レインボー(Rainbow)は、イギリスのロックバンド。別名 リッチー・ブラックモアズ・レインボー。ギタリストとして既に音楽的にも商業的にも世界的な成功を得ていたディープ・パープルのリッチー・ブラックモアが、同バンドから脱退して新たに結成したリッチー中心のバンド。そのためデビュー・アルバム時はアルバム・タイトルと同じ「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」(Ritchie Blackmore's Rainbow)と表したが、セカンド・アルバム時は「ブラックモアズ・レインボー」(Blackmore's Rainbow)、最終的には「レインボー」(Rainbow)というバンド名で活動した。イギリス人のリッチー・ブラックモアが中心となって結成されたため、一般的には「ブリティッシュ・ロック」に類するバンドとされるが、メンバーの多くがアメリカ北東部出身のミュージシャンである。ブラックモア自体のステージングなどはディープ・パープル期に培ったブルース基調のハードロックにバロック音楽の構成を融合させたハードロックの代表的なギターリストとなり、バンド・サウンドは後に訪れる重要なギター・リフとビートのヘヴィメタルの時代の基礎を築き上げたとされている。そのとき、そのときの商業音楽にあわせてアップデイトしていく音楽だったので、アルバム毎にドラマー、シンガー、キーボーディストを変えられている。アメリカ北東部出身のミュージシャンである、"Straight Between The Eyes"から参加した、デイヴ・ローゼンサルと、"Bent Out of Shape"から参加したチャック・バーギのふたりは1990年以来、Billy Joel Bandの一員として活躍している。そもそものきっかけは、1974年の8月に録音が開始されたディープ・パープルの『嵐の使者』の制作中に表面化した、他メンバーとの音楽的な対立とされている。リッチー・ブラックモアは、クォーターマスの「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)という曲の録音を希望したが、カバー曲であるなどの理由で、ディープ・パープルのメンバーから拒否されていた。だが、アルバムの録音後に予定されていたアメリカ・ツアーが中止となって時間的な余裕が生じたため、リッチー・ブラックモアはかねてより気に入っていたアメリカのバンド「エルフ」のボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオを起用して同曲を録音、さらにロニー・ジェイムズ・ディオとの共作である「16世紀のグリーン・スリーブス」(Sixteenth Century Greensleeves)も合わせて録音した。当初はこの2曲でソロ・シングルを制作する予定だったが、リッチー・ブラックモアはこの2曲の出来の良さを気に入り、エルフを吸収する形で新しいバンドを結成することを企図した。1975年2月 - 3月、ミュンヘンのミュージックランド・スタジオにて、ギタリストを除くエルフのメンバー全員とアルバム用の曲を録音。4月7日のパリ公演を最後にリッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退(ただし公式発表は6月)。8月10日、オイスター・レコードより、当時のバンド名と同名のアルバム『Ritchie Blackmore's Rainbow/邦題=銀嶺の覇者』をリリース、デビューに至る。RAINBOW#1(1975年5月 - 1975年9月)RAINBOW#2(1975年9月 - 1977年2月)RAINBOW#3(1977年5月 - 1977年7月)RAINBOW#4(1977年7月 - 1978年11月)RAINBOW#5(1979年4月 - 1980年8月) 出来上がったテープをもとに、フランスでレコーディング中に、新しいヴォーカリストのオーディションが行なわれて、1960年代にマーブルズで異彩を放ったシンガーのグラハム・ボネットがヴォーカリストに決定する前には、マーク・ストラーチェが選考されていた。(マーク・ストラーチェはこのあとすぐに、クロークスのシンガーとなる。)ストラーチェが新しいラインに乗らないとみるや、ボネットが迎えられてレコーディングが行われた。同年7月(日本では9月)、アルバム『ダウン・トゥ・アース』をリリース。 9月からワールド・ツアーを催行した。日本では1980年5月に公演を行なった。