LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

中曽根康弘

中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年(大正7年)5月27日 - )は、日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)などを歴任した。対米関係上の愛称は「ヤス」。衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。現職は財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。群馬県出身。東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省する。海軍短期現役制度で戦時中に海軍主計将校に転じるも、終戦後には内務省に再勤する。退官後、衆議院議員に当選。以来、中曽根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、1982年(昭和57年)から1987年(昭和62年)にかけて内閣総理大臣を務める。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を達成した事績が特に知られる。またアメリカのロナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と呼ばれる信頼関係を構築して日米安全保障体制の強化にも努めた。2004年(平成16年)7月19日に鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者となり、昭和時代の歴代総理大臣の中で最後の存命者となった。歴代総理大臣の中では東久邇宮稔彦王(死去時102歳48日)に次ぐ長寿の首相経験者であり、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては最高齢である。公称身長178cmであり、歴代の内閣総理大臣では2位の長身と言われている(1位は大隈重信の公称180cm)。血液型はO型。群馬県高崎市に材木商・中曽根松五郎の二男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタールもあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという。地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇や小沢辰男、大村襄治らがいた。短期現役制度に応募し、1941年(昭和16年)8月に海軍経理学校にて初任教育を受け、海軍主計中尉に任官。海軍主計科士官となって連合艦隊に配属されると、第一艦隊第六戦隊の旗艦である巡洋艦青葉に乗艦し、高知県の土佐湾沖の太平洋上で猛訓練を受けた。同年11月20日に転勤命令が下り、広島県呉市の司令部に緊急配属されると、第二設営隊の主計長に任命され、参謀長より、工員2000名に多少の陸戦隊をつけて、敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにしろとの命令を受ける。この時の目的地と物資の量は「蘭印(インドネシア)3か月分、比島(フィリピン)3か月分」だった。それから出航する29日までは、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。29日は予定通り、14隻の船団で出航、中曽根は「台東丸」に乗船した。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、後で自らの部屋である主計長室にその男を呼んだ。そして、やってきた古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、人心掌握に努めた。1941年12月7日に太平洋戦争に突入すると、最初はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島のダバオに敵前上陸することとなる。上陸戦闘は獰猛なモロ族と闘い、アメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の猛爆撃を受けた。また明け方近くになると、決まってB-17がやってきたという。次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。そしてようやくバリクパパンの湾に入って上陸しようとしたら、オランダとイギリスの巡洋艦から、いきなり攻撃を受けてしまう。こちらには軽巡洋艦「神通」がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は、あっという間に撃沈されてしまい、さらに接近してきた敵艦から副砲や機関銃で攻撃され、それが船尾に当たり火災が発生してしまう。消火班長でもある中曽根は飛んでいって火消しを行うが、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、手や足が吹っ飛んでいるもの、血だるまになり「助けてくれ」とうめくもの。そしてどこからか「古田班長がやられている」という声に誘われて行ってみると、古田が誰かに背負われていた。足は砲弾にやられて皮一枚でようやくつながっており、中曽根に「隊長、すまねえ」とだけいうと、すぐに息を引き取った。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの波が打ち寄せる海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。1月24日の本海戦はバリクパパン沖海戦と呼称され、護衛艦隊旗艦は「神通」(第二水雷戦隊旗艦)ではなく同型艦の軽巡洋艦「那珂」(第四水雷戦隊司令官西村祥治少将)、泊地に突入してきた敵艦はオランダ・イギリス巡洋艦ではなくアメリカ海軍の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ)、沈没艦は潜水艦により輸送船1隻、米海軍駆逐艦により輸送船3隻と哨戒艇1隻で、船尾に被弾した輸送船は「朝日山丸」(死傷者約50名)、マカッサル海峡で沈んだ輸送船は空襲による「南阿丸」1隻である。中曽根はその後も主計科士官として従軍し1944年10月の「捷一号作戦」(いわゆる「レイテ沖海戦」)には戦艦「長門」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。終戦時の階級は海軍主計少佐であった。首相就任後、戦争に関しては1985年10月29日衆議院予算委員会での東中光雄委員との質疑応答において、皇国史観には賛成しない、東京裁判史観は正当ではない、対米英と対中対アジアで認識が異なる、国民の大多数は祖国防衛のために戦い、一部は反植民地主義、アジア解放のために戦ったと4点をあげた。さらに中国、アジアに対しては侵略戦争だったが、アメリカ、イギリスとは普通の戦争だった、中国、アジアには侵略、韓国には併合という帝国主義的行為を行ったので反省し詫びるべきと答えた。また政界引退後の『新潮45』のインタビューでは「帝国主義の膨張による侵略であった。」と述べるなど、自由主義史観論者とは一線を画すタカ派らしからぬ歴史観を披露している。戦後、内務省に復帰し 内務大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視・監察官を務める。その後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年の保守合同までの所属政党は、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党。この間、反吉田茂勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。1954年3月2日、一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている)。1955年の保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いた。1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行なったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったりしたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった。