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帝国

帝国(ていこく)とは、皇帝が統治する国家を指す。「帝国」という用語は隋の王通とその弟子による『文中子』の中にみることができ、この和刻本が江戸時代中期に出版されていることから、後述する日本の蘭学者が訳語として使用した可能性が高い。1713年(正徳3年)の新井白石による『采覧異言』の時点では、「インペラトル」を「一級王」や「帝」と表記しているも「帝国」という用語はまだ見られないが、1789年(寛政元年)の朽木昌綱による『泰西輿地図説』には、オランダ語の「Keizerdom」に対して「帝国」という訳語が使用されている。漢語の「帝国」は、オランダ語のKeizerdom(現代オランダ語ではkeizerrijk)の和訳語(和製漢語)である。江戸時代に蘭学が盛んになり、日蘭辞典(ハルマ和解)が作られた際に作られた言葉である。なおこの「Keizerdom」という言葉は、実際には神聖ローマ帝国を指す言葉である。「皇帝」という君主号は秦の始皇帝を最初とし、以後中国を支配する君主のほとんどが皇帝を称した。皇帝は天子として「国」ではなく「天下」を支配した。皇帝の支配下には、従来の「王」が支配していた複数の「国」が位置した。秦では郡県制を布いて、国も国王も置かなかったが、秦の次の王朝前漢以降では、郡国制が布かれ、皇帝の下で諸侯・諸侯王が「国」を治めた。後世になって日本で作られた帝国という漢語が、中国語にも取り入れられた。厳密に、上記の帝国にあてはまる国家は、実際の所は非常に少ない。以下にあげる国家が厳密に「皇帝」を君主とし、「帝国」を国号に用いる国家である。なお大日本帝国における正式な君主号は天皇であり、皇帝は漢字文化圏の国に対しての対外呼称である。大韓帝国は冊封体制からの離脱を示すために、あえて帝国の国号を用いた。ベトナム帝国は日本の軍政下における政権である。また中華帝国はあくまで中国語での国号であり、英語の国号としては「Republic of China(中華民国)」を使用し続けた。上記以外の国家については、帝国と呼ぶかどうかについては、見解が分かれる場合が少なくない。漢字文化圏以外の国家において、どういった君主号や国号を皇帝や帝国と漢訳するのかという問題が生じるためである。また漢字文化圏においても、上記の国々以前に存在した帝国(たとえば歴代の中華王朝を指す言葉としての「中華帝国」)については、そもそも帝国という和製漢語が生まれる以前の国家であるため、後世における呼び名である。さらには元の言語においてすら、「しばしば帝国と翻訳される言葉」で呼ぶかどうか、異論が出る場合すら少なく無い。上述の通り、「帝国」という語はオランダ語の「Keizerdom:神聖ローマ帝国」の訳語として作られたものだが、その神聖ローマ帝国はフランスの思想家ヴォルテールによって「ni saint, ni romain, ni empire.(神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。)」と評されている。日本語の辞書における帝国の定義は上記で述べた通りだが、政治学や歴史学の用語としての帝国は、いささか意味が異なる。政治学・歴史学用語としての帝国は、複数のより小さな国や民族などを含めた広大な領域を統治する国家のことをいう。この場合の帝国という言葉は、「帝」という字が入るが、帝政とは限らず、王制、寡頭制、共和制などの場合も含まれる。また国家が「帝国」(としばしば漢訳される言葉)を国号として公式に使用する場合、国号ではないが通称として使用する場合、歴史的または比喩的に「帝国」と他称される場合などがある。、、ドイツ語の「ライヒ」などは、この意味に基づいて帝国と日本語訳されている。いずれもより小さな国を含めた広大な領域を持つ国家を指している(詳細は各国語を参照)。いわゆる帝国主義の時代における、16世紀から17世紀のスペイン帝国、17世紀頃から20世紀のイギリス帝国などが代表例である。これらの君主は皇帝ではなく国王(King)であった。また共和制の国も存在した。逆に、上記の大韓帝国、ベトナム帝国、そして当初の大日本帝国は、政治学・歴史学用語としての帝国にはあてはまらないという事になる。なお、帝国であっても帝政とは限らないというのは、例えば英語のように、王:King、皇帝:Emperor、王国:Kingdom、帝国:Empireのように、漢訳語がほぼ確定している場合である。