モンゴル国の国際関係(モンゴルこくのこくさいかんけい)は、近代以降に限っても、などの要素がある。モンゴル人民共和国時代は、「ソ連の16番目の共和国」と呼ばれるほどソ連との関係が緊密であった。ソ連のインターコスモス計画に基づき、ソ連の宇宙船ソユーズにモンゴル人宇宙飛行士がアジア人として2番目に乗り組んだこともあるし、1942年のキリル文字採用は言うに及ばず、現代生活のほとんどすべての面にわたってソ連とロシアの習慣が普及している。民主化後のモンゴルの大統領やモンゴルの首相も殆どがソ連に留学した経歴を持っている。1949年10月16日に中華人民共和国とモンゴルは国交を樹立、1960年5月31日には中蒙友好相互援助条約を結んだ。中ソ蒙を縦断するモンゴル縦貫鉄道も完成するなど当初は友好的だったが、中ソ両大国のはざまに存在するモンゴルはソ連との親密な関係のために中ソ対立の期間、中国との激しい抗争を続けてきており、縦貫鉄道の線路も中国側が標準軌に改軌するほどだった。中ソ対立が沈静化しつつあった1988年11月には、両国の国境問題処理に関する条約が調印され、さらに中蒙領事条約が結ばれた。両国国民の居住や旅行などに関する同条約は、1987年1月に発効。1988年、夏季の北京—ウランバートル間の定期便がモンゴル航空により運航されるようになった。中国側が非難してきたモンゴル駐留ソ連軍の一部が、1987年4月に撤兵した。次いで1989年5月の中ソ首脳会談開催と同時に、5万数千人と推定されたソ連軍のモンゴルからの本格撤兵が始まり、1992年9月には全面撤兵した。こうして中蒙関係は急速に改善され、1990年5月にはポンサルマーギーン・オチルバト人民大会幹部会議長らが訪中。同年6月には、ウランバートルと中国・内モンゴル自治区のフフホトとの間に、週1往復の直通国際列車が開設された。1991年8月には中国の国家元首の初訪問として、楊尚昆国家主席が訪蒙、中蒙関係は更に強化された。1994年4月には李鵬が中国首相としては34年ぶりに訪蒙し、首相との会談で中蒙友好関係協力条約が調印された。しかし同年9月には、亡命中のチベット指導者ダライ・ラマが1992年に次いで訪蒙するなど亀裂も残っている。1996年6月、モンゴルは中国、ロシアとの3カ国間で東西の国境を画定した。1999年7月には江沢民主席が訪蒙してナツァギーン・バガバンディ大統領と会談、善隣友好関係の確立に合意。2003年6月には中国の胡錦濤国家主席が就任早々に訪蒙、モンゴルの最大の貿易相手国として経済技術協力協定を結んだ。2005年には上海協力機構の最初の準加盟国(オブザーバー)となった。2014年からは2012年に結んだ通貨スワップ協定も拡大し、かつての中ソ対立の象徴だった鉄道の軌間も中国との貿易を重視して標準軌の鉄道建設をモンゴル政府は発表してる。2015年にはツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領は中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に出席してモンゴル軍を天安門広場で行進させた。一方では民主進歩党・陳水扁政権下の中華民国(台湾)とモンゴルとの接近も目立った。中華民国政府は、中ソ友好同盟条約を正式に破棄した1953年にモンゴル独立の承認を取り消したとしてきた。陳水扁政権期には、2002年以降モンゴル独立を事実上認め、実務的・経済的な交流関係は進展し、事実上の大使館に相当する窓口機関を設置したり、出稼ぎ労働者を台湾に派遣したりしている。馬英九政権下の2012年には、行政院大陸委員会が、1946年の中華民国憲法制定の時点でモンゴルの独立をすでに認めており、憲法第4条で中華民国の領土とされる「固有の領域」にモンゴルは含まれないとの資料を発表した。ただし、歴史的に何度も中国からの侵攻を受けたモンゴルは、今でも、中国に対する激しい敵対心を抱いており、中国人がモンゴルで襲われるほどである。清朝末期から中華民国期にかけてモンゴル人が珍重するメノウなどで作ったたばこ葉の容器を、無知につけこんだ中国人商人が「マッチ1箱」と交換していったなどの話が、現在も伝えられている。中華民国期には革命軍を称する軍隊などが、モンゴル人の居住地域で略奪を行う例が多かった。そのためモンゴル語には「ガミン(=革命)」が、「野盗」、「山賊」を意味する語彙として残っている。