堀川 辰吉郎(ほりかわ たつきちろう、1891年9月3日 - 1966年12月19日)は「昭和天一坊」と呼ばれた詐欺師。大アジア主義者と称する怪シナ浪人。世界救世教元最高顧問。善隣会最高顧問で、出口王仁三郎の黒幕とも呼ばれた。1912年当時、活動写真(無声映画)の九州全域への配給会社を経営していた。1930年の『教育映画目録』には「萬國商會活動寫眞部堀川辰吉郎」の記載があり、1934年には映画貸附販売業を営んでいた。松本清張『深層海流』に登場する、M資金をめぐるフィクサー「桜尾良明」のモデルと目されている。「明治天皇の落とし子」、「井上馨の手で、臣籍降下され、頭山満の玄洋社に入れられる」と伝える資料もある。一方、「福岡の鉱山王井上重蒼の妾腹の子として生まれ学習院に入学したが17歳の時同級生を殴打して退学され郷里で妻をめとったが落ちつかず」、「25歳の時満洲に渡り上海、支那を数年来放浪して内地へ戻り活動の弁士等をやつてゐる内に写真の撮影を覚え」、やがて写真撮影の仕事を通じて児玉秀雄などの名士たちに取り入って20万~30万円の資産を蓄え、これを資金として詐欺を繰り返し、西園寺公望の落胤と称して帝国ホテルに泊まりこみ豪遊しているところを警視庁に連行された、とする新聞報道もある。この報道によると、堀川は齋藤実首相や小山松吉法相など名士の名を利用して内地や朝鮮半島や満州で詐欺を働いていた「昭和の天一坊」である、という。京都堀川(旧皇居の所在地)の生まれと自称。戸籍上は1891年生まれとされるが、当人は1884年生まれと自称しており、1879年8月31日に大正天皇と1分違いで生まれたとの設定も作られている。宮中に仕えていた母から「お前は高貴な生まれだから自分を大事にするように」と口癖のように言われていた、と堀川は語る。生後まもなく福岡の堀川家に預けられ、頭山満や井上馨の庇護を受けて育ったと伝える資料もある。「生れて間もなく九州へやられました。西郷南洲のことをうろ覚えに記憶しております」と堀川は回想しているが、西郷隆盛は1877年に亡くなっているので堀川は会えるはずがないと週刊誌記者から指摘されている。校長への暴行や動物虐待、さらにはヤクザを相手取っての放火事件など腕白が過ぎて福岡の小学校を大名校、住吉、春吉、警固、大浜、堅粕とたらい回しにされ、堅粕では松本治一郎と出会い、生涯変わらぬ盟友関係にあったと自称するが、松本治一郎は豊平尋常小学校を経て住吉高等小学校に学んでおり、堅粕小学校に在籍していたことはない。やがて10歳のころに東京へ連れて来られ学習院中等科に入れられたが、ここでも女学生の前での公然猥褻事件や皇族への暴行傷害事件など問題行動を繰り返して放校処分を受けたと自称。堀川によると、学習院中等科入学時と放校時の学習院院長は乃木希典だったというが、乃木希典が学習院院長を務めたのは1907年から1912年のことであり、堀川が1891年生まれを名乗って入学したとすると計算が合わない。1884年生まれ、1879年生まれを名乗って入学したとすると、なおさら計算が合わない。折あたかも、頭山を頼って日本に亡命していた孫文が帰国の途につこうとしていた際であった。堀川は日本の学校にいられなくなったため、13歳のある日、頭山の依頼で孫文に托されて中国に渡ることとなったという。一方、森川哲郎の筆記による「不思議な人物」では「明治39年(1906年)、私の15歳の春だった」と述べており、『週刊現代』1959年9月27日号における発言と矛盾している。以後、1912年まで孫文と生死を共にして辛亥革命の成功に尽力した。このとき孫文が周囲に対して堀川を「日本の若宮」と紹介し、「日本が我らに若宮を托したことは、わが革命軍に対する日本の賛意の証」と主張して政治宣伝に利用したことが、堀川をして明治天皇の落胤とする風説の根拠の一つとなっている。ただし、孫文の評伝に堀川辰吉郎の名前は確認できない。その後、奉天の世界紅卍字会の会長に推され、日本の軍閥と争いつつ日中平和に貢献。帰国後、1935年、大木遠吉や鈴木三郎(関東都督府外事総長・久邇宮御用掛。鈴木貫太郎三男)のあとを受けて大日本国粋会第3代総裁に就任。反軍閥運動のため東條内閣と対立し、ふたたび中国に渡った。敗戦と共に帰国。国粋会総裁という経歴が災いして戦犯容疑でGHQに逮捕されたが無罪放免となった、と中丸薫は伝えている。