初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正や首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には福井県の九頭竜ダム建設をめぐる落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』は、行政管理庁長官時代の1980年に行われた総選挙においても、富士通や日本製作所から違法献金を受け取ったと報じた。第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣で防衛庁長官を歴任する。運輸大臣として入閣した際には、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。防衛庁長官時代には、1970年に防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが、3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際に、中曽根は防衛庁長官として「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」と発言し、海原も出席していた議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)。1972年の殖産住宅事件では、株取得で証人喚問される。翌年に脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人であったため、親友も見殺しにすると囁かれた。こうして要職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」(三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫、そして中曽根)の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていたことなどから、自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、田中の買収などと後に週刊誌で憶測を呼ぶことにもなった。第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり、第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。1976年、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。1978年に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、第1次大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否した。非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず、早くから本会議での造反に反対するなど、三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ、鈴木善幸首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、派の後輩の渡辺美智雄にその座を奪われるという屈辱を味わう。しかし、財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化などの答申をすることになる土光敏夫の信頼も得ることになった。1982年11月の自民党総裁選で、盟友の渡邉恒雄は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党党員という繋がりがあった。田中派の支持も得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年11月に鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任する。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ1987年まで一国の総理の座にあり、小泉内閣に次ぐ歴代第4位の長期政権となった。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。ただし政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。これは1983年10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出した後に行われた同年12月の総選挙(田中判決選挙)での自民党過半数割れへとつながり、中曽根は新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一を自治大臣兼国家公安委員会委員長として迎える苦渋を味わった。1984年には福田赳夫元首相に野党の公明党や民社党まで加わった「二階堂擁立構想」まで持ち出されたが、1985年2月に田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年7月の衆院選と参院選で自民党を圧勝させた。衆院選での公認候補300議席は当時単独政党では戦後最多であり、これに追加公認4人、さらに開票直後に解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった。参院選での72人当選(追加公認2人)、非改選議員と合わせた所属議員数145人も自民党史上最多であった。中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。なお、この選挙期間中の街頭演説で、「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言した。1985年8月の日航機墜落事故において「真実は墓場まで持って行く」と発言した。一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。ただし教育改革については、当時の受験戦争を憂慮して、自身の私的諮問機関である臨教審に日教組元委員長の槙枝元文を入れたことが、1988年に内示されたいわゆる「ゆとり教育」につながったという見方も存在している。政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎、西義之、佐藤誠三郎など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より、中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。1986年に発生した伊豆大島の三原山噴火では、首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年の阪神淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。一方、広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」などの失言で物議を醸すことも多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。首相在任中2度あった総選挙(1983年と1986年)では、現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制であり、2位当選している)。これは戦後の首相では中曽根だけである。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった、日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲や石橋湛山、海部俊樹の例がある)。ハイテク景気やバブル景気といった好景気を演出し、支持率もおおむね高水準を維持するとともに、任期後半には上記の通り田中の影響を脱した。好調すぎる高付加価値製品の対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブルにおいて横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネをめぐる問題が再び取りざたされるようになった。1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった。時代背景は、ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアがまったく無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。そして参議院本会議では、鈴木首相・宮澤喜一内閣官房長官と伊東正義外務大臣が日米同盟の解釈を巡って対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なることとなる。