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行われていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割といわれる。衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。2005年末、「ダヤル・モンゴル運動(汎モンゴル運動)」と名乗る団体が中国系のスーパーやホテルを襲撃した。中国人や韓国人に対する嫌がらせや脅迫は個別的には起きていたが、集団としては新しい現象だった。現在に到るまで、ダヤル・モンゴル運動等複数の極右団体が中国・韓国系の文化・住民の排斥を訴えている。彼らの主張を支持する層は広範に存在する。例えば、彼らは広告や看板に漢字やハングル文字を使用させず、見つけた場合は看板を取り外し、店を破壊すると宣言している。かつてウランバートルには漢字やハングル文字が溢れていたが、今やほとんど存在しない。店主たちは襲撃を避けるために、看板を自主的に塗り替え、それが社会的に容認されている。現在、モンゴルが産出する鉱物の半分以上が中国へ輸出されている。また、カシミヤの原毛も中国へ輸出されている。その為、モンゴルは中国の製造業の原料供給基地化している。モンゴル経済は9割も輸出を中国が占め、中国人や中国資本に牛耳られているという意識が広く社会で共有されている。もともと、清朝がモンゴルを支配していた20世紀初頭までは、漢民族の高利貸しがモンゴルに進出し、モンゴル人は借金漬けであった。こうした歴史的背景と、鉱業の利権を盗まれているという意識から、一般のモンゴル人にとって中国は、モンゴルにおける悪しき事柄の源泉であるという認識が確立している。例えば、品質が悪ければ、それは中国製品、失業率が高ければ、中国人がモンゴルで不法就労しているためだなど、望ましくないものの原因及びそのものとして、中国は認識されている。中国はモンゴルのナショナリズムを否定的な側面から鼓舞する最大の負のイメージである。モンゴルの極右勢力が極端な反中国・反中国人運動を展開している。「中国人の男と寝た」との理由で、複数のモンゴル人女性の頭髪を丸刈りにしたり、中国と関係が深かったモンゴル人を殺害する事件も起きている。モンゴル首都のウランバートル市内にはハーケンクロイツのマークとともに「中国人を射殺せよ」とする落書きも多くみられる。代表的な極右団体としては「フフ・モンゴル」などがあり、構成員は数千人とされるが、人口270万人のモンゴルでは相当な人数である。モンゴルでは、3団体が極右団体に指定され、これらの極右団体が掲げる第1の敵は中国であり、経済、文化などあらゆる面で外国の影響を拒絶している。鉱山開発や建設事業で中国の影響力が増したことも、モンゴルの排外的民族主義を強める一因だと指摘する専門家もいる。200年にわたって満洲民族に支配された歴史をもつモンゴル人の中には、中国マネーがもたらす新たな繁栄への期待よりも、中国の野心に対する警戒心のほうが強いという見方もある。モンゴル科学アカデミー国際研究所のショルフー・ドルジは、「モンゴルに来る外国人、主に中国人の違法行為に対する彼らの自警団的活動は、モンゴル全体の支持を得る可能性がある。それこそ真の脅威だ」と指摘している。 アメリカ国務省は2010年の春以降、モンゴルで「外国籍の人間に対する排外主義的襲撃事件が増加している」との渡航情報を出している。また、アメリカ国務省のウェブサイトは「こうした国粋主義団体は、アジア系アメリカ人を中国人や韓国人だと誤解し、突然襲撃することが多い」と注意を呼び掛けている。日本外務省も海外安全ホームページのモンゴルに関する安全対策基本データで、「歴史的背景から中国人に対するモンゴル人一般の潜在的な感情には複雑なものがあります。街頭で日本人が他の外国人と間違えられてモンゴル人に殴られた事件やトラブルも時折発生しています」と注意を呼び掛けている。モンゴル語で中国は「ヒャタッド」だが、俗語では中国人を「ホジャ」という蔑称で呼ぶという。朝鮮半島に対しては、社会主義時代は「朝鮮」イコール北朝鮮であったが、1990年に大韓民国との外交関係を樹立した。現在では、韓国の存在はモンゴル経済にとって不可欠なものとなるまで緊密な結びつきを有している。ウランバートル市内を走る自動車の多くは韓国製であるほか、在留韓国人の数も人口比で在留日本人の倍以上あり、大規模な韓国系スーパーも進出している。韓国で不法就労するモンゴル人は後を絶たず、一説には数万人がソウル郊外の工場などに潜んでいるといわれる。