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クラフトワーク

クラフトワーク( クラフトヴェルク・クラフトヴェァク、発電所の意)は、ドイツの電子音楽グループマルチメディア・エレクトロニック・プロジェクトである。長年に渡り多くのアーティスト達にも多様な影響を与え、ニューヨーク・タイムズは「エレクトロニック・ダンス・ミュージックのビートルズ (the Beatles Of Electronic Dance Music)」と評している。1960年代半ば、西ドイツのデュッセルドルフ近郊 レムシャイトの芸術アカデミーでクラシック音楽の教育を受けていたラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダーがデュッセルドルフ音楽院の即興音楽クラスで出会い、インダストリアル・ミュージックへの関心からジャム・プロジェクトOrganisation等を経て1970年に結成する。当時、英米によってもたらされた文化や音楽に安易に染まる事を良しとしなかったクラウトロック(ジャーマン・ロック)の一グループであった彼等は戦後育ちのドイツ人としての自覚を強く持っており、ケルン出身のバンドカンとも親交があった(カンの初公演はクラフトワークの楽器を借りて行われた)。東ドイツのデューナモ・ドレスデン(ドレスデンの発電機、Dynamoの名称は総合スポーツクラブに用いられた)というサッカークラブの名前に触発されグループ名もあくまでドイツ語で表現している。リズム・マシンやオルガン、電気フルート等を使った彼ら初期のインダストリアルで即興・実験的な作風はバズコックスやスージー・アンド・ザ・バンシーズ にも影響を与えた。当時の主な演奏会場は大学や美術館などであった。幾度かのメンバーチェンジを経るも、結局ラルフとフローリアンが中心になり3枚のアルバムを制作する。アルバムジャケットのデザインを自ら手掛ける他、楽器の改造・開発等、グループ初期から現在に至るまでのDIY精神はこのグループを知る上で欠かせない特徴と言える。この時期のメンバーで、脱退したクラウス・ディンガーとミヒャエル・ローター(続けて加入するヴォルフガング・フリューアと以前同じバンドのメンバーであった)は後のクラフトワークとは別の方向性で同じ工業都市デュッセルドルフの一面を表現しクラウトロックを代表するグループの一つとなるノイ!を結成する事になる。この時代の楽曲は70年代半ばを過ぎてからは全く演奏されなくなり、正規版のCDも存在しない。初期の活動で得られた資金を投入し手に入れたミニモーグを使用し、新メンバーヴォルフガング・フリューアは自作の電子パーカッション等を駆使し、以前の音楽を新たなる次元に昇華させた1974年発表の4枚目のアルバム『アウトバーン』が英米でヒット。とりわけ同名のシングル曲はそれまでの多くのミュージシャンがシンセサイザーを観念・瞑想的な音楽に使用したり楽曲の添え物として使用していた方法とは大きく異なり、全長20分を越し部分的には幾分瞑想的ではあるが即物的でありながらもあくまでもそれ自体を主体としたポップ・ミュージックという手法による一つの完成型と言える物となった。フローリアンの知人の音楽学校教授の生徒であり、クラシック畑の様々な仕事をこなしていたカール・バルトスも加わりアメリカ横断ツアーも行われた(カール自身の言でもあるが以後のクラフトワークの楽曲の主な特徴としてファンキーなリズム、ミュジーク・コンクレート、ポップ・ミュージックのミックスが挙げられる)。英国でも行われた当時のライヴ演奏の後 興奮の余り楽屋に訪れたという若き日のオーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダーク等、初期のクラフトワークの他のグループへの影響以上に知られている事だが主にエレ・ポップ、シンセ・ポップとしてのニュー・ウェーヴやニューロマンティックと呼ばれるミュージシャン達にも大きな影響を与えた。