君主国で、君主号・国号の漢訳語が明確に定まっていない言語においては、国号を帝国と翻訳するなら、その国を治める君主号も皇帝と翻訳する事になる。アメリカ合衆国を「意図せざる形の帝国」と呼び、その強大な力ゆえに世界全体に影響力が波及している。現在、アメリカ合衆国は全ての海洋を掌握し、世界の貿易システムを方向付けている。帝国は常に、自らの軍隊をできるだけ敵地に送り込まずに、その同じ地域の国同士で争わせる(創造的破壊)。これによってある一定の均衡を図る事ができ、アメリカ合衆国はこの手段を用いており、ユーラシアに強大な国家を現出させないためにその攪乱を行っている。これを事実上の帝国であるという。帝国とは、国家の存続要件を次々と満たしていくうちに、最終的にアメリカ合衆国やローマ帝国のように強大な力を持つ。大半の国は国家の存続要件や戦略的な目標を満たせるほど、国力やそれを裏打ちする地理性、領土を持ち合わせていない。例として、日本は太平洋を支配する事で海上交通路を確保できるが、アメリカ合衆国は全ての海洋を支配する事を大戦略上の目標にするので、日米の利害は衝突する場合がある。など、その国の地理性や隣接する国によって国家の行動は制約される。アメリカ合衆国は太平洋と大西洋の両方に面する北米を領土とし、アルフレッド・セイヤー・マハンが提唱する〝海洋を制するものが世界を制する〟という海洋戦略を推進し続けている。市場そのものが強大な力を振るい、国を解体し、企業国家が成立するという予測がある。これは超市場主義と呼ばれ、市場が際限なき利益の追求を開始し、テクノロジーの進歩と平行し、競争率や超格差社会、更には移民の到来や紛争などの要素が加わり市場が隅々まで利益を吸い上げるシステムを構築する。個人は発展途上国などの消費力の弱いそれでも、その消費力に合わせた価格の商品が生み出され、株などの金融商品もそれに含まれ、世界全体にその市場が網羅される。格差社会は激化していくうちに、貧困層が保守性に傾くようになり、(社会階層を参照)競争率が激化する事で人材はプライベートを圧迫され、より高度な職業能力を獲得するために教養に割く時間が増大していく。社会不安の増大も相まって、娯楽産業と保険業界は、格差が激化し他の業界での消費が落ち込む中でも、最も成長率が高い業界になるという。実質的には「帝国」ではない比喩的用法としては、独裁国家、中央集権国家のほか、政治的な一人の人物や集団によって支配される多国籍企業などの巨大企業や、国家的または地域的な政治的組織(アテナイ海上帝国とも例えられるデロス同盟など)を指す場合もある。ウラジーミル・レーニンの「帝国主義論」や、マルクス・レーニン主義によるアメリカ帝国主義論などは、この流れである。また、上述の政治学・歴史学用語としての帝国の定義にあてはまらない弱小な国家が、帝国を自称する場合もあった。近隣国にそういった帝国があり、それに対抗する意味。あるいは現在は弱小国であるが、将来的に大国を目指す志向。あるいは過去の歴史における帝国の後継国家を自負する場合などがある。逆にポーランド・リトアニア共和国のように、上述の政治学・歴史学用語としての帝国の定義にあてはまる巨大国家が、あえて帝国を自称しなかった例もある。ラテン語の「インペリウム(imperium)」は、後に英語やフランス語の「」や、イタリア語の「」などの語源である。この「インペリウム」は、当初は「命令権、統治権、支配の及ぶ領域」などの意味で使用され、後に現在の「複数の地域や民族を含む広大な地域を支配する国家」という意味となった。なお「皇帝」(Emperor)の語源はラテン語の「インペラトル」で、当初は「インペリウム(命令権)を持つ者」、後に共和政ローマでローマ軍の最高司令官の呼称となった。ただし当時の主権者は元老院とローマ市民で、元首は執政官であった。後の帝政ローマより、同一人物によるインペラトルを含む役職の兼任が常態化し、ローマ皇帝と呼ばれるようになった。ドイツ語のライヒ()は、日本では通常は「国」と訳すが、「帝国」と訳す場合もある。「ライヒ」は、個々の「州」(land)や「領域」(state)に対して、「大きな国家、ドイツ全土」を意味する。またドイツ語でドイツの領域以外を指した語にはローマ帝国(Römisches Reich)、オスマン帝国(Osmanisches Reich)などがある。