菅原氏(すがわらうじ)は、「菅原」を氏の名とする氏族。天穂日命の子孫で、大相撲の祖として知られる野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫。平安時代初期の古人が大和国菅原邑に住んでいたことから、以降、菅原氏を名乗る。菅原古人の子清公(770年(宝亀元年)~842年(承和9年))(従三位・非参議)、および孫の是善(812年(弘仁3年)~880年(元慶4年))(従三位・参議)を含め、大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道(文章道)を家業として朝廷に仕える。歴代菅原氏の人物の中で特に有名なのは是善の子道真である。彼は阿衡事件で藤原基経を諌めた事をきっかけに宇多天皇の抜擢を受け、次の醍醐天皇の治世に従二位・右大臣に至るが、901年(延喜元年)、藤原時平の讒言により大宰員外帥に左遷され、903年(延喜3年)、大宰府にて薨去。しかし、菅原道真の死後、相次ぐ天変地異や、道真を左遷に追い込んだ藤原時平の子孫たちの相次ぐ急死、更には930年(延長8年)の清涼殿落雷事件とその惨状を見た醍醐天皇は体調を崩し、その後崩御等という凶事を理由に、間もなく彼の子孫は朝廷に呼び戻された。なお更級日記の原作者菅原孝標女は菅原道真の子菅原高視の子孫である。平安時代中後期は、一時、紀伝道の分野で大江氏に優位を奪われ、菅原文時(899年(昌泰2年)~981年(天元4年))(従三位・非参議)、菅原輔正(925年(延長3年)~1009年(寛弘6年))(正三位・参議・大宰大弐)のような例外を除いて公卿に列せられることはなかったが、鎌倉時代初期の菅原為長(1158年(保元3年)~1246年(寛元4年))が正二位・参議・大蔵卿に昇進して以降、子孫は累代公卿に列せられ、朝廷における紀伝道の要職を独占。その後近世に至るまで高辻家、五条家、東坊城家、唐橋家、清岡家、桑原家の6家の堂上家(半家)を輩出するにいたる。中世公家社会において菅原氏の嫡流は唐橋家とみなされて氏長者である北野の長者に多く就任していたが、15世紀末の唐橋在数の殺害事件以後は衰退し、それまでは稀にしか補任されていなかった高辻・五条・東坊城家の中から選ばれるようになった。
出典:wikipedia
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