佐賀市(さがし)は、佐賀県の県庁所在地で、同県最大の人口を擁する市である。特例市。佐賀県の経済・行政の中心地。有明海から脊振山地までを縦断する広い市域を有し、市街地は佐賀平野の中心付近に位置する。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーン(熱気球)の街として賑わう。佐賀県の南東部に位置する。市域は南北に長く、南側は有明海に面し、南東部は筑後川を挟んで福岡県大川市・柳川市に、北東部でも脊振山地を境に福岡県福岡市(早良区)・糸島市に接している。長崎自動車道付近を境にして、市域の北半分は、北部九州を東西に貫く筑紫山地に属する脊振山地であり、山がちで起伏が大きい。市域の南半分は、有明海北岸に広がる筑紫平野の西部に属する佐賀平野であり、起伏がほとんどない低平な地域で、対照的である。市街地は佐賀平野の中心付近に位置している。2005年(平成17年)・2007年(平成19年)の周辺町村との合併によって市域は104kmから431kmへと4倍に拡大し、県内では唐津市に次ぐ2番目に大きな面積を有する自治体となった。佐賀県福岡県人口約24万人を有する佐賀県最大の都市だが、九州7県の県庁所在地では最少であり、県庁所在地以外を含めると佐世保市に次いで九州で10番目に人口が多い市である。10%通勤圏人口では約41万人(2005年)を有する佐賀都市圏の中心市で、久留米都市圏の約51万人より少ないが佐世保都市圏の約31万人を上回る。福岡市とは中心部相互間で約53kmと直線距離は近いが、山地を隔てているため生活圏や雇用圏は分かれていて、鳥栖市のようなベッドタウン化はみられない。江戸時代より佐賀藩の城下町として発達してきており、鳥栖市・久留米市が交通拠点・工業地域、唐津市が港湾・観光都市であるのに対し、佐賀市は農業地帯の中心に位置する地方都市や佐賀県中部・東部の商業都市としての面が強い。2000年代以降は観光都市としてPRする動きも活発であり、観光資源の発掘が盛んである。平野部では水辺と田園地帯が独特の自然景観を見せる。市域にあたる佐賀平野中部は、丘陵がほとんど存在せず、河川堤防を除くと全般的に海抜が低い。また中小河川や水路(クリーク)が発達していて、農業用水・生活用水や水運を目的としていたことから、市街部・田園部の別なく水路が網羅されていて、その恩恵を享受していた。一方で、脊振山地に源を発し市域西部を流れる嘉瀬川と、九州山地に源を発する九州最大の筑後川に挟まれているため、昔から洪水の頻発地帯であり、灌漑や治水によって農地や住民の生活が守られてきた側面もある。市街地北部の国道34号付近でも海抜5mであり、有明海沿岸堤防の計画高水位より低い上、起伏が少ないため水はけが非常に悪い地域であった。一度堤防が決壊して町や農地が水浸しになると何週間も引かないことがある一方、水争いでの村同士の対立も深刻であった。これを一変させたのが、江戸時代に入ってから成富兵庫茂安らの協力で佐賀藩が行った治水事業である。平野全体で治水や灌漑を一体的に考える当時としては画期的な手法によって、洪水被害が軽減され水争いが減少した。また明治以降、干満差が大きい有明海を取り囲む高い堤防と水位調整、さらに蛇行の多い水路を直線的に改良して排水効率を向上する水路整備や排水ポンプ場整備により、現在の洪水被害は減少している。江戸初期に設置された石井樋により嘉瀬川から分流した多布施川は、市街地北部を縦断して水路に分化しながら佐賀城内に至り、古くより生活用水として用いられていた。現在も多布施川から旧佐賀市の水道水が取水されている。城内通過後の多布施川は佐賀江川につながり、市街地南部を再び縦断して今度は農業用水に用いられ有明海に至る。このほか巨勢川、福所江川、八田江川などが、いずれも北から南に向かって流れている。諸富町南東では筑後川に接し、中州である大中島、筑後川と早津江川に挟まれた河口州である大詫間(島の南半分が佐賀市、北半分が大川市)は市域に含まれる。