大村襄治防衛庁長官がワシントンでワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。おまけに伊東の後任である園田直外務大臣が、韓国との関係を損なう事件を起こす。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルの政府借款を要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、ビタ一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をして、韓国の反発を招いたものである。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ日韓関係の修復を図り、アメリカが御執心だった防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」及び「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した。一連の防衛力強化政策の仕上げとなったのは、中曽根政権が最後に編成した1987(昭和62)年度予算での「防衛費1%枠」撤廃だった。ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産 (GNP) の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取る向きもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy) と批判されることもある。また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したことから、アメリカの貿易赤字が増加したことに対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。ただし、中曽根自身が引き起こした日米間の懸案として、1986年9月に自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言したことから「知的水準発言問題」が起きた。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言したことは北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった。ワシントン・ポスト会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われたワシントン・ポストの外交記者ドン・オーバードーファーの質問に「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連のバックファイアー爆撃機の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを、通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳した。中曽根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否か、であった。だが、前向きな姿勢なのはアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。そして政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、またそのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長のための10項目からなる共同指針が示された。ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っていると言えよう。以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったが、中曽根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化に努めた。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曽根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曽根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)、当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曽根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としている。角福対立時代には一貫して日中国交回復支持の立場をとっていることから、中曽根の姿勢は中華人民共和国を親日化することが目的であったと言える。第二次対中円借款の実施、「新日中友好21世紀委員会」の設立、中華人民共和国からの留学生の多数受け入れと日本人青年の中国訪問事業もその一環であり、中曽根内閣当時の1984年から中国での沿海都市の経済特区指定も重なったこともあって日本の対中投資は本格化した。その後は上海交通大学の名誉教授にもなっている。また当時の中華人民共和国の鄧小平は、主敵はソビエト連邦であるとし、日米同盟や日本の防衛力整備を歓迎するコメントすら出してもいた。中曽根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義・新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社を民営化させた。これによって総評および総評を支持母体とする社会党を切り崩す意図があった。また、長年半官半民であった日本航空の完全民営化を推進させた。次第に国民からの支持も安定し、1986年の衆参同日選挙(死んだふり解散)では衆参ともに自民党史上最多獲得議席となる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。しかし、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策を採り、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともあり、批判の声も少なくない。同日選大勝後、中曽根にとって最悪の状態となった。藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も「黒人は知的水準が低い」「日本は単一民族」「女の子が書いた文章だから」などの失言が問題化し、さらに選挙中に「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及され、支持率が一時的に急落する。1987年4月の統一地方選で敗北し、翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に、下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。さらに、内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。このためNBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。しかし、夏を越すと支持率が復活し、同年11月に余力を持ったまま退任する。ニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちから、事実上の後継者指名権を得て(中曽根裁定)竹下を後継に指名した。中曽根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下がもっともふさわしいと判断したという。首相在任1806日は歴代6位(戦後4位)、中曽根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。1989年、自身が関与していた戦後最大の汚職事件と言われるリクルート事件が直撃した。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し、1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し、小沢一郎とともに海部俊樹を担ぐが失敗する。しかし、党からは貢献度を重視して不処分であった。鳩山由紀夫は事件を機に、政官財の癒着の解明を目指してユートピア政治研究会を党内で立ち上げ、中曽根らを糾弾した。その後、鳩山が新党さきがけを経て、1996年に「友愛」を掲げて旧民主党を創設した際、中曽根は「政治は友愛だの何だのと綺麗ごとを言うが中身がなく薄っぺらい。ソフトクリームのようにすぐ解けてしまうだろう。」