中丸薫によると、戦後の堀川は世界連邦運動を推進し、1951年のサンフランシスコ講和条約会議に際しては舞台裏の根回しに奔走したという。同年6月にはエレノア・ルーズヴェルトに会ったことがエレノアのコラムに記されている。同じ頃、"Scene"誌に「炭鉱主で男爵」との肩書で訪米が報じられている。世界各国に48人の妻と88人の子、143人の孫を持つと自称していた。正妻は九州の炭鉱王貝島太助の娘。四女は、新日本製鉄会長永野重雄の長男永野辰雄(大同鋼板社長)と結婚。カーレーサー浮谷東次郎は堀川の長女の長男である。また、別の娘は米国人カーペンターに嫁いだとされるが、この人物の身元については資料によって異説がある。すなわち、堀川自身の発言によるとGHQの統計局長とのことだが、安田雅企『追跡・M資金』p.244-245では「カーペンター一等書記官」(Stanley S. Carpenter)とされ、『月刊日本』(K&Kプレス、2004年)第8巻第1~6号122ページでは「GHQ法務部長カーペンター」(Alva C. Carpenter)とされ、別の英文の資料によるとワシントン大学社会学助教授のデイヴィッド・ベイリー・カーペンター(David Bailey Carpenter)とされ、結婚の時期は1946年あるいは1947年であったという。森川哲郎は「マッカーサー司令部の統計局長であったカーペンター博士」、「社会学者である重要人物のカーペンター博士」、「ワシントン大学教授」と呼んでいる。この娘婿のカーペンター家が大資産家で、大きな木材会社や倉庫会社を経営しており、堀川はその重役になっていたといわれる。また、森川哲郎によると、堀川が中国で儲けた娘の一人は張群の長男と結婚したという。森川はまた「ニューヨークには、かつての汪政権の将軍、陳軍の長男にとついでいる娘もいるという」とも記しているが、汪政権の将軍に陳軍なる人物はおらず、張群の誤記なのか否かは不明である。堀川自身は「明治天皇の落胤」と名乗らぬまま巧みな演出やほのめかしを通じて人にそう思わせる術に長けていた。堀川の娘と名乗る国際政治研究家・ジャーナリストの中丸薫は「明治天皇の孫」と僭称している。奈良ホテルで心臓麻痺を起こし急死。築地本願寺で行われた葬儀には、鳩山薫子や政財界人、さらに孫文の遺児の孫科が参列したと中丸薫は伝えている。右翼の頭山満から皇室に関係があると言われた、との説もあるが、頭山満の評伝に堀川の名は登場しない。明治天皇の落胤とも噂されたが、堀川自身は公の場でそのように名乗ったことはない、と言われる。後に堀川の娘と名乗る中丸薫によって、堀川が明治天皇と女官の「千草任子」の間に出来た隠し子という設定が雑誌に発表された。また、堀川の親友の田島将光(総会屋)は「子供のころから、堀川は井上馨と京都の芸者の間にできた子であるという噂を、大人たちからきき、みながそう信じていた。それほどにかれの家は大きく、かれは気品があった。それに母親しかいなかった」と発言している。戸籍上は井上馨の兄・重蒼の五男として入籍されたともいわれるが、系図上、井上馨の兄は井上光遠(五郎三郎)ただひとりであり、重蒼という兄がいたことは確認できない。堀川が明治天皇の落胤であるという話は、確認できる限りでは、堀川の娘と名乗る中丸薫の著書『対米外交・対中外交』p.186(サイマル出版会、1971年)が初出である。山川暁夫は、この主張を真に受けて、堀川のことを明治天皇の落とし子、孫文の片腕、紅卍会の幹部、M資金の管理者の一人と呼んでいる。皇室ジャーナリストの河原敏明は、「堀川氏は孫文をたすけたこともある右翼の壮士だった人。明治天皇の落胤との噂もあるが、一般的にいえば、大陸浪人とか右翼の壮士といわれる人の話は、割引きして聞かねばならない。中丸薫さんの出生そのものが判然としないし、また堀川氏がご落凰というのも噂にすぎない。もちろん宮内庁では相手にしていない。こうなると、中丸さんが明治天皇の孫だという確率はゼロにも等しいわけである」と述べている。1959年に堀川を取材した週刊誌記者は、堀川から頭山満、出口王仁三郎、原敬、清浦奎吾、鈴木喜三郎、愛新覚羅溥儀一族、張景恵、エレノア・ルーズヴェルトなどの名士と一緒に撮った写真を見せられ、さらにはアイゼンハワーとの会見の図と題する油絵まで見せられたが、「どの写真も大勢で撮した記念撮影で、時代の古いものは後の方から顔を出しているようなものが多い」点を不審と評している。