起伏が少ない佐賀平野は水田に適しており、古代より順次開墾されていって稲作地帯となった。また佐賀平野は筑後川などの土砂運搬により急速な自然陸化が進む地域で、海岸線は年々南下してきた。これに加え、江戸時代以降本格化した干拓によって、人工的に土地を造成して農地を拡大してきた。東与賀町や川副町の大部分、本庄町・西与賀町・久保田町の南端はほとんどが干拓地である。佐賀市街は、市内平野部のちょうど真ん中付近に位置している。佐嘉と呼ばれていたこの町は、戦国時代まで佐賀平野の1農村に過ぎなかった。室町時代中期に村中城および水ケ江城を構えて拠点としていた龍造寺氏が戦国時代後期に勢力を伸ばしたことが転機となり、町が発展した。さらに、後継の鍋島氏は2つの城を慶長年間(1596年 - 1615年)に大改修し佐賀城を築城するとともに、城周辺を再整備した。その際、条里制による直線的な道路・水路を生かして碁盤の目のような整った街路区画を行っており、現在でもその名残を見ることができる。これ以降佐嘉は肥前佐賀藩の城下町として、また長崎街道の宿場町としても栄えた。中世以降「佐賀」の表記も用いられるようになり、明治維新以降は正式に「佐賀」と改められた。そして、明治初期の廃藩置県後に県庁所在地となったことで、近代以降の佐賀県の行政の中心地としての地位を確立する。現在の佐賀市街は、佐賀駅を中心としてビル街・商業街があり、それを取り囲むように低層住宅地が位置し、住宅地郊外にショッピングセンター型の大型商業地が点在する。宅地化はやや道路に沿いながらもほぼ同心円状に進んだ。中心市街地では佐賀駅移転・工場の移転再整備・基幹道路整備という一連の流れにより再開発が進んだ地域もある。いわゆる高層建築物はほとんどなく、もともとの地形とも相まって、比較的平坦な街並みである。地価高騰により住宅地が郊外に集積したことで、高齢化とドーナツ化現象が中心市街地の衰退を招いていたが、1990年代 - 2000年代には地価下落による再開発ラッシュの影響を受け、中心市街地に中層マンションが集積したことで、ドーナツ化は緩やかになっている。しかし、同時期に郊外型商業地の集積も進んだため、佐賀駅周辺や城内地区などの商店街型の小売業は長期的に衰退してきている。一方の郊外部では、農地に点在していた住宅の間に新しい戸建住宅や団地が造成されるなどして、開発が順調に進められて市街地が拡大していった。通勤の軸が鉄道ではなく自動車(道路)であるため、主要道路の沿線に住宅地が形成されている。もともとの農地が区画整理されていたこと、1970年代から早期に環状道路が整備されたこと、郊外化に拍車をかける市街の地価高騰がそれほど顕著でなかったことから、スプロール現象は起こっていない。脊振山地南側山麓のうち市域部分は、川久保断層などの断層系の影響で比較的急な斜面になっており、ゆるやかな丘陵地帯である小城市や神埼市方面とは異なっている。市西端(佐賀県中央部)付近に位置する1046m(市内最高点)の天山、福岡県境に連なる900m級の雷山や羽金山などが標高が高く、両地点の間には山々が連なり、その間を山間部では川上川とも呼ばれる嘉瀬川水系の河川が縫うように流れ、市北部をカーブを描きながら南下している。比較的緩やかな山合いや川岸の平地に、農地に囲まれた農村や、里山に接した山村が点在している。川上川最上流の三瀬村西部には北山ダム、また同上流の富士町中部に佐賀県最大規模の嘉瀬川ダムがある。また、川上川水系から離れた大和町の一部や金立町・久保泉町の山間部では、少雨時に水不足になりやすいため、多数のため池が点在する。羽金山には日本標準時標準電波 JJYを送信するはがね山標準電波送信所がある。JJY送信所は日本に2か所あり、もう1つは福島県田村市・川内村 おおたかどや山。夏に雨が多い太平洋側気候、その中でも温暖で年平均気温が17℃前後と高めの九州型気候に入る。また同じ九州北西岸の福岡市や長崎市と同様に、冬季は降水量は少ないが曇天の日が多い特徴がある。年間雪日数は15.3日と雪の降る日は珍しくないが、市南部(平野部)では積もることは非常に少ない。