王仁(わに、生没年不詳)は、百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した中国人であるとされるが、伝承上の人物であり、実在を疑問視する説も多数存在する。王仁に関しての記述が存在する史書は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などである。それぞれの記述は以下のようになっている。王仁に関するもっとも詳細な記述は日本書紀のものであり、百済からの使者阿直岐(あちき)を介して、来朝したという。和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない。『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。これに従えば、漢高帝の子孫「鸞」なる人物の子孫の「王狗」が百済に渡来し、その孫の王仁が渡来して文氏、武生氏らの祖先となったことになる。この伝承は後の『新撰姓氏録』の記述にもみえる。王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。『新撰姓氏録』には、「諸藩」の「漢」の区分に王仁の子孫の諸氏に関しての記述がある。文宿禰(左京)に「出漢高皇帝之後鸞王也」、文忌寸(左京)に「文宿禰同祖、宇爾古首之後也」、武生宿禰(左京)に「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」、櫻野首(左京)に「武生宿禰同祖、阿浪古首之後也」、栗栖首(右京)と古志連(河内国と和泉国)にはそれぞれ「文宿禰同祖、王仁之後也」とある。祖先が漢の帝室に出自を持つ「鸞王」である点などが、『続日本紀』と対応している。また、孫の名として「阿浪古首」が記されている。『古語拾遺』ではとする。『日本書紀』や『新撰姓氏録』には、百済に渡来した中国人であるとされ、支持する研究者が多い。この場合、王仁の姓である「王」は、高句麗に滅ぼされた楽浪郡の中国人の王氏とする説がある。朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても中国系渡来人の家系ではないかと推測されている。前漢が紀元前108年に朝鮮半島に置いた楽浪郡では官吏に王氏が多く、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼすと王氏は百済に亡命した。日本が369年に新羅を征討すると、百済が日本へ政治的保護を求めた際に文化を日本に輸出し、こうした背景のなか王仁も訪日したともいわれる。一方、津田左右吉をはじめ実在を疑問視する説も多数あり、山尾幸久は儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする。古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌は百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる。大阪府枚方市藤阪にある王仁の墓所は、江戸時代の1731年(享保16年)に設立されたものである。設立までの経緯は次の通りである。藤坂村字御墓谷の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる2個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の2人(アテルイ・モレ)を京都へ連行したが帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある。明治時代になると王政復古のなかで、日本に帰化し天皇家に仕えた博士として王仁が顕彰されるようになり、1894年(明治27年)に墓域拡張工事が行われ、1899年(明治32年)には仁徳天皇1500年祭の付随して王仁墳墓祭典が行われた。昭和時代になると「内鮮一体」を標榜する朝鮮人皇民化教育政策に利用されるようになり、1927年、王仁神社奉賛会(副会長・内田良平)が結成、1930年に王仁神社建設の地鎮祭、昭和12年(1937年)になって北河内郡菅原村村長が大阪府に史跡指定を申請し、翌1938年(昭和13年)、大阪府が史跡13号に指定した。1940年、王仁博士顕彰会が東京の上野公園に「博士王仁碑」を建立し、1942年には大阪府協和会が王仁神社の建設を決定したが戦争のため計画中断した。戦後は「日韓友好親善運動」に利用され、1984年以降、王仁祭が開催されるようになり、1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・祈念碑などが建設された。朝鮮には王仁伝承は存在しなかった。『三国史記』『三国遺事』などの書籍にも王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述は存在しない。1970年代に韓国の農業運動家で民族史観を信奉する金昌洙らの顕彰運動によって、知られるようになった。1968年に農協視察のために来日した金昌洙は王仁伝承を知り、1970年に再び来日し王仁の資料を収集した。金は民族史観のための王仁研究所を設立し、1972年(昭和47年)8月、中央日報に『百済賢人 博士王仁 日本に植え付けた韓国魂』を15回連載した。同年10月に霊岩郡の青年会議所会長の姜信遠から巫女の証言で当地に祈祷伝説があると情報を提供された。金昌洙は当地を王仁の生誕地と認定し、1973年(昭和48年)2月、「王仁出生地 霊岩郡」説を発表し、さらに社団法人王仁博士顯彰協会を創立した。1975年(昭和50年)6月、『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』を出版。