四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。基本的なストーリーは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。怪談の定番とされ、折に触れて舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。町年寄の孫右衛門と茂八郎いう人物が文政10年(1827年)に幕府に提出した調査報告書。各町に古来から伝わっている逸話や地誌について報告するために書かれたもので、「文政町方書上」という書の中の「四谷町方書上」編の付録という形をとっている。(以下書上)内容は貞享年間(1684年〜1688年)、四谷左門町に田宮伊右衛門(31歳)と妻のお岩(21歳)が住んでいて、伊右衛門は婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚して子を儲けてしまった。その事を知ったお岩は発狂した後に失踪。その後、お岩の祟りによって伊右衛門の関係者が次々と死んでいき、最終的には18人が非業の最期を遂げた。田宮家滅亡後、元禄年間に田宮家跡地に市川直右衛門という人物が越し、その後正徳5年(1715年)に山浦甚平なる人物が越してきたところ、奇怪な事件がおきたので自らの菩提寺である妙行寺に稲荷を勧進して追善仏事を行ったところ怪異がやんだというのが、大方のあらましである。問題は、書かれたのが鶴屋南北の東海道四谷怪談が上演された2年後の文政10年であるということ。南北の四谷怪談を元に作られた可能性もあるので早稲田大学の名誉教授である郡司正勝は「南北が自作を宣伝するために、袖の下を使って書かせたのではないか」と推測している。が、仔細に見当すると「書上」の内容が全て作り話であるというのも難しい『四谷雑談集』(享保12年(1727年)の奥付)に、元禄時代に起きた事件として記され、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の原典とされた話。江戸時代初期に勧請された稲荷神社の由来とは年代があわず、また田宮家は現在まで続いており、田宮家に伝わる話としてはお岩は貞女で夫婦仲も睦まじかったとある。このことから、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかという考察がある。また、岡本綺堂は、お岩稲荷について、下町の町人の語るところは怪談であり、山の手の武家の語るところは美談と分かれているので、事件が武家に関わることゆえに、都合の良い美談を武家がこしらえたのではないか、という考察をしている。南北の『東海道四谷怪談』以前に、この話を下敷きにした作品としては、曲亭馬琴『勧善常世物語』(文化3年(1806年))や柳亭種彦『近世怪談霜夜星』(文化5年(1808年))がある。四谷在住の御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門のひとり娘である岩は、容姿性格共に難があり中々婿を得ることができなかった。浪人の伊右衛門は、仲介人に半ば騙された形で田宮家に婿養子として岩を妻にする。田宮家に入った伊右衛門は、上司である与力の伊東喜兵衛の妾に惹かれ、また喜兵衛は妊娠した妾を伊右衛門に押し付けたいと思い、望みの一致したふたりは結託して、岩を騙すと田宮家から追う。騙されたことを知った岩は狂乱して失踪する。岩の失踪後、田宮家には不幸が続き断絶。その跡地では怪異が発生したことから於岩稲荷がたてられた。『東海道四谷怪談』(とうかいどう よつやかいだん)は、鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全5幕。文政8年(1825年)、江戸中村座で初演された。南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっている。中村座における初演時は、時代物の『仮名手本忠臣蔵』と合わせて2日にわたって上演された。『忠臣蔵』と続けて演じると、塩冶義士・佐藤与茂七が伊右衛門を討ったあとに吉良邸の討ち入りに参加することになる。再演以降は『四谷怪談』の部分が単独で上演されている。その場合、与茂七らの登場シーンは省略されたり書替えられたりすることが多い。配役は以下の通り。岩の役柄は菊五郎の外孫・尾上菊五郎の時代に集大成され、以後音羽屋のお家芸のひとつとなった。元塩冶藩士、四谷左門の娘・岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は左門に岩との復縁を迫るが、過去の悪事(公金横領)を指摘され、辻斬りの仕業に見せかけ左門を殺害。同じ場所で、岩の妹・袖に横恋慕していた薬売り・直助は、袖の夫・佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。ちょうどそこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く2人に伊右衛門と直助は仇を討ってやると言いくるめる。そして、伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになる。高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫・梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿に望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は伊右衛門の計画を暴露する。岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、川に流す。伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果として不貞を働いた袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死ぬ。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱する。そこへ真相を知った与茂七が来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つ。四谷(東京都新宿区左門町)に実在する「お岩稲荷」(於岩稲荷田宮神社)は、もともとは田宮家の屋敷社で、岩という女性が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれる。岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の入府とともに駿府から江戸に来た御家人であった。岩と、婿養子となった伊右衛門は仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活を岩が奉公に出て支えていたという。岩が田宮神社を勧請したのち生活が上向いたと言われており、土地の住民の信仰の対象となった。……というのがあらましであるが、逆に恐ろしい「四谷怪談」がどこから生まれてきたのかが問題になる。田宮家の菩提寺である妙行寺には田宮家の過去帳が残されており、田宮家2代目伊右衛門の妻で寛永13年2月22日(1636年3月29日に死亡した『得証院妙念日正大姉』という法名を贈られた女性がお岩だとされている。この考えは古く、書上においても文政8年(1825年)山浦甚平の子孫がお岩失踪の150回忌に近いので法名を贈ろうと思い、過去帳を調べてみたら既に『得証院妙念日正大姉』の法名が贈られていたという記述がある。逆算すると延宝4年(1676年))頃に事件が起きたことになるが、『得証院妙念日正大姉』が死んでから40年後に失踪したことになるので計算が合わない。また、寛永13年に死亡したとなると貞亨年間(1684年~1688年)に、お岩と伊右衛門が所帯をもった後に別れたという記述と合わなくなる。一方、田宮家の家系は『考証 江戸八百八町』という書に紹介され、寺の過去張には初代から5代までの名が載っている。田宮家の家系は現代でも続いているが、ホラー漫画家の永久保貴一が寛永年間に2代目がいて、350年間も続いている田宮家が現在(1994年時)10代目までしかいない事に疑義を唱えている。更に永久保は寺の過去張が5代目で終わっていることから、実は田宮家は5代目で断絶しているのではないかと考え、妙行寺の住職に問い合わせてみたところ「入り婿が後妻をもらったので血筋が途絶えているといえば、途絶えている。1度は没落したが、檀家としては続いている」という返事が返ってきたそうである。つまり、実際の田宮家は5代目で1度、途絶えており、その5代目田宮伊右衛門の妻か娘が『四谷怪談』のお岩のモデルであったと推測される。その彼女の身に起きた事件が四谷怪談のネタと思われるが今となっては分からない。現在、四谷左門町には於岩稲荷田宮神社と於岩稲荷陽運寺が、道を挟んで両側にある。また、中央区新川にも於岩稲荷田宮神社がある。四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は明治12年(1879年)の火災によって焼失して中央区新川に移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院であるが、境内に「お岩さま縁の井戸」がある。元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物が無くなって困った地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時、本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが陽雲寺の成り立ちである。お岩稲荷が複数もできる要因としては単純に儲かるから。歌舞伎俳優は元より、お岩の浮気に対して見せた怨念から、男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰を集めたため、賽銭の他に土産物などで地元経済が潤ったからである。このため、東京日々新聞や東京曙新聞といった明治期の新聞には小川某なる人物が何度ももう一つのお岩稲荷を作ろうと画策したことが、記事として残されている。(新・トンデモ超常現象56の真相)なお、お岩の「お墓」が、巣鴨の妙行寺(明治時代に四谷から移転)にある。恐らくは2代目田宮伊右衛門の妻の墓だろうと推測される。落語
出典:wikipedia
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