また同じ有明海沿岸の熊本市や久留米市などと同様に、気温の上下幅が大きい内陸性気候の傾向がある。近隣の唐津市や福岡市に比べ冬の最低気温が低く、夏の最高気温が高くなるうえ、1日の最低気温と最高気温の差も大きい。山間部は市街地に比べて年間降水量が多く、年平均気温がやや低い。また、玄界灘からの北西季節風に伴い積雪することもある。2010年10月1日の国勢調査時の諸統計佐賀市の地名を参照のこと。縄文時代から弥生時代にかけて、市南部の平野地域はまだ海底であったが、度重なる海進・海退と河川による土砂運搬により、今ある佐賀平野が作られる。また有明海の干拓によって平野面積がさらに拡大した。律令制下では肥前国に属し、現在の佐賀市大和町に肥前国国府が置かれた。戦国時代には龍造寺氏が支配。龍造寺氏が絶えたのちの1608年(慶長13年)、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する佐賀藩の本拠地となり、佐賀城が築城された。水運と農業中心の小さな町だった現在の佐賀市街付近は、佐賀城築城後に佐賀藩本藩の城下町として発展し、商工業が大きく発達した。佐賀藩は別名を肥前藩ともいい、明治維新において、版籍奉還を上奏した「薩長土肥」の1つとなった。また、長崎に近かったため西洋の科学技術を積極的に導入し、幕末には精錬方(藩立の科学技術研究所)、反射炉、三重津海軍所(造船所・海軍修練所)などが設置され、鉄製大砲や蒸気船、指字電信機(エーセルテレカラフ)、暗箱カメラなどが外国の技術者に頼ることなく独力で製作され、我が国の科学技術近代化に大きく貢献した。明治時代は佐賀県の併廃とともに佐賀県、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県、と変わり、最後には佐賀県が分離されてその県域に入った。1889年の市制施行時の市域は現在の市中心部の一部だったが、昭和の大合併により旧佐賀市、平成の大合併により現在の佐賀市の市域となった。これにより市域は福岡県境へと拡大した。人口規模は特例市の要件(20万人)を満たし、2014年4月1日付けで移行された。佐賀市は、太平洋戦争において米軍による爆撃優先順位が180都市中101番目と決して低くなかったが、幸いにも誤爆により中心部の被害は免れ城下町の古い街並みがそのまま残った。しかし、その後目立った街並みの保存運動等が起こることが無く無秩序な建て替えなどでその多くが失われ、佐賀市歴史民俗館建物群がある旧市街東部の長崎街道沿いなどで江戸-大正にかけての町屋建築や明治 - 大正にかけての洋風建築の街並みを見ることができるのみであり、その他の旧城下市街では纏まった古い街並みは少なく古い町屋や洋館が散在する状況にある。ただし、江戸時代からの町割りや水路は良好に残されており、江戸時代の石積護岸の水路や石橋が今も現役で使用されている。佐賀市は1970年代以降開発が急速に進められて都市らしくなっていったが、それまでは都心の一部を除き農村と変わらない風景だった。12世紀 - 16世紀(鎌倉時代・室町時代) : この時期平野部では、小地頭・家人・有力百姓らが新田開墾を進めながら、自らの領地に環濠の発達した城郭を築いて割拠していた。この頃の代表的遺構に、久保泉町の古村周辺遺跡がある。やがて戦国時代に入ると水ケ江城を拠点としていた龍造寺氏が戦国大名として北部九州の広範囲にまで勢力を拡大するが、大友氏に押されて肥前東部の支配に収まる。17世紀初頭には領家が鍋島氏に継承され、佐賀藩領主となる。17世紀 - 19世紀(江戸時代・明治時代前期) : 佐賀藩は当初の厳しい財政を新田開発や倹約により立て直し、長崎街道を有しまた長崎警備を行っていたという地の利から先進的科学技術の導入を進めたことで、幕末には高い軍事力・技術力を有するに至った。倒幕運動への参加は戊辰戦争からと後発だったが、以降明治政府へ多くの人材を輩出する。