上野 良治(うえの よしはる、1973年4月21日 - )は日本の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ、トップ下)。埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)出身。浦和市立大原中学校3年時に全国中学校サッカー大会優勝。高校は強豪武南高等学校へ進学。1年時から背番号10番を付けてレギュラーとなり1989年度の高校サッカー選手権準優勝。1990年度にベスト4、1991年度にベスト8進出に貢献した。武南高校時代は攻撃的MF(ゲームメーカー)としてプレー、1990年には日本ユース代表、1991年には高校3年生でバルセロナ五輪予選代表に選出された。高校卒業後、1992年に早稲田大学に進学し、同年の大学選手権準優勝に貢献するが、その後は出場機会を失い、翌1994年に早大ア式蹴球部を退部。大学を休学して横浜マリノスへ入団、初年度は15試合1得点を記録した。また、アトランタ五輪代表候補にも選出され同学年の小倉隆史、前園真聖らと共に中心選手として期待されたが、同年の天皇杯で大怪我を負った影響で選考から外れ、1995年以降、マリノスでも出場機会を失っていった。1997年に監督に就任したハビエル・アスカルゴルタによって攻撃的MFからボランチへコンバートされた。また1999年から2000年には主将も務め、同クラブの中心選手として、多くのタイトル獲得に貢献した。2000年には日本代表に選出され、6月6日にモロッコで行われたハッサン2世杯のジャマイカ戦で代表デビューを飾ったが、これが最後の代表参加となった。2002年にもジーコ監督の下で、一度だけ招集はされているが、出場機会はなかった。2007年12月1日、チームより来季の契約を更新しない事が発表された。2008年の試合ではマリノスのマッチデープログラムの中で「引退した」と明記されているが、上野自身が引退を正式に表明してはいない。人柄としては、多くを語らない寡黙な人物で、松田直樹によれば、F・マリノスが残留争いに巻き込まれていた2001年、選手同士の本音をぶつけ合うべく選手間ミーティングを開催したが、上野が挙手する際にはミーティング室がどよめきに包まれたという(『闘争人』P130より)。同様に坂田大輔もインタビューで「試合でミスしたときに上野さんは必ずこっちを見る。何も喋らないが、無言の圧力が怖かった」という(週刊サッカーダイジェスト2009年1月20日号)。287||24||60||5||23||0||370||29287||24||60||5||23||0||370||29その他の公式戦|2004||rowspan="2"|横浜FM||rowspan="2"|6||3||0!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|-!通算
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。