既に「ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)」紙上で脱退を表明したドラマーのコージー・パウエルの最後のコンサートが8月16日にロンドン郊外のドニントン・パークでの「モンスターズ・オブ・ロック()で行われた。演奏された「Stargazer」は、1980年11月にポリドール・レコード編集のオムニバス『Monsters of Rock』に収録、そして30年以上の時を経て発表されたライブアルバム『モンスターズ・オブ・ロック〜ライヴ・アット・ドニントン1980』に、現存する全編が収録された。RAINBOW#6(1980年8月 - 1980年11月)RAINBOW#7(1980年11月 - 1981年11月)RAINBOW#8(1981年11月 - 1983年6月)RAINBOW#9(1983年6月 - 1984年3月)RAINBOW#10-#12(1994年4月- 1997年5月)RAINBOW#13(2016年6月)新バンドの発足以降、リッチー・ブラックモアは音楽誌のインタビューなどで度々「自分はレインボーの1/5」であると主張していた。だが実際はデビュー時のバンド名とアルバム・タイトルにリッチー・ブラックモアの名前を冠したことから、周囲の人間や多くのファンはブラックモア中心のソロ・プロジェクトとして捉えた。バンドの音楽性もブラックモアの嗜好の変遷と共に方向を変え、そうした中でメンバーは次々と交代を繰り返していった。しかし、バンド名をブラックモアズ・レインボーとしたセカンドアルバムにおいては、アメリカ人ボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオと、コージー・パウエルのパワフルなドラミングという強力なユニットの力を得、ブラックモアの当初の理想であった「中世様式美系ハードロック」がある程度完成したとされ、ワンマンバンドから3人の強力なメンバーを擁したバンドとして評価されるようになった。この三頭時代で発表したスタジオ・アルバム2枚、ライブ・アルバム1枚(加えて後年発表されたビデオ『Live in Munich 1977』)は、質的にも高いアルバム/ライヴ・パフォーマンスとして評価され、日本やヨーロッパでは高い人気を博した。しかし、最大の市場であるアメリカでの売上は思うように伸びなかった。この状況を見たブラックモアは、アメリカのリスナーの嗜好にあうより現代的でストレートなハードロック路線への転換を主張し始め、同意できなかったロニー・ジェイムズ・ディオは脱退していった。そこで新たなボーカリストとして、ディオとはキャラクターも音楽性も異なるグラハム・ボネットが加入。元ディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーもプロデュースや曲作りに参加(途中からベーシストとしても参加)し、ポップセンスを効かせた佳曲揃いのアルバム『ダウン・トゥ・アース』を発表した。このアルバムからはヒット曲も生まれ、以前よりアメリカでの人気がいくぶん盛り上がったが、その音楽性の変質に、今度はドラマーのコージー・パウエルが不満を抱き脱退。友人のパウエルの脱退に触発される形でボネットも脱退した(なお、ブラックモアは最後までボネットのショート・カットの髪とスーツ姿を気に入らず、彼の頭をギターで殴ったなどという伝説も残っている)。アメリカのバンド、ファンダンゴ()に在籍していたアメリカ人ボーカリスト、ジョー・リン・ターナーがボネットに代わって加入し、よりアメリカ市場を意識し、ポップセンスをさらに先鋭化させた『アイ・サレンダー』を発表。バンドの音楽性の変化は賛否両論あり、アメリカでの売上は期待された程伸びなかったが、日本では発売約半年後の来日時点で、発売元のポリドールがゴールドディスクに認定するなど、従来の高い人気を保っていた。アルバムツアー終了後、ドン・エイリーが方向性の相違から脱退。8枚目のアルバム『ストリート・オブ・ドリームス』の発売と1984年3月の日本公演を最後に活動を休止。これは、リッチー・ブラックモアとロジャー・グローヴァーがディープ・パープルの再結成に参加するためであった。その後、約10年にわたりディープ・パープルで活動するが1993年に脱退し、ドゥギー・ホワイトなど新たなメンバーでバンドを結成。グループ名を「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」と名乗った。しかし、このバンドはアルバムを1枚発表したのみで再び活動を停止。