20世紀 : 明治の佐賀は、農業および繊維業中心の軽工業を軸とした産業都市、また県庁が所在する政治的拠点として、開発が進められ人口が増加していくとともに、地方都市として成長する。第一次世界大戦後は農業から商工業へ主要産業がシフトするが、重工業や機械工業などの成長は伸び悩む。九州の他都市と比べて相対的に緩やかではあるが、佐賀都市圏の中心都市として開発が進められ、1990年代まで人口は増加を続ける。現行の佐賀市は、「平成の大合併」の一環として2005年(平成17年)10月1日に佐賀郡大和町、富士町、諸富町、神埼郡三瀬村と合併(新設合併)し、新たな佐賀市として発足した。合併により解散した町村はいずれも佐賀市内の一地域としてその名を残している。またこれによって市域が福岡市と隣接するようになった。県庁所在地同士が隣接する事例は京都市と大津市、仙台市と山形市に続き3例目である。さらに、2007年(平成19年)10月1日付で、佐賀郡の中で最後まで残っていた、川副町、東与賀町および久保田町を編入し、佐賀市郡地域の広域合併を終えた。なお、平成の大合併前の佐賀市は「昭和の大合併」によって規模を拡大した経緯があるほか、平成の大合併で、佐賀県内では、小城郡が消滅し、神埼郡、東松浦郡、西松浦郡および藤津郡で、郡内の町村が1自治体だけとなっている。市政の方針として、第一次総合計画では、“人と自然が織りなす「やさしさと活力にあふれるまち さが」”を挙げている。2000年代に入って木下敏之前市長のリーダーシップにより市営都市ガス事業の民間譲渡(佐賀ガスへの移行)が市職員組合の強い抵抗を押し切る形で実行されたほか、市窓口の一新、市施設や組織の見直し、NAS電池やIP電話導入による経費削減、サムスングループ系列のサムスンSDSと共同開発した新しい情報処理システム導入などの経費削減策などの大幅改革が行われた。この木下市政の急激な改革に対して批判の声が上がり、また市職員組合も反旗を翻し、2005年(平成17年)9月の市長選挙で秀島敏行(市水道局長などを歴任した市職員OB)が自民党と社民党の推薦という異例の形を受けて当選。成果を挙げている財政立て直しを評価する声とが交錯した。中心商店街および、佐賀駅前から城内にかけての中心市街地の活性化が市政の大きな課題として挙げられる。幹線道路沿いの大規模な郊外型商業地(「経済・産業」の節参照)が集客を伸ばす一方、市中心市街地の人通りはバブル崩壊以降加速的に減少の一途を辿っている。商店街で次々と店舗の閉鎖や撤退が進行していわゆるシャッター通りとなり、空洞化が問題となっている。巻き返しを狙って市が出資した商業施設と集合住宅の複合施設エスプラッツの運営は当初より厳しく、集客が伸び悩み、テナントの入れ替わりが多く現在も迷走している。また、市町村合併により市域となった三瀬・富士・大和などの山間部では人口流出や高齢化が進行していて、過疎地域の振興も課題として挙げられる。市町村合併に関しては、2005年(平成17年)10月に合併しなかった佐賀郡南部3町(川副町、東与賀町、久保田町)と、2007年(平成19年)10月1日に合併した。当面は大概の行政業務を旧市町村ごとの支所が行う予定。窓口業務のほとんどは現在、本庁および支所でそれぞれ行われている。本庁は総務部、企画調整部、経済部、農林水産部、建設部、環境下水道部、市民生活部、保健福祉部、こども教育部、社会教育部の10部体制である。支所についてもほぼ同様の組織割りを課単位で行っている。市営企業部門では、交通局と水道局を運営している。市役所支所所在地2007年(平成19年)10月1日の南部3町合併後に暫定定数44名(川副町3名、東与賀町1名、久保田町2名)となったが、2009年(平成21年)10月18日の選挙以降は条例定数に戻り、現在の定数は36名である。市議会選挙では、2003年(平成15年)4月の選挙の不在者投票で党派誤記が発覚し、その候補が1票差で落選、最高裁判所の判決により無効となり再選挙(再選挙では無投票となった)となった。