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今江敏晃

今江 敏晃(いまえ としあき、1983年8月26日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する京都府向日市出身のプロ野球選手(内野手)。少年野球チームは向陽オックスに所属。中学3年生の時には、全日本中学野球選手権大会 ジャイアンツカップで全国優勝を果たすと、ボーイズリーグの世界選抜として世界大会でも優勝。PL学園高で1年生時から4番に座り、2000年の夏の甲子園に出場、3回戦で敗退。当時の同級生には朝井秀樹、桜井広大、小斉祐輔らがいる。また1学年上に中尾敏浩がおり、二遊間を組んだ。高校通算本塁打は30本。2001年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから3巡目指名を受け、入団。背番号は、PL学園高出身の先輩の得津高宏がかつて着けていた25。には、4月28日に、地元・関西の大阪ドームで開かれた対大阪近鉄バファローズ戦9回表に代打で一軍デビュー。同月30日の対福岡ダイエーホークス戦(千葉マリンスタジアム)では、遊撃手として一軍初のスタメン出場を果たした。その後に一時出場選手登録を抹消されるが、抹消後は二軍のレギュラーを獲得。後半戦に再び一軍へ登録されると、9月30日の対西武ライオンズ戦(西武ドーム)で一軍初安打。一軍公式戦全体には、15試合に出場。通算25打席で打率.200という成績ながら、2打点を記録したほか、5安打のうち3本が二塁打であった。には、イースタン・リーグの選抜選手としてフレッシュオールスターに出場。1-3で迎えた8回裏1死満塁の打席で走者一掃の逆転三塁打を放ったことから、MVPに選出された。しかし、一軍公式戦には5試合の出場で、6打数2安打(打率.333、1二塁打)という成績にとどまった。は遊撃手のレギュラーに小坂誠がいたため、強肩を生かして外野手へのコンバートを打診されたが、内野手をやりたいという自身の希望で三塁手にコンバート。6月から初芝清やマット・フランコらと三塁手のレギュラーを争う活躍を見せ、6月にはプロ初本塁打を記録。しかし、投球を手に受けたこと(スイングしていたため、判定はストライク)による故障により41試合の出場に留まる。は背番号をかつて「ミスターロッテ」と呼ばれ、三塁手でもあった有藤道世が背負っていた8に変更。9番三塁手として初の開幕スタメンを果たす。三塁手としてレギュラーに定着すると、一気にチームトップとなる132試合に出場、球団史上歴代5位となるシーズン22試合連続安打を記録、8月の月間打率は4割を超え、一時は打率がリーグ1位に。その後も調子を維持し初の規定打席と3割に到達。またこの年のパリーグ最多二塁打となる35二塁打を記録。リーグ優勝時は、チームが内野手を全て使い切ったため三塁を初芝清に譲り、二塁で優勝の瞬間を迎えた。日本シリーズでは、第1戦・第2戦で8打席連続安打、シリーズ打率.667と新記録を達成し、日本シリーズMVPにも選出される。こうした活躍を高く評価され、三塁手部門のベストナインと初のゴールデングラブ賞を受賞。開幕前の3月に、第1回WBCの日本代表に選出された。この大会では、5試合に出場し4打点を挙げ、世界一に貢献。シーズンでは前半は2番に起用されることが多かったが、調子の波が激しく打撃が安定しなかった。三塁のレギュラーは守ったものの結局最後まで不調に終わり、打率を大きく下げた。最後のパリーグ東西対抗にて3ランを含む3安打でMVPとなる。この年も連続でゴールデングラブ賞を受賞(2回目)。は5月に左手有鈎骨を骨折したのもあり、前年同様の打撃不振に陥り打率.249とさらに下げた。打順はほとんど8番か9番。また、故障により守備面でも不安があり堀幸一や青野毅にポジションを譲ることもあったが、ゴールデングラブ賞を3年連続で受賞。は前2シーズンと打って変わって打撃好調を維持し、9月7日までに打率.309、12本塁打、55打点を挙げるものの、同日の対ソフトバンク戦で水田章雄より右上腕へ死球を受け右尺骨骨折し、登録抹消。結局一軍復帰を果たせぬままシーズン終了となった。また、この年は本塁打も2ケタを記録するなど打撃は好調だったものの守備では若干成績を落とし、特に補殺と併殺参加数は前シーズンまでと比べて少なかった(併殺参加数は2006年はリーグトップの24個だったがこの年はリーグ最少の4個しか記録できず。ワースト2位の草野大輔も13個記録していることからも少なさが分かる)。ゴールデングラブ賞を4年連続で受賞。7月5日、西村徳文コーチがボビー・バレンタイン監督よりスタメンを告げられる際に、本来三塁で先発出場する予定だった今江の愛称である「ゴリ」と「堀」を聞きまちがえてしまい、堀幸一が2年ぶりにスタメン三塁で出場する珍事があった。結局堀は第1打席で犠牲フライを放ったのち、3回表の守備より今江と交代した。チーム4位の60打点を記録したものの、打率は.247と低調に終わり、2005年から受賞していたゴールデングラブ賞は小谷野栄一に譲ってしまった。はシーズン序盤は9番打者であったが、荻野貴司の故障後は2番に抜擢され、自己最多(リーグ3位)の犠打数を残した。シーズン終盤は清田育宏が2番に定着すると、5番や6番を任された。打率はリーグでも3位の.331と好調、本塁打を除いて自己最高のシーズンを送り、チームのクライマックスシリーズ進出にも貢献した。日本シリーズでも打率.444を記録し、2度目の日本シリーズMVPを獲得した。は、チームの主将に就任。一軍公式戦では、通算136試合の出場で、6本塁打、打率.253、47打点を記録した。は主将の座を岡田幸文に譲った。5月15日の巨人戦ではプロ入り後初の4番打者に入ると、そこからは4番に定着。