毛利 元秋(もうり もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。毛利元就の五男。通称は少輔十郎。官途は刑部大輔。天文21年(1552年)、安芸国の戦国大名・毛利元就の五男として誕生した。母親は側室の三吉氏(備後国の国人・三吉氏の出身)。弘治2年(1556年)から始まる毛利氏の防長経略において、大きな戦功を挙げた周防国国人・椙杜隆康には実子が無かったため、父・元就によって元秋は椙杜氏に養子に入り、椙杜元秋と名乗る。(永禄12年(1569年)に、出雲国の支配に従事していた月山富田城代・天野隆重の要請もあり、月山富田城主を命じられた。この時に椙杜氏との養子縁組を解消して、毛利元秋と名乗った。また、富田氏を名乗ったともされる。永禄12年(1569年)から翌年にかけて、山中幸盛・尼子勝久らが出雲を奪還すべく再興軍を組織して、隠岐から出雲に侵入した。元秋と天野隆重は、兵数の少なさを勘案し、月山富田城に籠城して、尼子再興軍に抵抗した。富田城を守りきった毛利軍は逆襲に転じ、尼子再興軍を打ち破り、出雲国から敗走させた。天正13年(1585年)に月山富田城において34歳で病死した。墓所は月山富田城近くの宗松寺跡。元秋の死後間もなく元秋の子たちも死去したため、元秋の遺領は同母弟の末次元康に受け継がれた。
出典:wikipedia
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