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サンエイサンキュー

サンエイサンキュー(1989年4月7日 - 1994年10月21日)は日本の競走馬(サラブレッド)。競走中止したレースを含め徳吉孝士、東信二、田原成貴、加藤和宏が騎乗している。1991年7月13日、札幌の新馬戦(ダート1000m)でデビュー(6頭立ての2着)し、翌週の新馬戦(芝1000m・7月20日)で初勝利を挙げる。さらに3連闘で札幌3歳ステークスに出走するも13着に敗れる。5戦目の函館3歳ステークスでそれまでの徳吉孝士から東信二へ乗り替わり、12番人気ながら2着となる。6戦目のいちょうステークスで2勝目をあげ、阪神3歳牝馬ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ)でニシノフラワーの2着。明けて4歳(当時表記・現在の3歳)となった1992年も休むことなくレースに出走し、初戦の2月2日のクイーンカップで重賞初制覇を飾る。その後は牡馬クラシックのトライアル弥生賞にも出走したが6着。この後桜花賞では2番人気に推されるが7着。この頃と前後して、億単位の身売り話が出て来たと言われる。田原成貴との新コンビで臨んだ優駿牝馬ではアドラーブルの2着に敗れたが、直線で一旦は先頭に立つなど見せ場を作った。その後、夏期を休養にあてることなく相次いで重賞に出走。7月5日の札幌記念に出走し、古馬を相手に勝利を収める。その後函館記念で8着、サファイヤステークスで優勝、ローズステークス2着、GIエリザベス女王杯5着。加藤和宏騎乗で出走した有馬記念でのレース中(最後の直線)に右トウ骨手根骨複骨折のため競走中止した。有馬記念におけるサンエイサンキューの骨折は予後不良で、通常であればその場で安楽死処分となるほどの重傷であったが、繁殖牝馬として残したら金になるという馬主の強い要望により、レース後患部にギプス固定を施す手術を実施し延命措置が試みられた。延べ6度の手術が行われ馬体も300kgほどまで減少。療養中に競走馬にとって致命的な蹄葉炎(蹄が腐る病気)も併発し、結局心臓麻痺のため負傷からおよそ2年後の1994年10月21日に死亡した。競走馬としての実績だけでなく、過酷なローテーションで次々と重賞競走に出走した挙句、故障を発症したことでも知られる。佐藤勝美厩舎の調教助手だった菅野年美は、出走が相次いだ原因として馬主の岩崎喜好が資金難に陥っていた可能性、さらにサンエイサンキューのライバルであったニシノフラワーの馬主・西山正行への対抗心から積極的レースに出走させることでサンエイサンキューの名前を売ろうとした思惑を挙げている(サンエイサンキューは岩崎にとって生涯唯一の重賞勝ち馬であった)。岩崎はエリザベス女王杯に至る過程でサファイアステークスとローズステークスという2つのトライアル競走に出走させる方針だったが、主戦騎手の田原成貴は「ローズステークスは使うべきではない」と反発した。菅野によると彼自身も出走に反対したが、ローズステークスで2着と好走したことで岩崎が「自分の言うことが正しい」と思うようになったという。菅野によるとエリザベス女王杯の直前は疲労の蓄積によって体調に変調をきたし、トウ骨に痛みを訴えるようになったという(ちなみにそのことは田原も察知しており、サンエイサンキューの体調に関して歯に衣着せぬ言動をとっており、そうした発言は田原と馬主および厩舎スタッフとの対立、さらには後述するいわゆるサンエイサンキュー事件を引き起こすこととなった)。エリザベス女王杯の後、厩舎は休養を取らせるつもりだったが、岩崎は有馬記念への出走を決断。当時のサンエイサンキューに騎乗するとトウ骨が軋む音が聞こえ、菅野と担当厩務員が「あまりにむごいことをする」と涙するほどであったという。菅野は有馬記念を「何とか無事に回ってきて欲しい」と願ったものの、サンエイサンキューはレース中にトウ骨を骨折した。主戦騎手、田原成貴の発言をめぐって、同騎手とサンケイスポーツとの間で起こったトラブルである。オークス出走後、休養を取ることなく出走を続けていたサンエイサンキューの体調について不満を抱いていた田原はローズステークス出走前から、同馬の体調が思わしくないというコメントを繰り返していた。エリザベス女王杯の調教後もテレビのインタビューで体調は思わしくないとコメントしたが、録画が終了した際に「こんなに悪く言っちゃって、これで勝ったら頭を丸めなきゃなんないな」と発言した。サンケイスポーツの水戸正晴記者は録画に立ち会っていたテレビディレクターから田原の発言内容を伝え聞き、翌日の同紙1面で「田原2着以上なら坊主頭になる」という見出しでスクープした。見出しからは田原が故意に2着以上になることを放棄するという競馬法に抵触する発言をしたという疑惑が読み取れるため、田原は「八百長の誤解を招く書き方は勘弁して欲しい」と釈明した。同紙はそれを「田原謝罪」という見出しで報道した。一連のサンケイスポーツの報道姿勢に田原は不信感を抱き、同年の有馬記念では有力馬の一頭、トウカイテイオーに騎乗する予定だった田原はサンケイスポーツの取材を拒否。その理由について「又聞きで書かれ、その上事実を歪められたら、どうしようもない。そういう状況なので取材を受け付られない」と日刊スポーツに手記を掲載した。これについてサンケイスポーツが日刊スポーツ編集部に抗議した。田原が知人の記者に「これで勝ったら…」と発言した時、水戸正晴はその場に居合わせなかった。水戸は田原が公式に行なったマスコミ記者会見に寝坊で遅刻したため、個別にサンエイサンキューの状態を尋ねたところ「見れば分かるだろう」と田原にコメントを拒否された。そこでテレビディレクターから又聞きした発言を「田原2着以上なら坊主頭になる」という見出しで記事にした。当時、サンケイスポーツの競馬記者だった片山良三は文藝春秋の雑誌「Sports Graphic Number」でサンエイサンキュー事件に触れ、「赤面するほど恥ずかしい」などと自社批判を展開。それが原因となって片山はサンケイスポーツを解雇された。さらに片山に追随して同社を退職するレース部社員も数人現れ、一連の騒動はフジサンケイグループの体質を焦点にした特集記事が組まれるほどの騒動となった。田原は後年、自らが原作を手がけた漫画「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」で、サンエイサンキュー事件を連想させる描写をしている。まず、スクープ記事を作るために主人公の騎手の発言を曲解し、悪意をもって報道する新聞記者(「サンオウスポーツ」の記者で、その名も「水田」)が、さらに事件の伏線となったサンエイサンキューの酷使に関して、賞金を稼がんがために負担の大きなローテーションで競走馬を出走させようとする馬主と厩務員の姿が描かれている。5代母に名牝クレオパトラトマスを持ち、曾祖母はハクチカラの全妹という日本土着の名血。父はゴールドシチーやサクラスターオーらの同期で野路菊賞、デイリー杯3歳ステークスの勝ち馬。故障のため(旧)3歳時の3戦3勝のみで引退。中央競馬の重賞を勝った産駒は本馬のみである。

出典:wikipedia

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