ガエタノ・ヴェストリス(Gaetano Apolline Baldassarre Vestris、1729年4月18日 - 1808年9月23日)は、イタリア出身でパリ・オペラ座を中心にヨーロッパの各地で活動したバレエダンサー・振付家・バレエ指導者である。18世紀から19世紀にかけて著名なバレエダンサーや俳優を輩出したヴェストリス家の一員であり、息子のオーギュスト・ヴェストリスと並んで「舞踊の神」("le dieu de la danse")と呼ばれるほどの人気と実力を誇ったダンサーであった。フィレンツェに生まれる。ヴェストリス家はバレエダンサーや俳優を多く出した家系であり、ガエタノもバレエの道に進んだ。イタリアやドイツの歌劇場でバレエを学んだ後、パリに出てルイ・デュプレ()に師事し、イタリアの各都市で舞台に立っていた。バレエダンサーとして既に活躍していた姉テレーザ(、1726年 - 1808年1月18日)の働きかけによって、弟アンジョーロ( 、1730年11月19日 - 1809年6月10日)と一緒にパリ・オペラ座へ加入し、1748年に舞台デビューを果たした。その後1751年にプルミエ・ダンスールに昇格した。ガエタノはリュリやラモーの作品で舞台に立ち、テレーザ、アンジョーロとともに宮廷の主催する舞台に出演することもあった。1754年に当時オペラ座の首席振付家を務めていたジャン=バルテルミー・ラニ()と諍いを起こし、テレーザのためにラニに決闘を挑んだ。この決闘は行われなかったが、結果としてガエタノは短期間投獄されることになった。釈放された後は、テレーザ、アンジョーロとともにベルリンへ行き、その後トリノに移って短期間その地でバレエマスターを務めた。1755年、再びパリ・オペラ座の舞台に立つことになり、1782年まで在籍した。オペラ座在籍中に、70作以上のバレエやオペラで主要な役柄を踊っている。1761年に一時休暇を取ってシュトゥットガルトの劇場に行き、『ヘラクレスの死』("La Mort d'Hercule"、1862年)、『プシュケとアモール』("Psyché et l'Amour"、1762年)などのノヴェール振付作品の初演に出演した。ガエタノはノヴェールに強い影響を受け、後にノヴェールの理念に基づいてパリ・オペラ座にも「バレエ・ダクシオン」("Ballet d'action")を導入した。1761年に、パリ・オペラ座の共同振付家に任命された。1770年からはラニの後任としてオペラ座の首席振付家に就任し、1776年まで勤め上げた。ガエタノが首席振付家を退いた後は、ノヴェールがその地位を引き継いだ。ガエタノは年金を受給することになったが、その後もパリ・オペラ座に籍を置いた。1781年にロンドンへ渡り、キングス劇場で息子オーギュストと共演した。「舞踊の神」と呼ばれる父子2人の共演は大きな話題となり、この舞台を見るために議会までが中断されたと伝わる。ガエタノは長身で威厳と風格があり、小柄で超絶技巧の持ち主として知られた息子オーギュストとは対照的だった。彼は、当時慣例とされていた仮面をつけずに舞台に立った初のダンサーの一人とされている。また、マイムの技量も優れていた。一方で強い虚栄心を持ち、「ヨーロッパには真に偉大なる人物は3人しかいない。それはプロイセンのフリードリヒ大王、ヴォルテール、そしてこの私である」との発言を残している。私生活においては、ドレスデン生まれのバレエダンサーでドイツ人のアンナ・ハイネル(、1753年10月4日 - 1808年3月17日)と結婚し、子供のうち数名はバレエの道に進んだ。但しオーギュストはガエタノの嫡出子ではなく、同じくバレエダンサーだったマリー・アラール(Marie Allard、1742年 - 1802年)との間の子だった。71歳の時、孫の初舞台に際して再び舞台に登場した。1808年9月にパリで死去したが、死去の日付については9月23日と9月27日の2つの説がある。
出典:wikipedia
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