独創的なステージングも注目され、当時からクラフトワークの熱狂的なファンであり、後に彼らと親交を持ちスタジオ・ワークによる創造的絶頂をベルリン三部作で迎えたデビッド・ボウイがコンサートの最前列席を買い占めた事や、イアン・カーティスが愛好していた事がジョイ・ディヴィジョンの使用機材や後のニュー・オーダーの音楽性に影響を与えた事等も知られている。既に自らのスタジオKLING KLANGを構えており、初期の頃からの協力者であったコニー・プランクから独立したクラフトワークは自らの成功によって経験した出来事等にインスピレーションを得た作品を次々と発表する(例えば自分たちの音楽がラジオで流された事やインタビューを自身に似せたロボットに受けさせるという空想等々)。特に翌年に発表された5枚目のアルバム『放射能』(、)以降、彼らのほぼ全てのアルバムは作品毎に何らかのコンセプトをヴィジュアルと合わせて提示しているのが特徴であり、感情を感じさせない無機的で禁欲的な謎めいた印象も彼らの意図した通りに確立された。これは同時期に興っていたパンク・ムーヴメントへのアンチテーゼであるとも言われ、また衝動的なパンクと大作主義的なプログレの中間であると考える者もいる。ヴィジュアルや歌詞等のイメージに関してはアウトバーン以前からのステージには出ないメンバーであった詩人で画家のエミール・シュルトの貢献は大きく、当時のヴィジュアル・コンセプトには表現主義や大戦によって中断された1930年代のドイツ・モダニズムやエル・リシツキー等ロシア構成主義を意識した物などがある。アルバム『人間解体』では赤と黒を基調としたイメージがナチズムを連想させながらも東側を向いている事や楽曲『コンピューター・ワールド』に於ける歌詞などが政治的にも多様な物と捉えられた 。尚後年のラルフを筆頭にしたサイクリングへの高い関心もスタミナのあったエミールに教えられた事がきっかけであった。作品発表のペースからしても。現在に至るまでのライヴの定番曲の多くもこの時期に生み出されたものである。日本では1978年発表の7作目のアルバム『人間解体』によってディーヴォとともにテクノポップを成立させるきっかけとなり、イエロー・マジック・オーケストラに於いてはアウトバーン以前の頃から関心を持っていた坂本龍一による他のメンバーへの紹介により結成当初のコンセプトに影響を与える事となる。テレックスのダン・ラックスマンは、最初にクラフトワークのアナログシンセサイザーによるドラムの音に惹かれたと語り、デビュー以前に『人間解体』に衝撃を受け、彼らに一目置いていたU2のボノは2011年に公開されたドキュメンタリー映画フロム・ザ・スカイ・ダウンで彼らの方向転換的大作として知られるアルバムアクトン・ベイビーの制作当時、クラフトワークからの影響があったと明し、ジ・エッジは「リズムを学ぶ上で彼等は無視できない」と発言した。1981年の8作目のアルバム『コンピューター・ワールド』の発表に伴い、頭にターバンを巻いた観客達をも熱狂させたインド公演等を含む初の大規模なワールド・ツアーを敢行する(初来日公演も果たす)。以前に比べ活動が表面的には停滞していく傍ら、1982年には以前ヒップホップを定義したアフリカ・バンバータがクラフトワークの曲を当初無断で利用して「エレクトロ・ファンク」という新しいサウンドを生み出す。特に楽曲『ヨーロッパ特急』の一部が取り入れられたPlanet Rockはローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500の半ばにランクインする等、ヒップ・ホップファン以外からも非常に高く評価されている。更に同時期ホアン・アトキンスが若きデリック・メイにクラフトワークとイエロー・マジック・オーケストラを教え、影響を与えた事がハウス・ミュージックに対するよりスピリチュアルなアティチュードを表すテクノ(デトロイト・テクノ)の起源となる等、黒人ミュージシャン達が生み出した新しい音楽ジャンルへの思わぬ影響によってダンス・ミュージックを含めたクラブ・カルチャーからもリスペクトされる様になり、以後クラフトワークも少なからず音楽的にその影響を受ける様になる。これにより元々高かったラルフの国際感覚も一層高いものになっていった。これら米英のテクノミュージシャン達とのコラボレーションは後のExpo 2000のリミックスやライヴヴァージョンでのリ・リミックスで果たされる。