この「ライヒ」を日本では、時代や当時の政体などにより「国」または「帝国」と訳し分けている場合が多い。「ライヒ」を「国」と訳した例にはドイツ国、「帝国」と訳した例には神聖ローマ帝国、ドイツ帝国、第三帝国などがある。上記とは別に、明確に「ドイツ皇帝の国」と呼ぶ用語にはドイツ帝国(Kaiserreich)がある。なおドイツ帝国(Kaiserreich)や第三帝国は正式な国号ではない。上記の通り、オランダ語のKeizerdomの漢訳が、漢語における帝国の語源であるが、一般名詞として「帝国」を指す言葉としては「Rijk」(ドイツ語のReichが起源)が用いられ、ローマ帝国は「Imperium」(ラテン語起源)または「Romeinse Rijk」、神聖ローマ帝国は「Heilige Roomse Rijk」などである。上記の通り日本語における「皇帝が統治する国家」や、歴史学・政治学上の用語としての「複数のより小さな国や民族などを含めた広大な領域を統治する国家」が入れ混じっている。また帝国と呼ぶかどうか意見が分かれていたり、「時には帝国と呼ばれる場合もある」というものもあるが、それぞれについて解説する。古代の帝国は、ある特定の民族を中心にほかの文明や宗教を巻き込み、大きな領土を持つ国である。代表的なものは、アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシア帝国、アレクサンドロス大王の帝国やローマ帝国であろう。ローマ帝国に限れば君主の和訳は「ローマ皇帝」で定着しているといえるが、その他の帝国においてはマケドニア帝国の君主が単に「王」(バシレウス)と呼ばれたりするなど和訳は一定していない。アケメネス朝ペルシアの君主号は王の中の王もしくは諸王の王(シャー・ハン・シャー)(King of Kings/Shahanshah)を名乗り、一般の王よりも上の存在だとして日本語では大王と漢訳される場合が多いが皇帝と訳される場合もある。なお後世のパフラヴィー朝のシャー・ハン・シャーについては、国王と訳される場合もあるが、皇帝と訳される場合もある。紀元前2300年ごろ、サルゴンがアッカドを創始した。少なくとも最初期の強国であったと考えられるが、ここでいう帝国とは資料から読み取れる領土を指してのことであり、アッカドがどういう国であったかは詳しいことはわかっていない。世界最古の帝国といった場合は、アケメネス朝ペルシア帝国、もしくはアッシリア帝国を指すことが多い。ウンマのルガルザゲシが覇権を握り、下の海から上の海まで(それぞれ紅海、地中海)の領土を獲得していた。サルゴンはウル・ザババ王に仕えていたが反乱を起こし、やがてはルガルザゲシを破り覇権を握った。サルゴンは世界の王を称し、後のサルゴンの孫ナラム・シンは遠征を繰り返し、領域を最大に広げ、四方領域の王と名乗ったことが知られている。サルゴン登場後からアッカド語が歴史に登場するようになり、ナラム・シンの遠征の記録が残っていることから、アッカドが強大な国であったことは確実だが、正確な領土の範囲はわかっていない(サルゴンが倒したルガルザゲシ王の領土も議論があり、下の海から上の海までの範囲が本当ならば、サルゴンが仕えたウル・ザババ王は彼の属王ということになる)。後に、グティ人が侵入し、シャル・カリ・シャッリ王を最後に滅亡した。グティ人侵入後は、「誰が王で、誰が王ではなかったか」といわれる暗黒の時代を迎える。だが、近年の研究により、アッカド滅亡の原因は内部崩壊によるもので、グティ人の侵入は事実であるが誇張を含むという説が一般的になりつつある。アッカド滅亡後のメソポタミアはグティ人の王が支配していたが、ウトゥ・ヘガルが反乱を起こし、グティ人の追い出しに成功する。この後、再び都市国家間の戦争が活発化する。時は流れ、紀元前1800年ごろ、アルム人のスムアブルがバビロンで王朝を開く。その後、彼から数えて6代目の王であるハンムラビが全メソポタミア地域を統一する。歴史的にイスラエル王国と関わりがあったため、『旧約聖書』にも敵として名が登場する(ソロモン王死後に北南に分裂したイスラエル王国は、紀元前721年にアッシリア王サルゴン2世によって北イスラエル王国が滅ぼされている。南はユダ王国)。当時のメソポタミア地域では強国が乱立していたが、やがて、優秀な指導者の下に成長したアッシリアは周辺諸国を侵略し、当時の国家群の中では最大の領域を誇るまでに至った。