平 幹二朗(ひら みきじろう、1933年11月21日 - )は、日本の俳優・演出家。ケイファクトリー所属。長男は俳優の平岳大。現在の広島県広島市中区小網町出身。生後9ヵ月の時に父・文雄が病死。家の造りは京都の町家のように間口は狭いが奥行きのある二階家で、一階が十畳、八畳が二間、中庭、それが土間に面して奥に続いて、二階は八畳二間と物干しだった。そこに祖母と母と幹二朗の三人で住んでいた。小学6年生の初め、幹二朗は広島県東部の甲奴郡上下町(現・府中市)の母方の大叔父宅に疎開する。母は流川町の郵便局で働くようになっていたので広島に残った。郵便局は原爆ドームから800mほどの距離で、1945年8月6日、原爆投下の朝、通勤途中だった母はビルの陰で靴を履き直していたため光線を受けなかったので生き残った。終戦後まもなく母は上下町の家で危篤状態になり、子供のない農家の大叔父に「うちの子になるか」と言われたが、幹二朗は「農家の子供になるのはイヤだなぁ」と思ったという。内気な少年だった幹二朗が演劇にかかわるのは、上下高校の時だった。「映画監督になりたい」という漠然とした夢は持っていたが、それには大学に行って会社に入らないといけない。しかし理数系が苦手だった。困っている時俳優座養成所の募集記事を読んだ。そこが3年間の俳優教育をする学校だった。しかし養成所の試験に落ちた。翌年には合格、俳優座養成所五期生となった。同期に木村俊恵・今井和子・藤田敏八・ジェームス三木ら。1956年俳優座座員となり、同年『貸間探し』で初舞台。以後、『千鳥』『四谷怪談』『ファウスト』などに出演。端整な容姿と、スケールの大きさを感じさせる演技で注目され、仲代達矢とともに同座の若手ホープと目される。1963年、テレビドラマ『三匹の侍』にレギュラー出演。五社英雄演出によるリアルな殺陣シーンで、テレビ時代劇の流れを大きく変えたこの作品で、虚無的な浪人・桔梗鋭之介役が人気を集めた。お茶の間にもお馴染みの顔となり、時代劇を中心に多くの主演ドラマを持った。1968年フリー。浅利慶太演出『アンドロマック』の出演を機に劇団四季に客員し1968年、浅利慶太演出『ハムレット』で主役を演じ、各界から高い評価を受ける。続く『狂気と天才』などの演技も高く評価され、日本を代表する舞台俳優の一人となる。四季がミュージカルに力を入れ始めたころ蜷川幸雄に出会い、1976年蜷川演出『近代能楽集 卒塔婆小町』主演を皮切りに、『王女メディア』『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『タンゴ・冬の終わりに』『テンペスト』『グリークス』『リア王』など長年に渡り蜷川演出作品に主演、海外公演でも高い評価を得る。1993年には、東京グローブ座でシェイクスピア全37作品上演に挑戦するという壮大な計画を発表。以後『マクベス』(1993年)、『ハムレット』(1994年)、『オセロ』(1995年)、『十二夜』(1995年、1998年)、『リア王』(1997年)、『テンペスト』(2000年)など、着実に実行している。陰影に富んだ格調の高い演技で悲劇的人物を得意とする。テレビドラマにも多数出演。特にNHK大河ドラマでは、1970年放送の『樅ノ木は残った』、1973年放送の『国盗り物語』とで2度に渡って主演。その後も『義経』などに助演として出演。1988年放送の『武田信玄』では、武田信虎役で横暴な支配者と失意の流浪者という全く相反する姿を演じている。1992年放送の『信長 KING OF ZIPANGU』では織田家を惑わす架空の祈祷師・加納随天役で、不可解さと迫力に満ちた演技を見せつけた。大河ドラマ以外でも『新選組始末記』『けものみち』など代表作は数多い。また映画出演も多く、『他人の顔』『天城越え』などの代表作がある。演出家としての顔も持ち、中村玉緒主演の舞台等の演出も手がける。1998年に紫綬褒章、2005年に旭日小綬章を受章。2013年、赤坂マネージメント事務所からケイファクトリーへ移籍。最近では、長髪を束ねる髪型をしている。
出典:wikipedia
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