コンピューター・ワールド・ツアーの経験から、彼等は長期的なツアーをより逞しくこなす為の体力作りにベジタリアニズムやサイクリング(やがて生死の境目を彷徨う事故にまで繋がってしまったラルフの熱中ぶりは他のメンバーを遥かに凌いでいた)を始めた。これら新たな経験や有名な自転車競技大会から着想された楽曲ツール・ド・フランスが映画ブレイクダンスで使用されアメリカでヒットする。ほとんど知られていない事だが音楽業界の各所にいた何らかの形でクラフトワークの協力を欲していた人間の一人に彼等の大ファンであったマイケル・ジャクソンがいた。マイケルにザ・マン・マシーンのオリジナル・マルチ・トラックの使用を申し込まれたがグループのスポークスマンであるラルフはマイケルの生前、それを正式には認めなかった。余談だがニューヨークにマイケルが所有していたビルに招かれたラルフは「マイケルの“フェイク”が3人も4人も存在し、クラフトワークよりもクラフトワークらしかった」と語った。現在クラフトワークの音楽はジェームス・ブラウンに次いで最もDJ用のレコードにサンプリングされていると言われて久しいものの、新しいアルバムの発表とツアー、その他新たな試みに飢えていたヴォルフガングとカールは苦悩しつつも80年代末と90年にグループから離脱してしまう(グループの実権を握っていたのはあくまでも創立者であり所謂マネージャーを持とうとはしないラルフとフローリアンであった)。しかしながら自身のソロ公演でクラフトワークに在籍した頃に作曲した曲を現在でも演奏するカールはグループ脱退後もラルフとフローリアンを尊敬しており、先述した様に多くのアーティストとのまたと無い様なコラボレーションのチャンスをことごとく拒絶した事を「打ち解けない連中」とも「ドラマチック」とも表現した。一方ウォルフガングは後に自身の半生と共にクラフトワークでの日々を綴った「ICH WAR EIN ROBOTER (クラフトワーク ロボット時代)」を発表。内容を巡りラルフ・フローリアンと訴訟沙汰にまでなる(もっとも、彼自身についても赤裸々に描かれているが)。ファンにとってはプライベートの詳細をほとんど語らないクラフトワークを知る為の貴重な情報源ともなった(彼らのパブリック・イメージを信じていたファンにとっては少なからず抵抗もあったようである)。電気音楽~打ち込み音楽の祖であり頂点、という評価がゆるぎないものとなったクラフトワークはライヴ・パフォーマンスでの2人の穴埋めを最終的にKLING KLANGで以前から働いていたエンジニアであったフリッツ・ヒルパートとヘニング・シュミッツとし、その後も1992年にセラフィールド核燃料再処理工場に反対する野外イベントに出演。1998年のワールド・ツアー(二度目の来日公演も果たす)等の活動の他、世界中のいくつもの音楽フェスティバルでヘッドライナーを現在まで務め続ける事になった。90年代、THE MIXの様な過去の曲の新アレンジやクラブミュージックに影響を受けた新たな曲を演奏してはいたものの完全な新作アルバムとしては結実してはいなかった。しかし2000年代に入りシングルExpo 2000がドイツハノーファー万博のテーマ曲として、2003年には完全なオリジナルアルバムとしては17年ぶりとなる11作目のアルバム『ツール・ド・フランス (アルバム)』がツール・ド・フランス100年記念として発表された(同名シングルのリテイクも収録された)。。これに伴い再び大きく注目された新生クラフトワーク(下記演奏・舞台形態の変化も参照)としてのワールド・ツアーも行われ、その様子が日本での演奏も含めた初の公式ライヴ盤『ミニマム・マキシマム』に収録される。ライヴ活動を続ける中、2009年に突然 ラルフを除く最後のオリジナルメンバーであるフローリアンの脱退が報じられた。ラルフは今後の彼にエールを送るが40年来に渡る長年のコンビが解消された事に多くのファンが衝撃を受ける。フローリアン脱退後の初めてのライヴがマンチェスターで行われた際、ツール・ド・フランスの演奏に伴いGreat Britain (GB) Cycling Team(オリンピックやツール・ド・フランスに出場経験のある自転車レーサー達からなる団体)のメンバーが設置されたステージの周囲にあるコースを周回し続けるという特殊なイベントが催された。