と嘲笑したが、鳩山は「夏にはおいしい」と切り返し、政治理念を守り通して「友愛」がその年の流行語大賞となった。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫して主張した。1991年の湾岸戦争では中東特使に任じられ、当時のイラク大統領サダム・フセインと会談して日本人の人質全員解放を成功させた。1996年には小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに、比例北関東ブロックでの終身1位の保証を受ける。1997年2月に憲政史上4人目の議員在職50周年を迎え、同年4月に大勲位菊花大綬章を生前受章する。同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、ロッキード事件で有罪が確定したことを批判されて佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受けた。中曽根派が山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後、1999年に亀井静香や平沼赳夫率いる亀井グループと合併し志帥会となり、最高顧問に就任する。竹下、宮澤とともに本会議場の通称長老席と呼ばれる最後尾に陣取り3人が居眠りをしている写真が、老害の象徴として週刊誌や夕刊紙に取り上げられることもあった。2003年の自民党の比例区における73歳定年制導入により、2003年の総選挙では自民党の比例北関東ブロックからの出馬が出来ず、立候補を断念し衆議院議員から引退した(なお、比例名簿で終身比例名簿1位から退いたことで、比例当選最下位順位の早川忠孝が復活当選している)。中曽根は中選挙区制から小選挙区制への移行に際し、比例北関東ブロックにおける終身1位を約束されていた。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判があがり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁は中曽根と宮澤の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを小泉が一方的に破棄して中曽根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曽根は「政治的テロだ」と強く反発し、出馬断念の記者会見でも「引退はしない」と公言した(詳細は上州戦争を参照)。なお、73歳定年制そのものは2000年の総選挙から導入されており、原健三郎・櫻内義雄の両元衆議院議長がこれにより引退しているが、中曽根と宮澤はこの時は特例により比例区定年制対象外となっている。個人事務所を世界平和研究所内に置く(旧個人事務所を2009年まで43年間砂防会館内に置いた)。財団法人世界平和研究所で会長を務め、中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に関する研究業績を表彰する。2005年10月28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曽根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文はより大幅に簡略化された内容となる)。2007年3月23日午後(ブルームバーグ)における日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時にボルネオ島で設営したと書かれている「慰安所」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らが碁を打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した。なお、2011年に日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』は、高知市の市民団体が現地女性を集めて慰安所を設置したことを示す資料を見付けたと報じた。2008年9月3日付の『読売新聞』朝刊に、9月1日に首相辞任の会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿している。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。2008年12月7日に自宅で転倒し、右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど、活動を続けている。また同年10月、急逝した中川昭一元財務大臣の告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られる。2013年12月4日夜、国会近くにある東京・紀尾井町のホテルニューオータニで、5月に95歳を迎えた中曽根の祝賀会が行われたが、企画者とされる山口敏夫元労相以外にも、山崎拓元幹事長、伊吹文明衆院議長、石破茂自民党幹事長、石原伸晃環境相、古屋圭司国家公安委員長、島村宣伸元農相、二階俊博衆院予算委員長、亀井静香元国民新党代表、渡辺喜美みんなの党代表らが出席した。海外訪問中の村上正邦元労相や体調を崩している与謝野馨元官房長官を除けば、旧中曽根派の主だった人物が結集しており、旧中曽根派の同窓会のようだったと報道された。2015年5月には97歳の誕生日を迎えたが、同年8月7日の読売新聞に戦後七十年にあたっての長文の寄稿を行うなど健在ぶりを示している。自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。「自主憲法制定」をライフワークとしており、防衛力増強や「国労つぶし」を行ったことから、長く左派や護憲派などからは右派や改憲派の頭目として批判を受けてきた。しかし、小泉総裁との関係が悪化したことから、自民党は新憲法起草委員会で前文小委員長であった中曽根が作成した憲法前文の試案を使用されなかった。前述のように改憲をライフワークとしている。現在は新憲法制定議員同盟会長を務めている。日米同盟が破棄された時に備えて、日本は核武装の準備をするべきと主張している。小泉内閣の最大の功績として「アフガニスタン、イラクでの国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣」を挙げる(中曽根も第3次内閣でイラン・イラク戦争での掃海艇派遣を検討していた)。また最大の失政として「憲政の常道に反し、参議院で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」(郵政解散)を指摘した。「小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ(笑)」とインタビューに答えている。中曽根派が三木派と並んで保守傍流扱いされることに反発していた。なお保守本流は、吉田自由党系の池田派・佐藤派の系列を指すのが通常で、佐藤派・保利系と合同した福田派まで含めることまではあっても、通常中曽根派は含まない。松村謙三から「緋縅の鎧を着けた若武者」と賞賛された新人議員時代や、いち早く一派を率いた時代から平成の世まで保守政界の一方の核にあった。保守合同以前は野党、自民党においても反主流時代が長く、保守本流の嫡流とも言える宮澤喜一(2007年死去)とは別の意味で、国会や内閣、派閥取引の裏事情を知る生き証人として知られ、本人も長い政治生活を背景とした過去との比較などの発言をたびたび行う。とりわけ、保守合同の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る三木武吉を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ!」とおだて上げ、加藤の乱鎮圧後の野中広務には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。戦後、生存者叙勲の復活が閣議決定された直後には「戦前の勲章の復活などは、いまの憲法にふさわしくない。第一、いまどき勲章をもらったって、いつ、どんな服につけるのかね」と語っていたが、1997年4月29日、大勲位菊花大綬章を受章した。日本国憲法施行後、皇族・外国人以外で大勲位菊花大綬章を生前受勲したのは、吉田茂、佐藤栄作に次いで3人目である。その他の栄典としては、海軍の軍人であったとき、海軍主計少佐として従六位に叙されている。また、フランスからレジオン・ドヌール勲章(グラントフィシエ)、ドイツ共和国から功績勲章大十字章をそれぞれ受章した。称号は、名誉博士(ルイ・パスツール大学)、名誉博士(高麗大学)、名誉博士(タマサート大学、政治学)の名誉学位を受けている。その他、1997年(平成9年)には国会議員在職50年表彰を受けた(史上4人目)。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。