峰崎部屋(みねざきべや)は、日本相撲協会所属で二所ノ関一門の相撲部屋。1986年9月場所限りで引退し、その後は放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた年寄・7代峰崎(元幕内・三杉磯)が、1988年12月に放駒部屋から分家独立して東京都練馬区田柄に峰崎部屋を創設した。伊勢ノ海部屋・春日野部屋・中村部屋と共に、長らく外国人は入門させないという方針を採っていたものの、2006年3月に青森山田高校のモンゴル人留学生・透川が入門し、部屋初の外国人力士となった。2012年4月に、同じ二所ノ関一門に所属する花籠部屋が部屋の経営難を理由として、同年5月場所後にも峰崎部屋と合併する方向で調整が進められていることが明らかとなり、同年5月場所後の同年5月24日に開かれた日本相撲協会理事会にて花籠部屋の峰崎部屋への吸収合併が正式に承認され、同日付で15代花籠(元関脇・太寿山)ら花籠部屋の所属年寄や力士ら13人が峰崎部屋へ移籍した。部屋の創設以降、「叩き上げ力士」の育成に力を入れながらも、これまで自部屋の生え抜きとなる関取は育っていない。花籠部屋との合併により関取経験者の荒鷲が所属力士に加わり、2012年9月場所での再十両昇進と同時に峰崎部屋から初めての関取誕生となった。荒鷲は2014年5月場所で新入幕を果たし、峰崎部屋から初めての幕内力士にもなった。大正時代に一大勢力を築いていた尾車部屋が、後継者をめぐる争いを起こしていた際に、当時峰崎を襲名していた行司・木村銀治郎が一時期力士たちを預かり、峰崎部屋の看板を掲げていた。しかし、しばらくして親方は死去し、力士たちは再興された尾車部屋に戻った白岩亮治の一統と、片男波部屋を経て伊勢ノ海部屋に預けられた三杉磯善七の一統とに分かれていった。
出典:wikipedia
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