あたかもフローリアン無きラルフを励ますかのようにレーサー達が走り観客が熱狂する中、ツール・ド・フランス-エタップ2の自転車レースの熱狂を伝える記号的に構成された歌詞をラルフが口ずさむ際、デビュー以来ほぼ一貫して公の場で感情を表さなかったラルフが涙を堪える様に声を詰まらせ、隣にいたヘニングが頷いた様子が伝えられた。フローリアンの代わりには主にスクリーン映像を担当するシュテファン・プファフェがステージに立つ事になった。クラフトワークの活動は現在も継続中である。その他、1990年代から現在に至るまで、思想、過去の楽曲、ヴィジュアル・コンセプト、ヴィデオ、ライヴ・パフォーマンスのスタイル等のアイディアの影響を、レディオヘッドやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ,システム・オブ・ア・ダウン,コールドプレイ,ダフト・パンク,ドクター・ドレー,フランツ・フェルディナンド,デュラン・デュラン、ケミカル・ブラザーズ,エイフェックス・ツイン,LCDサウンドシステム,デジタリズム,LFO,電気グルーヴなど分野・表現の種を問わない長期的な影響力を持ち続けている。なお、70年代から現在に至るまでに彼らの音楽が映画に度々使用されているが個性的な手法や明確な主題を持たない映像作品では彼らの音楽の存在感との相性が良くない、適合性を持ち得ない為か決して乱用はされない。ちなみに、日本のテレビ番組等でBGMとして使用される際は、アウトバーン以後のものしか使われず、クイズや統計を表示する映像等、思考力が求められる様な場面での使用が非常に多い。コンピューター・ワールド・ツアーに見られるシンセサイザーが「巨大な箱」だった時代のコンサートなどでの演奏風景では、ステージに所狭しと並べられた機材が印象的であったが、パリで2002年9月に開かれたシテ・ド・ラ・ミュージックのライブ以降、各人の前にノートPC (VAIO) が載る小さな卓があるのみで演奏はスタインバーグ社製のデジタルオーディオワークステーション (DAW) ソフト・Cubaseによって楽曲をリアルタイムでコントロールしバックには映像を投影するというスタイルになっている。主な楽曲はクラブミュージックに接近する以前、以後のアレンジもしくはそれらを混ぜた物が演奏される。結成当初から彼らの活動の重要な要素だったヴィジュアル・コンセプトを見せる映像は年々重要性を増しており(特に2002年以降は彼らの第一印象をも刷新した)、近年は観客が専用メガネを使用してステージを鑑賞する3Dコンサートが世界各地で開催され絶賛を博している。
※以上3枚は現在正規盤ではリリースされておらず入手困難。ラルフ曰く「否定はしないが過去の事をあまり語りはしない」。フローリアン「過去の遺物」。なお、『放射能』以降の楽曲は一部を除き一般バージョンの英語版とドイツ語圏向けのドイツ語バージョンの2種類が存在する。そのため、同じアルバムでも基本的に英・独2バージョンリリースされる(『ツール・ド・フランス』は1バージョンのみ)。例外として「ポケットカルキュレーター」(『コンピューター・ワールド』収録)のように英・独・仏・日の4カ国語や「ショウルーム・ダミー」(『ヨーロッパ特急』収録)の英・独・仏の3カ国語、「セックスオブジェクト」(『エレクトリック・カフェ』収録)の英・独とスペイン版初回限定で収録されたスペイン語版の3カ国語、1983年に出たシングル「ツール・ド・フランス」(日本未発売)の独語とタイトルにちなんだ仏語の2カ国語といった例外もある(ツール~は現在仏語のみ歌われている)。特殊なバージョン違いの例としては、通常6曲収録である1986年のアルバム『エレクトリック・カフェ』は、韓国版のみ儒教社会に与える影響を考慮して「セックス・オブジェクト」をカットした全5曲収録としてリリースしている。『ミニマム・マキシマム』CDは台湾でも帯付の現地盤として発売されたがアーティスト名は「電力站樂團」と標記されている。

出典:wikipedia

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