黒部 光昭(くろべ てるあき、1978年3月6日 - )は徳島県阿南市出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW。元日本代表。小学2年でサッカーを始める。徳島県立徳島商業高等学校時代、全国高校サッカー選手権大会徳島県大会で3年間連続して決勝へ勝ち進んだが全て準優勝だった。Jリーグクラブからのオファーはあったが、福岡大学へ進学。大学サッカー屈指のストライカーとして活躍し、ユニバーシアード(スペイン・マリョルカ大会)の日本代表にも選ばれた。大学では教員免許を取得した。大学卒業後、京都パープルサンガに入団。プロ1年目の2000年は三浦知良やへジスの陰に隠れていてゴールを決めることができなかったが、2年目の2001年には背番号9をもらい、この年41試合で日本人として驚異的な30ゴールを決めJ2ゴールランキング2位、日本人ゴールランキング1位に輝いた。2002年には松井大輔、朴智星らとともに破壊力抜群の攻撃的なサッカーを展開し、3-4-3のフォーメーションのセンターフォワードとしてチームトップ、日本人ゴールランキング3位の13得点をあげた。また天皇杯では5試合で4得点を上げ優勝に貢献。決勝の鹿島アントラーズ戦では決勝点を挙げた。2003年にはフル代表に初選出されるが怪我などで苦しいシーズンを送り、チームも来季よりJ2へ降格することとなった。2004年はJ2で戦うことを決意したが、代表から漏れチームもJ1に昇格できず本人も9得点と不本意なシーズンを送った。2005年にはフル代表への意欲からJ1クラブへの移籍を望み、FW大久保嘉人が退団したセレッソ大阪へレンタル移籍。7月24日に徳島にフットサル場「シーサイドフットサル徳島」をオープン、現役Jリーガー初のオーナー経営者となる。9月3日には地元の小学生のサッカーチームを集めて「第一回 クロベカップ少年サッカー大会」を開催。2006年は浦和レッズへ京都よりレンタル移籍したが、その年にリーグ得点王となったワシントンとポジションを争う形となり、出場機会に恵まれなかった。なお、この年に行われたさいたまシティカップの対バイエルン・ミュンヘン戦で決勝点となるゴールを決めている。2007年にジェフ市原・千葉へ完全移籍。2008年はアビスパ福岡に完全移籍し2シーズンプレー。2009年シーズンオフにJリーグ合同トライアウトを受け、2010年からカターレ富山に完全移籍。チーム最多得点となる8得点をあげた。2013年シーズン終了後、契約満了により退団、タイ・ディヴィジョン1リーグ・TTMカスタムズFCへ移籍。2015年3月、現役引退を発表した。同年12月、カターレ富山強化部長に就任した。114||28||29||5||11||5||154||38colspan="2"|-||colspan="2"|-||4||3||4||3その他の公式戦|-!通算
出典:wikipedia
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