また、次の2005年(平成17年)10月の選挙でも投票者より票のほうが13票多くなるという集計ミスがあった上、按分票の判断で1票差(厳密には0.226票差だった)で当選した候補の当選が無効となり次点候補が繰り上げ当選した。さらに2007年(平成19年)の参院選では不在者投票の二重計上で開票時間が大幅に遅れるなど、佐賀市選挙管理委員会のミスが続いた。佐賀市から選出される佐賀県議会議員の定数は11議席である。出先機関消防ほぼ全域が佐賀広域消防局(佐賀市のほか、多久市と小城市を管轄)の管轄。佐賀、南部、北部、小城、多久の5消防署および3分署、3出張所を配置している。旧三瀬村のみ、神埼地区消防事務組合(三瀬のほか神埼市、神埼郡吉野ヶ里町を管轄)に属する。警察水道他の地域については、共同の簡易水道や私設井戸などを使用している。下水道広域集中処理される佐賀市公共下水道のほか、集落単位で運営される佐賀市市営浄化槽、特定環境保全公共下水道、農業集落排水の4種類が運営されている。都市ガスごみ旧佐賀市・久保田では共同運営での収集、川副・東与賀でも共同運営での収集、三瀬・諸富では脊振共同塵芥処理組合による収集、大和・富士では旧町単位での収集が行われている。医療時間外小児医療に関しては、市が佐賀市休日夜間こども診療所を開設してサポートを行っている。小児以外の時間外診療などの救急医療に関しては、県が佐賀県医療機関情報・救急医療情報システム「99さがネット」を開設している。郵便佐賀市内の主要な郵便局として、県庁前・駅前大通り・貫通道路に面した佐賀県中心局である佐賀中央郵便局、集配局として佐賀県最大規模である佐賀北郵便局(2007年(平成19年)2月4日をもって春日郵便局(〒840-02)の集配業務が移管された。)、諸富地区の中心局諸富郵便局などがある。なお、佐賀県内には地域区分局が存在しないため、市域の地域区分局は久留米東郵便局(〒839-87)であり、集配局をまたぐ郵便物は一旦久留米東局を経由して配達される。集配局としては、佐賀中央郵便局(〒840-00,〒840-08)、佐賀北郵便局(〒849-09,〒840-02)、古湯郵便局(〒840-05)、三瀬郵便局(〒842-03)、諸富郵便局(〒840-21)、早津江郵便局(〒840-22)、久保田郵便局(〒849-02)の7か所が市内に所在する。電話佐賀市内全域で、単位料金区域は佐賀MA、市外局番は0952である。ちなみに、1976年までは市外局番は09522と5桁であり、4桁に変更された際に番号逼迫対策として佐賀市街地北部の一部で09522-Xから0952-30へと市外・市内局番の変更が行われた。郊外では広い平野と水利を生かした穀類を軸にした農業、有明海の性質に適した海苔養殖を軸にした漁業が地域産業として維持されてきた。一方の工業では伝統的な背景などから、重工業よりも軽工業の方が発達しているという特徴がある。もともと有数の稲作地帯であった広い農地は、農業を取り巻く環境の変化に応じて野菜畑などに転用することで維持されてきた。工業に関しては地勢上、海(有明海)には面しているが、遠浅で大型船が航行できない海域であるため、重工業があまり発達してこなかった。また、20世紀前半に石炭を産出して栄えた県西部とは対照的に炭鉱が無かったため、炭鉱業やその後継としての工業が発達しなかった。一方、食品産業が根付いていた経緯などから食品工業や繊維産業が発達してきた経緯がある。食品産業は依然として強いが、1970年代頃より繊維産業は主軸から外れた。しかし1990年代以降、北部九州に自動車・自動車部品産業が集積してきたことに影響されて、新たに自動車部品産業が伸びてきている。県庁所在地であり就業者数からみてもサービス業の占める比重は大きいが、商業において出荷額が他の同規模都市に比べてとりわけ多いわけでもない。現在、売場面積5万mクラスの大型郊外型商業施設が3施設競合状態にあり、供給に対する需要のアンバランスが見られるが、土日や祝日には県西南部からも集客をしている。本店・主要営業所を置く企業は県内都市では随一だが、周辺各県に比べると必ずしも多くない。