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マイク・ディアズ

マイク・ディアズ(Michael Anthony "Mike" Diaz , 1960年4月15日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身の元プロ野球選手(外野手)。のドラフトでシカゴ・カブスから30巡目指名を受け入団。もともとの守備位置は捕手で、メジャー初昇格したまではマイナーでもほとんど捕手として出場していたが、後に登録上は外野手に転向した。にフィラデルフィア・フィリーズ、さらに翌年にはピッツバーグ・パイレーツに移籍し、に3年ぶりにメジャー昇格するとこの年と翌年に2年連続で二桁本塁打を記録した。登録上の守備位置である外野手と一塁手で主に起用されたが、それ以外にも三塁手や本職の捕手に入る場合もあり万能選手として扱われていた。は打撃不振で、シーズン途中にシカゴ・ホワイトソックスにトレードされたがホワイトソックスもシーズン終了後に退団。その後日本のロッテオリオンズに入団した。アメリカ時代に乱闘を度々したことやそのマッチョな風貌、シルベスター・スタローンに風貌が似ていることから「ランボー」の愛称で親しまれていたことから登録名を「ランボー」にする案もあったが、権利の関係で実現はしなかった。は130試合全てにスタメン出場し、打率.301・39本塁打・105打点と打線の核として働いた。はこの年にロッテに移籍した高橋慶彦などと中軸を組み、前年に続き3割30本100打点を達成。また後半戦には監督の金田正一の発案から捕手として15試合に出場した。小宮山悟によるとディアズの配球は「打たれるまで初球カーブ」というものだったという。7月28日の試合では一塁ランナーを座ったままの牽制球で刺殺するという強肩ぶりを披露し、抑えのリリーフに入った荘にも「的が大きくて投げやすい」と好評であった。本人も「やっぱり野球選手は打って走って、そして守って投げてこそ価値がある」と乗り気ではあったが、元来細やかな神経の持ち主であることもあり、試合中に下痢を起こしタイムをかけてはベンチ裏に駆け込むということがあった。捕手として初めてコンビを組んだのは村田兆治であるが、ディアズは村田を尊敬しており自分のロッカールームに村田の写真を飾っていた。この年限りで引退した村田の引退試合(10月13日の対西武戦)ではホームランを放っている。翌も6月に捕手として起用されたが、12日のオリックス・ブルーウェーブ戦で2塁送球の際に右肘を骨折し残りのシーズンを欠場。なお1991年6月12日のディアズを最後に、NPBにおいて外国人選手が捕手としてスタメン出場したケースはない。復帰したはこの年から球団名を変えた「千葉ロッテマリーンズ」の初代4番となったが、精彩を欠いてシーズン途中で解雇された。現役時代、「全米腕相撲大会」にロッテオリオンズのユニフォームを着て出場して並み居るメジャーリーガー達を抑え、2年連続で優勝している。シーズンオフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞に出演した際に内藤尚行(当時ヤクルトスワローズ)と腕相撲対決をしたが、内藤が両腕を使うというハンデもあったが「オオ、スゴイ」と予想以上の力に驚きながら敗れてしまった。NHKの道傳愛子アナウンサーとは、当時のNHKのスポーツニュースで知り合って以来の友人。ディアズは道傳のことを「AICO」(「アイコ」)という愛称で呼んでいる。この愛称はディアズが名付け親。道傳の意思により、英語風に表記している。ロッテでの応援歌の原曲は「魔法使いサリー」のテーマ。1989年4月23日対福岡ダイエーホークス戦で、山内和宏から左腰に死球を受けたことに激高、山内を追っかけ乱闘騒ぎを起こして退場処分を受けた。またこの乱闘の際に、ダイエーのトニー・バナザードとウィリー・アップショーになだめられているシーンが同年のプロ野球珍プレー・好プレー大賞でおもしろおかしく取り上げられた。また同年9月の試合では、清原和博(西武)が平沼定晴投手に襲い掛かった後、味方ベンチに逃げ込もうとした時にヘッドロックを掛けたシーンは何度も珍プレー好プレーで流された。

出典:wikipedia

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