による限界のため、このような単純な設計でしかレーダー波の反射のシミュレーションができなかったからである。一方、ロッキードほどのコンピューターを持たなかったノースロップは、ステルス技術の開発は元ヒューズ社のレーダー技術者であるジョン・キャッセンの経験により乱反射の低減を主目的にし機体に凹凸や鋭角を作らないことを根幹として、粘土を使った模型による実験により行われ、さらにノースロップB-2爆撃機の設計時には技術が進歩したコンピューターを使用し、曲面でのシミュレーションを可能にしている。ただし、表面形状を維持するための整備は平面よりも曲面のほうが遥かに困難になるため、B-2の曲面設計は同時に整備コストが大きくなるという問題を生じさせた。実戦で使用される戦闘機・攻撃機にはパーソナルマークやパイロットのTACネームを機体にペイントする慣例があるが、F-117ではステルス性を損なうことを理由に上層部から許可がおりなかった。しかし現場の兵は、色々と思案した末に爆弾倉のドア内面にペイントを施した。ステルス性を重視して作られたF-117とはいえ、爆弾倉の内側の塗装はごく普通のオフホワイト塗装になっていたからである。また、F-117退役セレモニーの際には多くの関係者達がこのドア内側にサインやメッセージを書き込んだ。湾岸戦争においてF-117パイロットは非常な負担を強いられたが、これはその秘匿性及び整備性とその長時間飛行に拠るところが大きい。通常の攻撃機ならば押し上げられる戦線にともなって発進する基地も前方に移動できるため、爆撃ポイントと基地での距離がそう変わることはないが、F-117の場合は機密と整備を満足できる基地がそう多くあるわけもなく、結果として開戦当初から戦闘終結まで同じ基地を使用せざるを得なかった。F-117につきまとう単座・亜音速飛行そして夜間限定という条件と共に、日々爆撃ポイントが遠ざかってゆくなかで一回の攻撃にかかる時間は延びていき、最終的には5時間を超える長時間ミッションになってしまった。その後GPS誘導システムなどを充実させることで負担は軽減されたものの、パイロット不足などの関係から近年F-15Eでも同種の長時間ミッション問題が発生している。存在こそ確認されていなかったが、F-117の存在は1980年代半ばには公然の秘密となっていたため、各軍事関係書籍などでは「F-19」と仮定されたステルス機の想像図が数種類発表されていた。共通していたのは、機体の各部が曲線で構成されており垂直尾翼が内側に向いているなど、同じロッキード製軍用機であるSR-71を小型化したようなデザインであった。「F-19」という名が一人歩きを始めた原因の一つが、イタリアにあるプラモデルメーカーのイタレリが1987年に製作・販売した同名のプラスチックキットがあった。このキットは、「アメリカの開発した極秘のステルス機を独自の情報源により再現した」とうたわれていた。また、当時漏れ伝えられていたステルス技術を反映して、「ミサイルなどは機体内に搭載する」、「機体は曲線で構成され、二枚の垂直尾翼は内側に傾斜している」といった形状をしていた。上記のようなステルス戦闘機に対する関心や憶測、マスコミなどが持てはやしクリスマス商戦の目玉商品となったことから、ベストセラーとなった。このキットについて国防総省のスポークスマンに記者がコメントを求めたが、「ある程度の航空機についての知識を有する者ならば、この程度の形状は想像し得るだろう」という肯定も否定もしない返答であった。この「否定」されない返答が、このキットの売り上げ増に拍車をかけたとも言われている。F-117の開発を行っていた時期にスカンクワークスの責任者だったベン・リッチは引退後、自著の中で「このインチキ戦闘機と社内の内紛のせいで、ロッキード社の機密保持に問題があるとしたアメリカ議会の公聴会に呼び出されそうになった(本人の出席は免れたが、当時のロッキード社の社長が出席している)」と記載している。
出典:wikipedia
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