本塁打こそ年間10本とクリーンアップとしては少なかったが、打率は.325パ・リーグ2位、守備率も三塁手リーグ1位の.969を記録し、攻守にわたりチームのクライマックスシリーズ進出に大きく貢献した。この年には海外FA権を取得したが、シーズン終了後の球団との契約交渉では、権利を行使しないまま新たに2年契約を結んだ。はふくらはぎの筋膜炎で開幕に間に合わず、4月1日の本拠地開幕戦から1軍に復帰した。しかしわずか2週間後に腰痛で登録抹消となるなどシーズンを通して体のコンディションに苦しみ、打撃も前年に比べて安定せず、2番から9番まであらゆる打順で起用された。には、オープン戦で打率.313を記録。また、前年のシーズン中盤から4番を打っていたアルフレド・デスパイネが4月中旬まで母国・キューバの国内リーグに参加していた関係で、公式戦の開幕から4番打者を任された。その一方で、5月22日の対オリックス戦(ほっともっとフィールド神戸)では、8回表の打席で佐藤達也から頭部に死球を受けて交代(佐藤は吉本文弘球審からの危険球宣告で退場)。翌23日の同カード(京セラドーム大阪)では本塁打、6月3日の対阪神戦(甲子園)では単打を放てばサイクルヒットを記録できる状況(詳細後述)で最終打席を迎えたが、いずれも達成に至らなかった。さらに、7月14日の対ロッテ戦(京セラドーム大阪)8回表の打席で、岸田護から死球を受けて左手を骨折。9月11日の同カード(QVCマリンフィールド)で一軍に復帰するまで、約2ヶ月間の戦線離脱を余儀なくされた。なお、7月16日には第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補へ選ばれた。しかし、最終ロースターに残らなかったため、11月開催の大会には出場していない。2015年でロッテとの2年契約が満了したことを受け、会見では「寂しい」などと語りながらも同年シーズン終了後の11月10日に、前述の海外FA権を行使することを表明。翌11日には、NPBから海外フリーエージェント宣言選手として公示された。ロッテでは基本としてFA権行使表明選手の残留を認めない方針を立てているため、同じパシフィック・リーグの東北楽天ゴールデンイーグルスが、公示を機に今江の獲得交渉を開始。11月27日には今江との契約で合意に達したこと、12月9日に開かれた入団会見では、ロッテ時代に続いて背番号8を着用することが発表された。楽天がFA権の行使を宣言した選手を他球団から獲得した事例は、中日ドラゴンズに在籍していた中村紀洋と2009年から2年契約を結んで以来2例目である。なお、ロッテ球団は2016年1月13日に、今江の移籍に関する補償措置として楽天球団に金銭(推定1億6,000万円)の支払いを求めた。には、ロッテ時代の2014年に発症した左ふくらはぎ痛が、春季キャンプ直前の自主トレーニング中に再発。その後の検査で左ふくらはぎ筋炎と診断されたため、キャンプのスタートを二軍で迎えた。オープン戦の中盤から一軍に合流すると、公式戦では、5月11日の埼玉西武ライオンズ戦(楽天Koboスタジアム宮城)でNPB一軍公式戦通算300二塁打を達成。その一方で、前半戦には死球による左尺骨の骨挫傷や、打撃不振などで2度にわたって一軍の戦線を離れた。後半戦では、7月20日の対日本ハム戦(帯広の森野球場)で一軍公式戦の移籍後初本塁打を記録すると、次の試合であった同月22日の対千葉ロッテ戦(Koboスタ宮城)で古巣からの初本塁打を放っている。8月26日のオリックス戦では史上122人目の通算1500安打を記録した。広角にライナー性の強い打球を放つ打撃を持ち味とする。2008年にはボール球スイング率36.6パーセント、翌2009年には同43.2パーセントを記録するなど、ボール球でも強引に振りにいく積極的な打撃を見せ、それ故に四球は少ない。守備では三塁手として起用され、2005年シーズン中盤まで、半身に構える独特のスタンスで守備に就いていた。三塁守備は打球反応や出足の速さ、グラブ捌き、スローイングのいずれも高いレベルにあり、ライナー性の打球やフライに強く、2005年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。走塁面では盗塁の試行数は多くないものの、右打者ながら一塁到達まで3.85秒を記録するなど全力疾走を怠らない。ロッテ時代の2006年に『24時間テレビ 「愛は地球を救う」29』(日本テレビ)で「群馬アトム」(群馬県の障がい者野球チーム)に所属する投手の練習映像を偶然見たことをきっかけに、同年11月から「群馬アトム」との交流を開始。自身が出場する試合に関係者を定期的に招待したり、シーズン終了後に練習へ参加したりするなど、現在まで交流を続けている。また、東日本大震災(2011年)では、当時住んでいた千葉県浦安市内の自宅が液状化現象の被害を受けた。この経験に加えて、ロッテ球団の職員に被災地・福島県いわき市の出身者がいることから、現地の小・中学校を定期的に訪問。現在では、「今江スマイルプロジェクト」と称して、以下の活動も長期にわたって続けている。このような活動が評価されたことから、2015年のシーズン終了後には、第17回ゴールデンスピリット賞を受賞した。2015年11月26日のゴールデンスピリット賞授賞式では、副賞の200万円を寄付することを表明するとともに、(当時未発表だった)楽天への入団が決まった場合にも活動を継続することを示唆。楽天への入団発表直後(同年12月15日)には、ロッテ時代に続いていわき市を訪れるとともに、現役を引退してからも同市との交流を続ける意向を示している。

出典:wikipedia

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