特に、アッシュールバニパル王は領土拡大とともにニネヴェ図書館(またはアッシュールバニパルの図書館)と呼ばれる巨大図書館を建造し、数万点に及ぶ粘土板を保管した。それらは、当時の神話、歴史、文化などを知る上で絶大な貢献を果たしている。紀元前612年、新バビロニアとメディアの攻撃をうけて滅亡した。アッシリア帝国が滅亡した後のメソポタミア地域は、新バビロニア、メディア、リディア、エジプトなどの強国が乱立することとなった。当時はアケメネス朝アンシャンという小国の一つであったが、アッシリア帝国の時代から存在していた。アケメネス朝ペルシアにおいて最も重要な人物はキュロス2世(紀元前600年頃 - 紀元前529年)である。彼はエジプトを除くメソポタミア地域を統一し、2代目のカンビュセス2世がエジプトを征服した。このころは中国も統一国家が現れていない春秋時代のころであり、ローマも大規模な都市を形成する以前の段階であった。まさしく世界最大の国家として君臨した。4代目のダレイオス1世はギリシア遠征を計画し、その後に続くペルシア戦争の火蓋を切るが、近年の研究によって、王朝の創始者である大キュロスの直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したことがほぼ明らかになっている。つまり、連綿と続く王朝ではなく、キュロスの王朝とダレイオスの王朝に二分されているというのが実相であった。この後に登場するアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼすことになる。古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王は紀元前336年に20歳で王位に就いた。父ピリッポス2世が活用したファランクス戦法を受け継ぎ東方遠征を開始し、エジプトを占領し、イッソスの戦い、ガウガメラの戦いなどでペルシア最後の王ダレイオス3世と激戦を繰り広げ大勝した。アケメネス朝滅亡後、メソポタミア全域を征服したアレクサンドロス大王は、紀元前326年、さらに東方を目指し、インド遠征に乗り出し、インダス川を越えてポロス王らと戦うが、その後、兵士の疲労により退却した。帰還したアレクサンドロス大王はさらにアラビア遠征を計画するも、紀元前323年、スーサで病に襲われ急死した。大王の東方遠征は、数々の逸話、伝説として後世に残され、マケドニア、ギリシャ、エジプト、ペルシア、インド西域にまたがる大帝国を築いた。大王は異なる民族を一つにまとめ上げようとし、例えば、ペルシアの兵士はマケドニア式の訓練を行なったり、オリエントの女性と結婚した上、部下にもオリエントの女性との結婚を奨励したりした(ヘレニズム文化)。しかし、大王の早すぎる死後、王位継承権を巡って内戦が起き、ディアドコイ戦争が始まった。ディアドコイ戦争後、分裂した帝国は、エジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝、マケドニアのアンティゴノス朝にわかれたが、これらは皆、後のローマの拡大に呑み込まれていくこととなる。ローマ帝国は以後のヨーロッパにおける帝国の基礎・規範となった帝国である。ローマの場合、共和政時代後期からギリシア・北アフリカ・シリアなどを支配し、既に帝国として成立していた。なお英語やフランス語などで「帝国」を示す単語の語源となったラテン語の「Imperium(インペリウム)」は、軍事指揮権・支配権を意味するもので、これを有する軍の司令官を「インペラトル」と呼んだので、君主制や皇帝を前提とはしていない。しかし、ユリウス・カエサルがインペラトルの称号を終身のものとして用い、さらに、彼の後継者オクタウィアヌスが、「インペラトル」や執政官・護民官(の職権)などの共和政の諸官職を兼任し、元老院から「アウグストゥス(尊厳なる者)」という称号をうけて「市民の第一人者」「元首」となると、体裁としては共和政を保持していたとはいえ、1人のインペラトルに権限が集まる体制となり、「インペラトル」は徐々に「皇帝」と和訳されるものになっていった。つまり、まず先に「ローマ帝国」があり、それを治める統括者として後に「皇帝」が生まれた。ローマ帝国は、支配地域に、ローマ法・ラテン語(東方ではギリシャ語併用)などローマ(ラテン)民族の諸文化を優れた建築技術を始めとした先進技術と共に行き渡らせ、複数の民族を同化・統合して強大な勢力を作り上げた。