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ソ蒙友好協力相互援助条約

ソ蒙友好協力相互援助条約(ソもうゆうこうきょうりょくそうごえんじょじょうやく)は、ソビエト連邦とモンゴル人民共和国の間に1966年に締結された条約である。ウランバートルにおいて、ソ連共産党第一書記ブレジネフとモンゴル首相ツェデンバルにより署名された。ロシア革命やその後の内戦の影響を受け、1921年にモンゴル人民党(1924年にモンゴル人民革命党へ改称)による社会主義政権が成立したモンゴルは、建国当初からソビエトの強い影響下にあり、ソビエト政権との間に友好条約を結んだ。これは、独立までモンゴル(外蒙古)を領有してきた中華民国の侵攻に備える意味を持っていた。それは1924年のモンゴル人民共和国成立後も変わらず、1936年にはソビエトのヨシフ・スターリン首相とモンゴルのホルローギーン・チョイバルサン首相がソ蒙相互援助議定書を締結し、ソビエト赤軍の国内駐留を認めた。1939年のノモンハン事件(ハルハ川戦争)や1945年のソ連対日宣戦布告ではモンゴル軍が赤軍の指揮下に入って日本軍と戦闘を行った。第二次世界大戦での日本の敗北と、1946年の中華民国によるモンゴル独立承認(台湾逃亡後に取消)、国共内戦による1949年の中華人民共和国成立で、モンゴル周辺の不安定要因は消滅したかに見えた。モンゴル国内では1952年のチョイバルサン死後もツェデンバルによる独裁が続いた。しかし、1956年のニキータ・フルシチョフによるスターリン批判後、ソビエトと中国の間にはイデオロギーをめぐる中ソ対立がくすぶりはじめ、1960年代に入ると公然化し、激しさを増した。その中でツェデンバルは人民革命党内の統制を強化し、ソビエト支持の姿勢を鮮明にした。一方のソビエト側にとっても、モンゴルを自らの陣営につなぎ止めることは軍事的にも極めて重要であった。この条約により、中ソ対立でモンゴルはソビエト側に付くことが決定的となった。ソビエト軍はモンゴル国内に展開し、中国の首都北京を中距離ミサイルで容易に狙える位置に前線基地を確保した。一方、中国とモンゴルの関係は悪化し、モンゴルと中国内モンゴル自治区などとの人的・文化交流は厳しく制限された。その後、1989年のミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長の訪中により中ソ対立が終息すると、この条約の軍事的意味は薄れた。更に1991年のソビエト連邦崩壊により成立した新生ロシア連邦はモンゴル領内からの軍隊を撤退させ、モンゴルも民主化により人民革命党の一党独裁を放棄した上で、1992年には国名をモンゴル国へ変えた。そして、1993年にこの条約は改定され、軍事的義務を解消し、ロシアがモンゴルの中立や非核主義を尊重する内容に改められた。

出典:wikipedia

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