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小栗重吉

小栗 重吉(おぐり じゅうきち、天明5年(1785年) - 嘉永6年1月2日(1853年2月9日))は、江戸時代後期の船頭である。史上最も長期にわたって漂流した人物として知られている。三河国佐久島(現・愛知県西尾市)の百姓・善三郎の次男として誕生。後に尾張国半田村(現愛知県半田市)の百姓・庄兵衛の養子となる。1813年(文化10年)、重吉は尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の船・督乗丸(約120トン)の船頭として、部下の乗組員13名と共に師崎から江戸へ出航した。しかし江戸から帰還する途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれ遭難。この時乗組員の1人が海に転落している。舵を破損した督乗丸は、海流に乗って太平洋を漂流。以後1815年(文化12年)に、アメリカ・カリフォルニア州のサンタバーバラ付近の洋上でイギリスの商船ホーストン号に救助されるまで、484日間にわたって漂流した。生存者は、重吉以下音吉、半兵衛の3名であった。命を取りとめた重吉らは、シトカからペトロパブロフスク・カムチャツキーに送られ、ロシア船パヴェル号で択捉島へ護送された。この間の1816年(文化13年)6月に、半兵衛が病死。最後に残った2人は国後島からノッケ岬、根室を経て、同年9月に松前に到着。江戸で事情聴取を受けた後、1817年(文化14年)4月に身柄を尾張藩に移され、5月に帰郷を果たした。なお、1832年(天保3年)にやはり遠州灘で遭難し漂流、シンガポールで客死した人物として山本音吉がいるが、重吉の部下の音吉とは無関係である。生還した重吉は、新城藩(現愛知県新城市)の家老で国学者の池田寛親の聞き取りによる口述筆記にて『船長日記(ふなおさにっき)』を書き上げた。同書には、積み荷の大豆をきな粉にしたり、魚を釣ったりして飢えをしのいだこと、同乗の乗組員が壊血病や栄養失調で次々と命を落とす様子、救助後のアメリカにおける生活などが記録されている。鎖国下の日本における数少ない海外見聞録であると共に、長期にわたって極限状態に置かれた人間の心理が描かれた、文学的価値の高い資料でもある。この他にも、ロシア人と共に生活した体験を『ヲロシアの言』に記している。重吉は尾張藩から5石2人扶持、名字帯刀を許されると共に、御水主の職を得るが、2ヶ月で辞職。死亡した乗組員の供養に余生を捧げた。1824年(文政7年)頃、著作を売り歩いたりして得た資金を投じ、台座が廻船の形をした慰霊碑を笠寺に建立。1853年(嘉永6年)に重吉が死去してからは放置されていたが、同年成福寺(名古屋市熱田区)へと移設された。帆柱の部分には「南無阿弥陀仏」の文字が、また台座には死亡した乗組員の名が刻まれている。(いずれも北海道大学附属図書館ホームページ内)

出典:wikipedia

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