その支配は、本土たるイタリアを始め、北アフリカ・ガリア(現フランス)・ブリタニア・イベリア半島・バルカン半島・アナトリア半島・シリア・エジプトに及び、「地中海世界」とも称される文明圏を作り出すことに成功した。さらに、その最盛期には広大な領土の隅々に至るまで平和と繁栄をもたらし、俗に、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」とも「人類が最も幸福だった時代」(エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』)とも評される安定を創出した。212年には、カラカラ帝によって、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられ、さまざまな宗教・文化を持つ民族が「ローマ人」として統合されるが、これは結果としてラテン系ローマ人の民族的結束を失わせ、帝国弱体化の遠因となった。3世紀後半になると、ローマ帝国の政治的混乱は頂点に達し、インペラトールを名乗る者が同時に何人も出現するような事態となった。この事態を収拾した4世紀の皇帝ディオクレティアヌスは、共和政の「元首」の延長であった皇帝を、ササン朝ペルシャ帝国のシャーのような完全な専制君主とすることで帝国の統合を強化しようと試み、自らをドミヌス(主人)と呼ばせた。彼の思想を受け継いだコンスタンティヌス1世は専制君主制を強化する一方で、313年にキリスト教を公認し、自らも改宗することによってキリスト教を帝国の統合の柱に据えようとした。ここに、東方的な君主制と共和制以来の「インペラトル」、そして、キリスト教の思想が結びつき、「元老院・市民・軍隊の推戴」をうけた「神の代理人」である皇帝が「全世界の主」として統治するという体制が築かれた。この体制はローマ帝国の後継国家である東ローマ帝国にも受け継がれ、さらに発展した。この強固な政教一致体制によって、東ローマ帝国は1453年まで生き続けた。つまり、この「ローマ帝国」の変遷が「帝国」に2つの意味を持たせることになった訳である。共和政ローマが多数の民族を含む大国家となって「帝国」となり、そして、元首政・帝政に移行した後、小国家になっても「帝国」を自称し続けたのである。ヨーロッパでは、帝国の支配者を意味する「皇帝」はこのローマ帝国の皇帝に由来している。詳しくは記事「皇帝」の「ローマ帝国」の欄を参照のこと。はじめて中国を統一した王朝(帝国)は、秦王朝である。中国史上において秦の始皇帝がはじめて皇帝を称し、また分裂した諸国を統一して広大な領域国家を成立させた。秦に先立つ中華王朝としては、周と殷が存在するが、どちらも現在中国と呼ばれる地域よりも遥かに領土は小さく、そもそも都市国家連合であり領域国家ではない。ただし秦はわずか15年の短命政権に終わり、その後は漢王朝の時代となる。現在の中国の大多数を占める漢民族は、この王朝の名に由来する。東ローマ帝国は現代では、「ビザンツ帝国」、「ビザンティン帝国」などのように呼ばれるが、これらはあくまでも古代との相違点を示すための後世に付けられた便宜的な呼称に過ぎない。正式な国号は古代以来の「ローマ帝国」であり、第4回十字軍の攻撃をうけた1204年まで、ギリシャ人を主役としながらも、スラヴ人・アルメニア人などの民族を支配し、正教会を国教とする国家であった。6世紀のユスティニアヌス1世の時代には旧西ローマ帝国領の一部を奪回し、ローマ帝国による地中海全域の支配を復活させた。その後イスラム帝国やランゴバルト人、スラヴ人の侵攻で領土を失うが、800年にフランク王カールが皇帝を称するまで、名目上では西欧諸国やローマ教会を宗主権下に置いており、また13世紀初めまではアナトリアおよびバルカン半島を中心とした東地中海一帯を支配していた(1204年以降、滅亡する1453年まではギリシャ人のみの小国へ転落)。古代ローマ帝国の継承者として、ローマ法や古代末期の体制、そして、古代ギリシャ・ローマ文化を基礎としながらも、東西の文化をギリシャ語・正教会・ローマ法でまとめあげて融合させ、古代のローマ帝国とは異なる独自の文明を形成した国家であったといえるだろう。この国家では、皇帝は、「元老院と市民、軍隊の推戴を受ける」ことが正統性の証であるという古代ローマ以来の概念と、皇帝は「神の代理人」、「全世界の主」、「諸王の王」である「アウトクラトール(専制君主)」として統治するという東方的な考え方が融合した体制を取っていた。