菩薩戒(ぼさつかい)、もしくは大乗戒(だいじょうかい)とは、大乗仏教における菩薩僧と大乗の信者に与えられる戒律である。このうち、日本において菩薩戒の代表とされる大乗『梵網経』に基づく「梵網戒」は、下述するように、南都六宗以来、大きな論争の的になってきたものであり、その後の日本の仏教史の変遷にも極めて大きな影響を与えている。現在の日本では戒律が途絶えているために、「大乗戒」と呼ばれる大乗仏教における戒律の詳細が忘れられているので、根本仏教に依所する「三聚浄戒」(さんじゅじょうかい)を、本来は別の戒律である大乗仏教における各種の菩薩戒の総称として用いていて、それら菩薩戒が『三聚浄戒』とも名づけられて以下の3種類の説があるが、一般的には最初の「梵網戒」を指す。したがって、本稿でも以降、この戒律について記述していく。ちなみに、元々の鑑真・東大寺戒壇・奈良仏教的枠組みでは、出家者に授けられる「戒律」(波羅提木叉・具足戒)に対して、在家信徒に授けられる戒(五戒・八斎戒)や大乗の「菩提心戒」を「菩薩戒」と通称することもあるので注意が必要である。日本の菩薩戒は漢訳の『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』(梵網経)を典拠とし、「十重禁戒」と「四十八軽戒」、合わせて「十重四十八軽戒」から成る。それゆえ、「梵網戒」(ぼんもうかい)とも呼ばれる。中国僧の鑑真和上によって日本にもたらされた戒律で、鑑真和上は『瑜伽師地論』に基づく「瑜伽戒」と、漢訳の『梵網経』に基づく「梵網戒」と、『優婆塞戒経』に基づく在家の菩薩戒である「大乗菩薩戒」の三つの系統の菩薩戒を伝えてはいたが、当時の密教(古密教)を伝える必要があったためか、日本では、この梵網戒をもって大乗戒の「菩薩戒」とし、当時、東大寺の「戒壇」において小乗戒である「出家戒」(具足戒)等と共に、僧侶が保つべき正式な戒律のうちの一つとして伝えた。しかし、中国で天台宗の智顗が重視したことから、それを引き継いだ日本天台宗の祖・最澄によって特に重視され、822年に小乗戒に属する本来の「具足戒、出家戒」を切り捨てて、代わりにこの「梵網戒」(円頓戒)の一種類のみを以て出家の授戒(得度)とする「大乗戒壇」という、日本天台宗の独自の「戒壇」が比叡山延暦寺に作られ、以降、法然・親鸞・道元・日蓮といった後の鎌倉仏教の担い手も含め、比叡山で学んだ僧侶達は、この方式で僧侶となった。なお、道元は後に中国の宋に渡って庵者から修行をやり直し「仏祖伝来の正戒」と称した。いわゆる、この梵網系の「菩薩戒」(大乗戒、円頓戒)や「大乗戒壇」は、それより前の時代に、鑑真によって伝えられ、律宗・東大寺によって担われてきた『四分律』のような初期仏教・部派仏教以来の伝統的な律(波羅提木叉・具足戒)や、それに基づく正統な「戒壇」ではなかったため、「奈良仏教」(南都六宗)と「平安仏教」という新旧の勢力・地域対立の争点のひとつとなった。この対立は結局、後に朝廷の勅許により、比叡山の「大乗戒壇」が公的に認められたことで、(日本国内においては)一応の決着が付くことになったが、このことは日本仏教界の内部で初期仏教・部派仏教以来の伝統的な「律」が「小乗戒・声聞戒」と軽視・蔑視され、衰退・欠落していく大きな転機となった。そしてそれは、「鎌倉仏教」の登場・台頭によって、更に加速することになった。一方、その反動として叡尊に始まる真言律宗のように、それを復興する動きもあった。こうした伝統戒律重視・復興の動きは、江戸時代の『戒律復興運動』へと引き継がれた。代表的な人物としては黄檗宗の開祖・隠元禅師、その後に続くのは豪潮律師、禅密双修の慈雲尊者、関西において隠元禅師が伝えた中国の系統の戒律を正しく学んで「如法真言律」を提唱し、江戸にあって生涯において三十数万人の僧俗に灌頂と授戒を行なった霊雲寺の浄厳覚彦らがいたが、廃仏毀釈によって、これらの系統の戒律は途絶えてしまった。その後は、近代にかけての釈雲照・釈興然など、戒律を見直す動きは散発的ながら比較的近年まで続いて来た。また、国際化が進んだ今日においては、上座部仏教やチベット仏教、香港や台湾に残る古い伝統の戒律を残す中国仏教等が直接日本に知られるようになってきた。今日の仏教学の研究では、『梵網経』は中国で作られた偽経である可能性が高いことが知られる。
出典:wikipedia
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