鎌倉山(かまくらやま)は、神奈川県鎌倉市深沢地域にある大字。現行行政地名は鎌倉山一丁目から鎌倉山四丁目。住居表示実施。郵便番号248-0031。鎌倉市西部に位置する。北は笛田、西は手広・腰越・津、南は七里ヶ浜・稲村ヶ崎、東は極楽寺と接する。山という地名がつけられているが、標高100m程度の丘陵である。ほぼ全域が山林となっているが、道路沿いを中心に住宅が点在している。鎌倉山内の主要な道路には多数の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。桜の開花シーズンともなると、桜を見に来るハイキング客でにぎわうようになる。また鎌倉山神社がある山頂付近からは、七里ヶ浜の海、江ノ島、逗子マリーナや三浦アルプスなどを見渡すこともできる。このあたりからは、極楽寺方面と稲村ガ崎へ抜ける山道も存在し、以前は鎌倉から手広方面へ抜ける近道としても重用されていたが、昭和30年代頃に周辺の交通路が整備された事によって使われなくなり、現在は廃れている。(通行は可能)逸話 http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/yomichi.html鎌倉山には国道・県道は通っておらず、市道大船西鎌倉線(旧京浜急行自動車専用道)と、神奈川県道32号藤沢鎌倉線常磐口交差点より笛田を経由して市道大船・西鎌倉線へ合流する約3kmほどの市道(さくら道)が主要な道路となっている。市道大船・西鎌倉線とさくら道との交点には「鎌倉山ロータリー」と呼ばれるロータリー式交差点が設置されている。住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、鎌倉山3-16-24の地点で18万円/mとなっている。鎌倉山という名前がみえる最も古い史料は万葉集に収録された歌とされている。その後も平安時代・鎌倉時代にかけて「鎌倉山」という名称が様々な史料に登場するが、これらの鎌倉山はあくまでも「鎌倉の山」という意味で使われており特定の山を指す物ではない。この地を限定して「鎌倉山」と呼ぶようになるのは昭和初期、実業家の菅原通濟が深沢村(現鎌倉市深沢地域)裏の丘陵を「鎌倉山」となづけ別荘地として開拓して以降の事である。大正15年に「大船-江の島自動車専用道路」建設が政府から許可されると、菅原らを役員に日本自動車道株式会社が設立され、副業として沿線地の開発が始められた。菅原がドイツ人の貿易商クルト・マイスナーからこの丘陵からの景観がいいことを教えられ、別荘地開発に着手、昭和4年(1929年)に分譲が開始された。当時の大字としては笛田および腰越・津に跨る地域である。電線の地中化など高価格となるような施設工事は行われること無く、坪単価は安かったが、分譲にあたっては「大船~鎌倉山~江ノ島間を結ぶ自動車専用有料道路による東京への好アクセス」、「上水道・電気・電話完備」など便利さを強調し、さらに最低分譲区画を500坪とし、「高級別荘地」である事をアピールした。こうした高級感を強調した売り込みが功を奏し、近衛文麿、藤原義江など政財界・芸能界の著名人の一部が別荘を買い求めた。しかし、彼らは別荘地を所有する「鎌倉山住宅株式会社」の株主であり、それ以外の一般の分譲販売はまったく振るわず、ほどなくして同社は倒産、負債整理のため箱根土地株式会社から西武へと転売された。戦後、別荘の多くが進駐軍に接収されてさびれたが、高度成長期以降に住宅地として再開発された。1985年には笛田、腰越・津から分離し、鎌倉山一~四丁目として住居表示を実施した。鎌倉山ロータリー付近の鎌倉山バス停より鎌倉駅方面・大船駅方面・江ノ島方面へ向かう京浜急行バスがでている。また、付近を湘南モノレールが走行している。建設にあたっては鎌倉山付近を経由する予定だったが、当時の付近住民の反対によりトンネル通過になり鎌倉山エリアに駅はない。最寄りの駅は西鎌倉駅になる。檑亭関係者の話では、檑亭がみのに売った土地は山椒洞の庭園部分であり、建物取り壊しは檑亭の経営的理由という。みのもんたと同夫人(御法川 靖子)が主導して取り壊したわけではない。
出典:wikipedia
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