この記者は、元満洲国皇帝侍従武官長の工藤忠、玄洋社の生き残り、世界メシア教の大草管長、明治時代の生き残りの元女官などに堀川のことを訊いたが、いずれも知らないとの返事だったという。ただし大草管長とは、後述のように1959年の取材に先立つ1955年に訴訟関係となっており、森川哲郎は「堀川氏はメシヤ教と関係のないような書きぶりであったが、少し熱心なジャーナリストであったら、メシヤ教に堀川氏がかなり深い根をはり、怪腕をふるっていたことは、みな知っているはずである。現在、堀川氏が熱海に所有している別荘は、メシヤ教の教祖岡田茂吉が贈ったものである」と評している。堀川を取材した作家Nは堀川を「天才的なインチキ師」と評している。ある宮廷写真師は「あの人は昔から有名人の会合があると顔を出し、記念撮影にヒョコッと入る常習者と聞いています」とも言っている。堀川のほか、竹綱貞男や橘天敬が明治天皇の落胤と自称していた。これに対し、宮内庁宮務課長の小川省三は次のように発言している。1932年から1934年にかけて高利貸の乾新兵衛から46万円を詐取した容疑で1934年頃に東京地裁で起訴され、「昭和天一坊」と新聞に報じられている。それによると、堀川は当時背任教唆罪で公判中だった乾新兵衛に「遠縁の鈴木喜三郎の力で無罪にしてやる」と持ちかけて現金や手形を騙し取ったという。ただし乾が1934年2月9日付で大阪地方裁判所検事局斎藤検事に出した被害顛末上申書によると、は事実であるという。この他、堀川は乾から以下の手口で現金や手形を引き出している。乾は1933年8月中旬に控訴審で無罪となったが、堀川がその後も乾にたびたび金を要求したため、乾の息子の新治(後に新兵衛を襲名)が堀川らを詐欺罪で告訴。しかし、被害者の乾当人が「鈴木氏のお蔭で無罪となったのだから報酬を支払うのは当り前である、詐欺には罹らぬ」と主張したため、堀川らは釈放される。その後、乾新治は材料を集めた上で再度告訴したが埒が明かず、渋谷洗心荘の友納早一が堀川と鈴木の両人を詐欺罪で告発。1935年4月16日、東京地裁で乾への詐欺事件の初公判が開かれたが、堀川はこのとき「前科なし」と偽り、神垣裁判長から「詐欺で東京区裁判所で懲役10月執行猶予3年に処されたことがあるね」と指摘されている。のち堀川は、東京控訴院で執行猶予付き懲役1年6月の有罪判決を受けた。堀川はまた、鈴木喜三郎や鳩山家の親類と名乗って京都の富豪の内貴清兵衛や田中伊助からも金を取ったことがあると報じられている。さらに、読売新聞は以下の事件を報じている。読売新聞の同記事はまた、堀川を名うての女たらしと報じ、などと伝えている。当時、堀川と親しい田中義一が政友会の総裁になることを望み、堀川に運動資金300万円の調達を頼んだ。そこで堀川が乾新兵衛に300万円を融通させ、それによって田中は政友会総裁になった。それから2年後、田中はさらに首相就任を望み、堀川に運動資金200万円の調達を頼んだ。ふたたび堀川は乾に200万円を融通させた。ところで、乾は東京渡辺銀行に3000万円を貸していたが、同行は世界恐慌の煽りを受けて倒産してしまった。そこで乾は、渡辺銀行と同系統の渡辺倉庫から3000万円を取り立てようとしたが、渡辺倉庫は別会社であることを理由に返済を拒否した。このとき、堀川が乾に入れ知恵した。乾の腹心を渡辺倉庫に重役として送り込み、同社の株を買い集め、株主総会の意見を誘導すれば3000万円を返済させることができるというのである。ところが乾の腹心として渡辺倉庫に送り込まれた阿部中将は、株主総会を経ずに乾への負債を返してしまった。この行為が問題となり、乾は渡辺倉庫から告発され、逮捕起訴されて懲役7年の実刑判決を言い渡された。このため乾の娘に泣きつかれた堀川は、時の司法大臣の鈴木喜三郎に口を利き、乾を控訴審で執行猶予にするよう裁判所に圧力をかけてやった。堀川の助けに感謝感激した乾は300万円の謝礼を申し出た。さらに、無罪になった暁には追加で1000万円の謝礼を渡すと約束した。その後、控訴審で乾に無罪判決が出ると世論が騒ぎ出した。「これは鈴木喜三郎と堀川辰吉郎の二人が組んで打った大芝居だ」「多額の賄賂で無罪判決を買い取った」「堀川辰吉郎なる怪シナ浪人が検事局を脅迫した」というのである。検察は世論に動かされて堀川の身辺を洗った。