地方の県庁所在地によくみられる、支店経済都市的な傾向もある。産業別人口では第3次産業が7割を超えるが、九州7県の中では最も低く全都道府県中でも中位にある。第2次産業の割合が少ない一方、第1次産業の割合が比較的高い。(2005年10月1日、国勢調査のデータ)(参考・現佐賀市(前掲)と旧佐賀市(後掲)の2000年(平成12年)10月1日現在の産業別人口)県庁所在地だが郊外は田畑が広がっていて、耕地面積は11,000haと県内最大で農業も盛んである。耕地の大部分を占める平野部では、表作として夏に米を生産、裏作として秋から春にかけて大麦(特に二条大麦のシェアが高い)、小麦などの麦類、また大豆などの豆類を生産する二毛作が定着しており耕地利用率は140%前後で推移している。穀倉地帯と言われるように穀類の生産が総じて多いのが特徴である。近郊農業や大消費地向けとして野菜や花卉類の生産も一定の規模がある。果物類では、さがほのかブランドでのイチゴ生産量が多いほか、山の斜面でのみかんは露地栽培も盛んでハウス栽培が多い県西部とは対照的である。畜産では、肉牛や豚、鶏などの飼育も山間部を中心に行われている。著名なものとして、ブランド牛肉である佐賀牛、地鶏のみつせ鶏などが挙げられる。山間部の林業は後継者不足により衰退が著しい。平成の大合併前の佐賀市域は海に面する地域が狭かったが、合併した久保田町・東与賀町・川副町の有明海沿岸では海苔の養殖が非常に盛んである。関連する海苔加工などの製造業も含めて地域の主産業となっており、市町村別の海苔生産額は全国1位である。サルボウ(モガイ)、ウミタケ、ワラスボ、ムツゴロウといった有明海特有の海産物も獲れ、郷土の味としても親しまれている。現在出荷額が最も多いのは食品工業を中心とする軽工業である。輸送の利便性から明治時代より工場は佐賀駅周辺に集中していたが、戦後から1970年代にかけて大和紡績佐賀工場の閉鎖を筆頭として、市街地開発などによる工場の撤退・移転が相次いだ。代わって、用地開発のコストが小さく交通の便のよい長崎自動車道や国道周辺に工業団地が造成され、誘致された工場群が工業の中心となった。江崎グリコグループの九州グリコ・グリコ乳業は創業者江崎利一が佐賀県出身である関係から地場企業であり、現在も市街地に工場を構えている。また同様に佐賀駅近くに拠点を有する戸上電機製作所などもあり、産業別では電気機械器具の出荷額も比較的多い。また、諸富町の味の素九州工場も古くから立地している主力の地場企業である。諸富町は対岸の福岡県大川市と並んでたんすを主とする家具産業も盛んで、多くの中小企業が集まっており地場産業となっている。また久保田町には1923年操業開始の王子マテリア佐賀工場が立地している。第2次産業従事者数は緩やかに減少しつつあるものの、継続的な雇用維持や産業育成のため、市は進行中の久保泉工業団地の誘致、従来からの食品産業の振興や、北部九州に集積されつつある自動車産業の関連産業の誘致などを推進している。県中部や東部の中心都市として多くの店が集まり、サービス業、卸売業、小売業、飲食店などが盛ん。1990年代から郊外の幹線道路沿いに大型商業施設が続々と整備され、集客を伸ばしている。一方で、市中心部の商店街では空洞化が深刻となっている。中心市街地活性化に関しては、駐車場不足、目玉となる商業施設の不在などが挙げられている。また、乗用車やバスなどが市民の主な交通手段であるにもかかわらず、駐車場が不足していることも挙げられる。一方で広大な売場面積を有する郊外の大型商業施設は車によるアクセスの良さから賑わいを見せ、幹線道路沿いでは商業集積が進んでいる。このほか、環状線、それ以外の国道34号、国道263号、国道208号などの幹線道路沿線に、大型のロードサイド店が集まる場所や小規模商店街がある。他のチャンネルは隣県の放送を受信している。詳細は佐賀県#テレビ放送局を参照。他の中継局およびchについては佐賀市内デジタルテレビ中継局を参照。NHKラジオ第二については、平野部や山間部南部ではNHK熊本放送局(873kHz)山間部北部ではNHK福岡放送局(1017kHz)のカバーエリアとなっている。