これは、前述の古代ローマ帝国後期の体制が4世紀から8世紀までの約400年近くにわたって緩やかに変化しながら作られた体制であり、いつまでが古代ローマ帝国で、いつからがいわゆる「ビザンツ帝国」、「ビザンティン帝国」であると明確に決めることはできない。この帝国では、民族には関係なく、正教会の信者で、コンスタンティノポリスにいる皇帝の支配をうけ、ギリシャ語を話す者は皆ローマ人(公用語はギリシャ語だった)であり、アルメニア人やノルマン人、改宗したトルコ人など様々な民族が国家の要職に就いていた。イスラム教やユダヤ教にも比較的寛容で、首都・コンスタンティノポリスにはモスクまでつくられるほどであった。詳細は東ローマ帝国を参照。なお、下記のように、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させて建てたラテン帝国および、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権も「帝国」と称される。西ヨーロッパ諸国は古代末期から8世紀までは、名目上コンスタンティノポリスにいるローマ皇帝(上記のように、通常「東ローマ皇帝」「ビザンツ皇帝」などと呼ぶ)の権威に服し、各国の王は皇帝の代理として旧西ローマ帝国領を統治するという形態をとっていた。しかし、7世紀以降イスラムやスラヴ人の侵攻によってコンスタンティノポリスの帝国政府の力が弱まり、また、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の宗教的対立や、ラテン語圏の西欧とギリシア語圏の東ローマの文化的な対立などから旧東西ローマ帝国の亀裂が深まっていった。そこで、ローマ教皇はフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、コンスタンティノポリスの皇帝からの独立を図った。これがカール大帝の「西ローマ帝国」であり、その後継者を名乗る神聖ローマ帝国である。これらの帝国は古代ローマ帝国の理念の影響をうけて、「キリスト教世界全体を支配する帝国」という理念が打ち出された(もちろん、これはもともとコンスタンティノポリスの政府が主張していた理念でもある)。このため、西欧では、「皇帝」の称号はドイツの王のみに与えられ、名目的にはフランスやイングランドなどの国王よりも格上とされていた。しかし、実際に神聖ローマ皇帝が支配していたのは、最大のときでも現在のドイツ・オーストリア・スイス・ベネルクス三国・北イタリア・ブルグント(ブルゴーニュ)などフランス東部の戦前までドイツ人地域であった限られ、年月を経るにつれて領域はドイツ語圏のみになり、国名も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名前になった。後に神聖ローマ帝国の領邦君主であるホーエンツォレルン家はプロイセン・シレジア・ポーランド西部に、ハプスブルク家はチェコ・スロベニア・ハンガリーなど非ドイツ語圏に支配領域を拡大したが、それら領域は神聖ローマ帝国の領域外とされた。ちなみにホーエンツォレルン家は、後に王号を名乗るが、神聖ローマ帝国の領域外におけるプロイセンの王という扱いで、神聖ローマ皇帝から認められた。また、ドイツ国内ではもともとゲルマン人の選挙王制の伝統が残っており、また、各地の諸侯の力が強かったため、実際の皇帝権力は弱かった。さらに、三十年戦争の後には帝国内の各諸侯領(領邦)に主権が認められたため、帝国の権威が衰退した。このため、フランスの思想家ヴォルテールは、「神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもなかった」と酷評している。従来の歴史学における評価では中央集権化に失敗しドイツ統一を遅らせたとして否定的にとらえるものが主流であったが、近年は帝国の諸制度への研究が進み、見直しの論が出てきている。植民地を持った宗主国と植民地の総体は植民地帝国(colonial empire)とも呼ばれる。イギリス国王はインド皇帝も兼任している。

出典:wikipedia

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