しかし堀川は、まもなく無罪のまま釈放された。堀川は、既に1924年頃、蒙古入り当時の出口王仁三郎から20万円を取り上げたと伝えられている。この出口王仁三郎による大本教の元信者が世界救世教(メシヤ教)の教祖岡田茂吉である。戦後の「おひかり様」ブームには大陸浪人らが群がっていたが、堀川もその一人であり、特に堀川の場合は進駐軍とのつながりと称するものが物を言った。堀川は、教団の最高顧問として大きな発言権を持つに至り、それと同時に同教団の教義は米国風の国際色を露骨に強めた。1955年2月10日に岡田茂吉が死亡すると、同教団の30億円から50億円といわれる財産をめぐって争いが始まる。堀川もまた同教団の実権の掌握を狙い、大草管長を相手取って「メシヤ教は公共福祉に反する。宗教法人法第81条により、解散を申請する」と1955年9月4日、静岡地裁に訴訟を起こした。しかし最終的にこれは訴えの取下げになった。1949年、隠退蔵物資の77億円相当の金銀塊が東京湾から引き揚げられ、米軍に接収されたことがある。これに対し、政治団体「新日本党」総裁を名乗る水谷明が金銀塊の奪還を計画した。この水谷は、奪還に成功した暁には、金銀塊すべてを東久邇稔彦に献上するつもりだったが、1960年には運動資金が枯渇して事業からの撤退を余儀なくされたという。1962年には、水谷は「ありもしない金銀塊事件を捏造し、30人近くから大金を騙し取った詐欺師」として逮捕起訴され、のち実刑判決を受けた。水谷と面識のあった堀川は、みずから希望して東久邇稔彦との面会に成功し、席上「水谷先生、ゴールドは目の前に現れると悶着を起こすものですが、本当にあなた、裸になりますか。全部殿下に献上するということ間違いないですか」と発言した。水谷が「天地神明に誓って間違いございません」と答えると、堀川は「少し献上するのが遅かった。まあ、いいでしょう。私がアメリカへ行って取って来て差し上げましょう。私に任せて下さい」と言い出した。しかし唐突な話なのでこの話は具体化しなかった。堀川を明治天皇の落胤と信じていた水谷は、後年「堀川さんはお金持ちなのだから一時立て替えてもらい、金塊から謝礼を差し上げるようにすればよかったですね。またとないチャンスを逃がしてしまった」、「今、金欠なのでここはひとつよろしく頼みますと、土下座してしまえばよかった」と発言している。堀川はまた、戦後になってから、明治宮廷の毒殺を交えた暗殺事件の数々を発表したが、真偽は不明とされる。真崎甚三郎からは、1941年5月16日金曜日の日記の中でなどと迷惑げに記述されている。佐藤栄作の日記にも、肩書なしで2回登場している。1回は1954年11月6日、訪米中の佐藤が堀川の訪問を受けたが荷造りに忙しいので面会を断ったという記述であり、2回目は「最後は中丸薫女史が写真師をつれてインタビュー約1時間、この人は堀川辰吉郎の娘で、結婚の結果が中丸姓になるとか」(1972年10月12日)という記述で、堀川の素姓については編集部の註記に「国家主義者、大陸に渡り孫文の中国革命に参加」とあった。鳩山一郎は日記に堀川の名を4回記しているが、すべて呼び捨てであり、一度は堀川父子の訪問を受けて面会を断っている。1957年、帝国ホテルに宿泊中、帝銀事件再審請求運動家の森川哲郎を大野伴睦に引き合わせた。堀川は世界中に40人の妻を持つと豪語していた。世界各地の女性に子供を産ませたのは、「世界の隅々に、この身につながる糸を残してくることによって、やがてはその糸が、つながって、世界平和の基礎になるかも知れない」と考えたためであるという。徳富蘇峰に対して送った書簡が徳富蘇峰記念館に収められているが、蘇峰が堀川に返信した記録はない。堀川は、堀川の姉すが子(寿賀子)が鳩山一郎の岳父寺田栄の弟寺田房吉の妻と報じられている。この情報が正しいとするなら、堀川は鳩山由紀夫・鳩山邦夫兄弟の祖母(鳩山薫)のおじ(寺田房吉)の義弟ということになる。鈴木や鳩山家との縁戚関係については「事実、堀川某の云う如く上京する度に鈴木邸や鳩山邸に姿を現わしている、彼は血縁関係の上に於ても、鳩山一郎君の夫人の里方の身寄りであるとも云われている点をみると満更の他人でもないらしいのである」と伝えられた。
出典:wikipedia
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