国立私立県立高等学校私立高等学校※佐賀市では、「佐賀市奨学金」という高校生を対象とした給付型奨学金制度がある。佐賀市立中学校佐賀県立中学校私立中学校国立大学附属中学校佐賀市立小学校国立大学附属小学校幼稚園市立幼稚園私立幼稚園国立大学附属幼稚園佐賀県立国立大学附属農業者研修教育施設自動車教習所古くから長崎街道やそれに沿う道、運河が特に発達していた。明治時代に鉄道が開通した後道路が発達し始めたものの、市街地だけだった。戦後、市街地以外で土地整理が行われたのに伴い大きな道路が発達し、国体が開催された1970年代後半ころにその動きが加速した。その後、交通量の増加により城下町特有の街路の狭さも相俟って中心市街地の交通渋滞が深刻化し、これを緩和するために市街地を取り囲む形でほぼ全線4車線の環状道路が整備され、また1985年(昭和60年)には高速道路が開通し、今に至っている。古くからの市街地(旧城下町エリア)は長崎街道防衛ために整備された名残で短く曲がり角の多い道になっているが、環状道路などの周辺バイパス道がよく整備されていることにより、通過目的のみの大型貨物車や乗用車の中心部への流入が極端に少なく、朝夕の通勤ラッシュ時間帯を除いて中心部の交通渋滞はそれほど問題とはなっていない。そのほかの周辺地域ではほとんどが田を埋め立てて造成された道路なので直線道路が圧倒的に多く、ドライバーにとっては走りやすい道路が多い。近年では、県東部の鳥栖市周辺が交通の中心であり、久留米・鳥栖と長崎・佐世保を結ぶ道路・鉄道の通過点的な性格が強く、拠点としては伸び悩んでいる。熊本・大牟田方面とを結んでいた国鉄佐賀線の廃線はこれに拍車をかけた。ただ、道路に関してはこの方面とを結ぶ有明海沿岸道路が整備されつつあり、唐津方面とを結ぶ西九州道などの整備も進めば現状より改善される可能性がある。川副町に所在。アクセスは、市中心部と佐賀空港の間を路線バスが結んでいるほか、リムジンタクシーも運行している。佐賀空港開港以前は福岡空港が最寄り空港として利用されていて、便数が多く運行時間が多様であることから、現在でも比較的利用される。佐賀市内と福岡空港を結ぶ高速バスが、現在も運行している。以下の各社により、佐賀駅に隣接する佐賀駅バスセンターを中心に近隣の市町村とを結ぶ路線網が構築されている。市内には漁港しかなく、佐賀市を発着する一般旅客航路は無い。諸富町では、夏季に定期遊覧船や予約制遊覧船が運航している。国内国外中心市街地周辺では、江戸時代に成富兵庫茂安の石井樋建設によって嘉瀬川から分流された多布施川が市中を縦断、城内を経て佐賀江川に至るのをはじめ、中小河川の支流が街中を張り巡らしていた。古くからの城下市街地では表通りを流れる水運路が美しい景観を生み出す一方で、家々の裏にも飲用水の供給を目的とした背割り水路が網羅されていて、昭和40年ごろまでは生活用水や水遊び場として広く利用されていた。またこの水はやがて用水路に至り農業用水としても活用されていた。しかし次第に生活排水による水質悪化が問題となって、生活用水としては利用されなくなっていたところ、市民運動から始まった「水対策市民会議」(1980年 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)によって年2回の市内一斉河川清掃「川を愛する週間」運動が展開されたことにより水質改善、また水路網の修景や保存意識が高まり水辺の環境が向上した。こうした経緯、環境から旧・佐賀市は水の郷百選に選ばれている。また、平野部では佐賀平野特有のクリークが多く点在している。クリークは、夏季には河川と水量を調節しながら水が供給され、冬季などはため池のような役割を担い、年中ほとんどの時期で水を有している。そのため、トンボやホタルなどが多く生息しており、この地域の自然の特徴とされている。これらは観光資源でもあり、「トンボ王国・さが」と題して観光や環境教育に活用されている。