2015年7月、ブラックモアズ・ナイトで活動中だったリッチー・ブラックモアは、翌年6月にレインボー名義でライブ公演を開催すると明言。同11月、オフィシャル・ラインナップを公表。2016年6月、ドイツと本国イングランドで全3回のライブ公演を実施。リッチーは「反応次第では、まだ継続する可能性がある」と含みを残した。ギタリストは全時期を通じてリッチー・ブラックモア。それ以外のメンバーは以下の様に変遷している。1st.『銀嶺の覇者』 - "RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW"2nd.『虹を翔る覇者』 - "RAINBOW RISING"3rd.『バビロンの城門』 - "LONG LIVE ROCK'N'ROLL"4th.『ダウン・トゥ・アース』 - "DOWN TO EARTH"5th.『アイ・サレンダー』-"DIFFICULT TO CURE"6th.『闇からの一撃』-"STRAIGHT BETWEEN THE EYES"7th.『ストリート・オブ・ドリームス』-"BENT OUT OF SHAPE"1995年 『孤高のストレンジャー』-"STRANGER IN US ALL"1978年1月27日、彼らの2度目の来日公演の際、札幌中島スポーツセンターで行われたコンサートに於いて観客が死亡する事故が発生した。約5,000人の聴衆が詰め掛けていた同会場で、前座バンドの四人囃子の演奏が終わり約1時間後に本公演が始まると、時間の遅れにしびれを切らしていた聴衆はステージ前方に殺到し(当時は指定席でも演奏が始まると前方に駆け出したり詰めかけたりすることが許されていた)、その下敷きとなった当時19歳の女子大生が胸部圧迫のため死亡した。現場は大混乱となったが、警察からバンド側への演奏一時中止の要請は届かなかったという。この事故は当時大きくニュースで取り上げられ、その後の日本のロック・コンサート会場の警備体制を大きく変更する契機になった。後日、リーダーのリッチー・ブラックモアは遺族に対し500万円の見舞金を送っている。デビュー当時の彼らの呼び物の一つとして、「虹」をかたどった照明システムが挙げられる。元のアイデアはリッチーがディープ・パープルに在籍していた時からあったと言われる。たしかに1974年のカリフォルニア・ジャムでのコンサートでも、似たようなデザインが使われているのが映像でも確認できる(電飾は施されていない。ただしこの「虹」はエマーソン・レイク・アンド・パーマーの演奏の時にも設置されている(「Beyond The Beginning」で確認できる)。詳細は不明)。レインボーでの「虹」は、約10万ドルの費用を掛けて作られた巨大なもので、高さ29ft(約9m)、幅40ft(約12m)で約3,000個の電球を使用し、輸送を考慮して4分割できるようになっていた。コンピュータによって光の流れ、色合いを制御しステージ演出に大きな効果を生んだ。ただし、この「虹」は分割出来るとはいえその質量の多さからくる輸送費は勿論、コンピュータ制御するための技術者(オペレーター)の人件費などの経費は膨大な額に登り、1976年のRISINGツアー以前(アメリカを中心としたツアー)では赤字続きだったという。またギター、ベース、キーボード等の電子楽器の音にノイズが発生し易くなる等の悪影響もあったそうである。(トニー・カレイは使用しているメロトロンの音に大きなノイズが入ることを抗議し、メロトロンを使用する曲では「虹」への電力が抑えられていた)グラハム・ボネット加入時の1979年9月USツアーから、「虹」は引退。理由は『リッチーが虹に対して脅威を感じ、観客の多くはステージを観ずに虹を観ていたから。』1982年頃からのライヴでは「虹」に変わり『Straight Between The Eyes』のジャケットアートをイメージした様な、闇に浮かぶ巨大な電光の眼が使われるようになった。ライヴのオープニングでは映画『オズの魔法使い』のセリフ(「We must be over the rainbow」)のリフレインと共にリッチーが同映画の主題歌「虹の彼方に」のフレーズを弾いて始まるのが定番となっていた。(グラハム・ボネット在籍時のRAINBOW#5(1979年4月 - 1980年8月)では「虹の彼方に」のイントロは演奏されなかった。)1979年1月27日放送の向田邦子原作脚本のNHKのドラマ「阿修羅のごとく」第4話で、Gates Of Babylon が挿入曲として使用されている。
出典:wikipedia
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