もっとも北朝鮮との国交は維持されており、南北等距離外交を標榜しつつ南北双方に大使館を設置しているが、その背景には地理的な近さのほか、国際社会での発言チャンネル確保のために利用しているという外交戦略がある。なお、現在の駐韓国大使は金日成総合大学出身の北朝鮮専門家であり、初めて南北双方で大使を務めたとして韓国でも話題となった。最近では、モンゴル経由の脱北者が激増しているが、モンゴル政府はこれを逮捕したり強制送還する姿勢は示していない。また、ウランバートル市内に増加している韓国資本のマンション建設現場では北朝鮮政府派遣の労働者が働いている。モンゴルを訪れる韓国男性の70%以上が売春ツアーを目的としており、モンゴルでは韓国人が経営する売春目的のカラオケバーが確認されているだけで50軒以上にのぼり深刻な問題となっている。モンゴル政府は韓国人による売春ツアーを取り締まるために売春取締法を強化しているが韓国人の経営する売春目的のカラオケバーの活動を縮小させることができていない。また、取締りを逃れるために乗馬クラブやマッサージ店での売春が増加している。空港を降りるとそのまま売春乗馬クラブに直行する姿などが目撃されている。モンゴル人は韓国人の無法行為によって強い反韓感情を持っている。さらに、モンゴルでは韓国の暴力団が幅を利かせており、韓流を利用した就業詐欺、マンションを建てるといって金を騙し取る等の詐欺が続出しており、嫌韓感情が急激に高まっている。そのため世論調査では韓国は嫌いな国の第2位である。朝青龍が韓国人記者に対して「このキムチ野郎!」と発言したことがある。鉱業と並んで、モンゴル経済を支えているのは外国への出稼ぎ労働者からの送金である。非公式ルートからの送金を含めると、モンゴルのGDPの10%以上が出稼ぎ労働者からの送金と見積もられる。モンゴル人の最大の出稼ぎ先は韓国である。2007年現在で、韓国には公式統計で2万5000人のモンゴル人が住んでいる。これはモンゴルの総人口の約1%にあたる。国の総人口の半数は20歳以下と60歳以上であるから、韓国にはモンゴルの労働人口の2%が住んでいる。韓国で働くモンゴル人の約4割が正規の雇用契約がない状態で働いており、そのため劣悪な条件で働かされたり、勤務中の怪我や死亡事故に対する補償がないこともある。このようなケースはモンゴルの新聞に悲劇的に掲載される。また、韓国は大企業から零細企業まで、モンゴルで事業を行っている。2005年末の統計では、旅行者以外で、モンゴルに長期滞在している韓国人は2000人以上いる。これは同様にモンゴルに長期滞在している日本人の約7倍にあたる。ダヤル・モンゴル運動などの極右団体が中国に加え、韓国を排斥の対象にしているのは、韓国とモンゴルの急激な関係拡大と深化がある。出稼ぎを通じ、個人的な経験として韓国と交渉を持つ人が多いため、より感情的な反応が目立ち、韓国経済や文化の影響が大きいからこそ、モンゴル人の民族主義的な反応が先鋭化している。日本との国交樹立は1972年であり、1977年には経済協力協定を結んでノモンハン事件の対日賠償請求を取り下げる代わりに50億円を日本は無償贈与し、ウランバートルにカシミヤ工場がつくられた。日本人抑留者の問題に象徴されるように社会主義時代は冷戦構造とソ連の影響下にあって密接な関係をもつことはなく、本格的な交流強化は1990年の社会主義崩壊を待たなければならなかった。モンゴルのいわば保護者であったソ連が手を引いた後、操業できなくなる事業所が続出し、食糧緊急支援対象国に指定されたことから、日本の多くのNGOがモンゴルに赴いたほか、日本政府は緊急支援を含む多額のODAを供与し、深刻な経済危機を救った。社会主義時代の反日教育にもかかわらず、伝統的にモンゴル人の対日イメージは良好で、モンゴルは日本にとって北東アジアの安全保障のために極めて重要なパートナーとなっている。2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国は対日感情が極めて良好な国となっている。2005年に大統領に当選したナンバリーン・エンフバヤルは親日家として知られている。2006年には新任の首相が来日し、4月から12月まで日本人がモンゴルに渡航する際、ビザを不要にすると首脳会談で表明した。さらに2010年4月1日より、日本国籍者は滞在日数が30日以内の場合、ビザが免除されることになった。
出典:wikipedia
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