一方で、水辺が多いことで蚊が多く発生しやすいといわれており、市報でも毎年蚊対策を呼びかけるほどで、蚊の羽音になぞらえて「ぶんか都市」(「文化都市」と掛けている)と自嘲する声もある。一方で、山岳部でも水辺の環境は良好で、旧富士町も「緑と清流と温泉の町」として水の郷百選に選ばれている。中心部の街角の至る所に恵比寿像が点在し、総数は500体近くあるとされている。これらは、江戸時代より商売繁盛などを願って設置されたもので、古くより身近な存在として市民に親しまれてきた。観光素材として取り上げる動きはこれまでなかったが、2004年より市民団体や行政によって「恵比須八十八ヶ所巡り」などの観光事業も行われている。古墳時代の遺跡から佐賀藩時代の城跡、さらに幕末期の反射炉跡まで、比較的多くの史跡が残っている歴史のある街である。近年、観光資源の発掘が盛んでかつて住宅街に埋もれていた佐賀城本丸周辺も立ち退きが進み観光地的雰囲気を醸し出し、特に2004年の天保期の本丸御殿を再現した県立佐賀城本丸歴史館の開館以降市内観光の中心的役割を担っている。また日本の科学技術近代化の一翼をになった佐賀藩のお膝元だけに国産初の蒸気機関車模型(蒸気車雛形)、蒸気船模型、湿板写真機、高度な撮影・現像技術に裏打ちされた藩主の鮮明な肖像古写真、トンメス分析表などの幕末に製作された科学技術近代化遺産が豊富である。現在もその名残として佐賀藩精錬方の流れを汲むガラス器製造が副島硝子によって継承されている。その他無形遺産が比較的豊富で、古くは肥前国風土記の伝承があるほか、葉隠や徐福などの伝説も残っている。食文化で特筆すべき点は長崎街道(シュガーロード)沿いにあることによる菓子文化の発達が挙げられる。潤沢に手に入った砂糖と豊饒な佐賀平野で穫れるもち米や小麦を材料とした上に、南蛮・中華貿易を通じて伝来した製法により古くからバリエーション豊かな菓子が作られてきており、戦前には製菓業は人気の職業として三番目にあげられるほどであったが、中心部の衰退とともに菓子店は次第に数を減らし、かつて盛んに生産され名物になっていた米おこしや、婚礼用の金華糖の一種である寿賀台(すがだい)など幻となった菓子も多い。しかし近年シュガーロードが脚光を浴びることで観光資源として再び注目を集め始めている。このほか、各地に徐福の伝説が残る。佐賀市内だけでも金立町、諸富町、富士町、大和町の4か所が徐福ゆかりの地とされている。上陸地の諸富町寺井津「浮盃」、片葉の葦、新北神社のビャクシン、金立町「千布」、阿辰観音、金立山のフロフキ(徐福記念館)など経路上に多数の伝説がある。政治文化芸能スポーツその他旧佐賀市の時代から全国の都道府県庁所在地では唯一、市歌を制定していない。合併前の旧自治体では大和町・富士町・川副町・東与賀町・久保田町の5町がそれぞれ町歌を制定していたが、合併に伴い全て廃止された。佐賀市総合計画審議会では合併を機に市歌を新しく制定してはどうかとの意見が委員より出されているが、制定に向けた具体的な動きは出ていない。合併前の旧佐賀市に関連する楽曲としては1989年(平成元年)の市制100周年を記念して歌詞を公募した市民愛唱歌「さがのうた」(作詞・溝上文雄、補作・河村健太郎、作曲・山本愛子、編曲・富永みさお)があったが、正式な市歌としての制定に至らず新設合併後には引き継がれなかった。県庁所在地では佐賀市の他に富山市も新設合併に伴い1952年(昭和27年)制定の旧市歌が失効したまま後継の市歌が制定されない状態が続いているが「市の成立から一度も市歌を制定していない」と言う意味では佐賀市が唯一であることに変わりはない。旧佐賀市と旧富士町は、1996年(平成8年)に「水の郷百選」に選定されている。佐賀市の英語表記は"Saga city"だが、英語には賢明・聡明・知恵という意味の「sagacity」という単語がある。(ウィクショナリー英語版sagacity)
出典:wikipedia
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