1975年、全羅南道知事が博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表し、金昌洙は全羅南道教育委員会で「王仁博士 遺跡学術セミナー」を開催した。1976年(昭和51年)には全羅南道が霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を「王仁博士誕生地遺跡」として全羅南道地方文化財に指定し、遺跡公園として観光地にした。1984年には王仁祭が開催され、毎年11月3日に年中行事化する。1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足、墓域の清掃、むくげの植樹、四天王寺ワッソへの参加、韓国との親善交流などの活動を展開。1987年には王仁廟が竣工された。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・トイレ・祈念碑などが建設される。1992年、韓国全羅南道霊岩郡が枚方市に友好都市提携を申し出たが、枚方市は断る。金英達は、“善意”な日本人の協力者のもと、歴史の検証なしに韓国人の日本に対する文化優越史観-実際は文化的コンプレックスの裏返し-、韓国人の民族意識をくすぐる韓日友好親善運動に王仁が利用されているとして、こうした歴史イメージの政治的利用・時代的風潮への悪乗りにより、さまざまな歴史の偽造が行われ、具体的には、大阪府枚方市の王仁の墳墓であるとする王仁塚であり、韓国の全羅南道霊岩郡の王仁の生誕地であるとする王仁廟を挙げ、科学的実証性に全く欠けた歴史の捏造であり、伊豆七島の神津島の「ジュリア・おたあ」の墓のでっち上げと韓国キリスト教グループによる「ジュリア祭」の開催、北朝鮮の檀君の遺骨のでっち上げと檀君陵の建設と同様とする。「一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造」「金昌洙の妄想がきっかけになって、霊岩が生誕地だとされるようになった。その根拠は、霊岩に王仁に関する伝説があるということだけだが、科学的実証性に全く欠けるものである。道銑国師(新羅末の名僧)らの伝説や地元の遺跡を無理矢理にこじつけたもので、枚方の王仁塚をはるかに上回る大々的な歴史の捏造が公然と行われている。いずれにしても、日本の記紀の記載にもとづいて、日本の文化を開明した人物がまさに韓国人であったとの民族主義的思考が先行しているように思われる。しかし、ここまでくると、もはや王仁廟がでっち上げだと言おうものなら袋叩きに遭いかねない雰囲気」「韓国人サイド主導の王仁顕彰グループは、王仁の枚方墳墓説・霊岩誕生説への学問的批判に対して、韓日友好の歴史モニュメントを否定する『左翼小児病』であると非難している。しかし、実証なしに歴史をでっち上げ、都合のよいように政治利用する側こそ、民族主義・国家主義的偏向によって理性に動脈硬化をおこしている『右翼成人病』」「歴史偽造のパターンを分析してみると、まず、ある学者(一定の政治力のある自称学者)の思い付き、功名心と情熱があり、ついでそれを支える時代的風潮と運動や事業に利用しようとする政治勢力の存在、そしてとにかく碑や建物を建て、行事を挙行して既成事実化」と分析している。黄禹錫がクローン技術で製作した「BSEに耐性を持つ」と称する牛を日本の検証施設に送る際にも黄禹錫チームの一員が「先進文化を伝えた王仁が日本に渡ったのと同じこと」と発言している。なお、黄禹錫の経歴捏造が明らかになった後にその牛がどうなったかは不明である。その他、山梨県韮崎市神山町北宮地に王仁塚(鰐塚)があるが、これは日本武尊の王子武田王の墓と言われるもので、王仁とは無関係である。全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里山に、韓国の農業運動家金昌洙が『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』(1975年)に発表した説に基いて1976年に全羅南道が文化財として認定した遺跡がある。韓国で王仁は日本に文化を伝えた韓国人として扱われており、民族史観を信奉する運動家の金昌洙は王仁を「日本に植え付けた韓国魂」として賞賛している。韓国では民族史観によって「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と教えられている。洪潤基は王仁が万葉仮名を作り、その子孫が平仮名を作ったと韓国起源説を主張している。王仁が日本へ儒教と漢字を伝えたとされるが、当時の朝鮮半島の「文化」を伝えたとは書かれていない。また、王仁は日本側の資料にのみに登場する人物であるが、韓国は『古事記』の「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と言う記述や『日本書紀』等の日本の大国ぶりが伺える記述については「捏造」と激しく否定しており、資料の都合の良い部分だけ採用し、それ以外は無視するという「つまみ食い(チェリー・ピッキング)」をし、二重基準を見せている。韓国の歴史解釈について呉善花や井沢元彦らは、日本へ「伝えてあげた」という韓国の歴史解釈は、日本の歴史史料を利用したものであるが、同じ史料(『日本書紀』など)にある自国に都合の悪い部分(任那日本府、三韓征伐、等)は否定するという客観性のない都合の良い歴史観であり、その矛盾を指摘している。全羅南道霊岩郡では1976年以降、王仁博士祭が開催されている。大阪府枚方市藤阪の伝王仁墓では大阪日韓親善協会の主催で、周辺住民や在日本大韓民国民団大阪府本部の協力で「博士王仁まつり」が開催されている。2008年(平成20年)3月1日には枚方市と全羅南道霊岩郡が友好都市提携を実現した。韓国から修学旅行生が訪れることもある
出典:wikipedia
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