堀江 貴文(ほりえ たかふみ、1972年10月29日 - )は、日本の実業家、著作家、タレント、YouTuber。愛称はホリエモンだが、堀江本人があだ名やペンネームなどを名乗る際にはたかぽんを自称している。日本ゴルフ改革会議委員。ライブドア元代表取締役社長CEO、SNS創業者兼従業員、7gogoファウンダー。最初のアルバイト先は東進ハイスクールの関連会社であり、衛星授業の運営や教材開発などが主な業務だった。ここで自身のプログラム技術が通用すると確認した後、アップル関連の仕事を多数請け負うコンピュータ系ベンチャー企業に移り、まもなくインターネットに出会った。1996年(平成8年)4月、有馬あきこらと共に有限会社オン・ザ・エッヂを設立(なお、堀江はオン・ザ・エッヂを設立後に大学を中退している)。資本金には、有馬の父からの出資600万円が用いられた。1997年に株式会社に改組。同社は、当時のインターネットが普及しはじめた黎明期に、いち早くホームページ制作・管理運営を行う会社として注目を集め、レコード会社などの一流企業のサイト制作を請負いながら急速に成長していった。2002年、経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得した。同社はのちにライブドアへ社名変更した。2004年に経営難でオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)との合併が決定されたプロ野球球団、大阪近鉄バファローズ買収を申し出たことから一挙に注目を浴びる。買収の申し出を拒否されると、今度は東北に新球団を設立する計画を発表。球団名を「仙台ライブドアフェニックス」とし、監督としてトーマス・オマリーを招聘すると発表した。本業の競合他社でもある楽天と参入を競い合うが経営体力の不足等が指摘され、審査の結果楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)の参入が決定。ライブドアの参入は実現しなかった。この年の新語・流行語大賞の一つには「新規参入」が選ばれ、新規参入できた三木谷浩史ではなく新規参入できなかったはずの堀江が授賞式に出席した。その後も野球以外では、公営競馬の運営業務への参入打診を図るが、結局白紙となった他、経営危機に陥っていたサッカーJ2リーグ・サガン鳥栖の経営参加を計画するもやはり実現に至らなかった。一方で競走馬「ホリエモン」を所有していた。2004年10月、ベストジーニスト受賞。また2005年3月には第42回ゴールデン・アロー賞話題賞を受賞。後者は、タレント活動もしていたとはいえ実業家の受賞は異例であった。2005年2月、社長を務めるライブドアがニッポン放送の株を35%取得、同社最大株主となった。その後2月21日現在ニッポン放送株を40.1%取得。なお、株取得が報道された直後から当時ニッポン放送の子会社だったフジテレビジョンを出入り禁止になり、平成教育2005予備校から降板させられた。この時にフジテレビと大きな騒動となり報道機関が殺到することになる。その時に彼が言った「想定の範囲内」という言葉は有名(堀江はこの言葉で新語・流行語大賞の年間大賞を受賞している)。しかし、2005年4月、ライブドアとフジテレビジョンとの間で和解が成立。ライブドアの所有するニッポン放送株式全てをフジテレビジョンが取得することが発表された。フジテレビジョン側がライブドアに支払った金額は1400億円ほどであり、このことで2005年のフジテレビの株主総会で株主らが日枝久会長ら経営陣や堀江貴文に対し批判を行った。またこの和解によってフジテレビ出入り禁止は解除された。2005年6月には自民党での講演でフジテレビ日枝久会長と共に呼ばれたが、お互いの溝の深さが露呈する講演となってしまった。2005年7月23日放送のFNS25時間テレビよりフジテレビの番組出演が解禁され、細木数子との対談を行った。この時六本木にあるライブドア本社からお台場フジテレビのスタジオまでマラソン姿で走り、久しぶりに「想定内」という言葉が使われた。2005年8月16日に衆議院の解散(いわゆる郵政解散)に伴う総選挙において、自民党から福岡1区での立候補を打診されたが、出馬するかどうかは未定であることが明らかとなった。一方、民主党の岡田克也代表(当時)とも会談を行うが民主党からの立候補は見送られた。自民党からは堀江の擁立に対する批判が相次ぎ、また、堀江が自民党の説得に応じず、ライブドアの社長を辞めないことを表明。堀江は無所属として亀井静香(当時自民党を離党し国民新党所属)の選挙区である広島6区で立候補すると発言したが、立候補の記者会見を自民党本部で行っていたこと、広島6区で自民党・公明党が候補を擁立しなかったこと、武部勤自民党幹事長や竹中平蔵経済財政政策担当大臣など自民党大物幹部が堀江の応援演説に訪れていたことから、自民党による亀井静香への対立候補として世間から認知されるようになった。対立候補の当事者であり「刺客」という言葉を最初に用いていた亀井静香は堀江について「自民党の刺客が自民党を名乗らない。忍者かね」と評した。2005年9月6日には都内の日本外国特派員協会講演で「憲法が天皇は日本の象徴であると言う所から始まるのは、はっきり言って物凄く違和感を覚える」「歴代の首相、内閣、議会が変えようとしないのは多分、右翼の人達が怖いから」「インターネットの普及で世の中の変化のスピードが速くなっているから、リーダーが強力な権力を持つ大統領制にした方が良い」と言う天皇制の否定とも取れる趣旨の発言が一部で物議を醸し、選挙特別番組でも亀井静香が「自民党が天皇制を否定するような人物を擁立すべきでない」と述べ、自民党幹事長代理の安倍晋三等に対し不満を漏らした。選挙の結果としては、亀井静香の地盤である広島6区では厳しい選挙戦を強いられ、公明党支持者からの票を得るために「比例は公明党に」と連呼までして終盤で追い上げたが、結局は亀井静香11万票に次ぐ8万4千票で落選した。民放の開票速報番組で、「比例は公明」と訴えていたことについて丸山和也(当時は非議員、現参議院議員)に真意を尋ねられると、「公明党は改革を支持している政党だから」と発言した。落選後、今後の衆院選で同じ広島6区から出馬する意向を示唆していたが、翌年の証券取引法違反事件で自身が東京地検に逮捕されたことにより、4年後の2009年8月の総選挙には出馬しなかった。一方、選挙投票日である9月11日に自身が所有する競走馬のホリエモンが高知競馬場で出走し初勝利を挙げた。東京地検特捜部の指摘によると、ライブドアが実質的に支配する投資事業組合が、すでにマネーライフ社を買収していたにもかかわらず、増資や架空売り上げを計上するなどし、ライブドアマーケティング社(現:メディアイノベーション)が、それら事実を偽って公表したとするもの。判決によると、粉飾により時価総額を高めて高い企業価値を偽装して他社を買収するなど、虚像により社会を欺いた点が極めて悪質とされた。その結果、単なる粉飾決算である他の事例(日興コーディアル証券など)よりも重い刑罰が確定した。東京地検特捜部の指摘によると、ライブドアの2004年9月期の連結決算では経常赤字であったにもかかわらず、架空売上の計上、投資事業組合を通じたライブドア株式売却による投資利益を売上に計上し、50億3400万円の経常黒字であるとする虚偽の有価証券報告書を提出したとするもの。祖父は久留米市出身で、八幡製鉄所(北九州市)の従業員だったが、1945年(昭和20年)頃、戦災を避けて祖母の実家のあった福岡県八女市(当時は八女郡岡山村)に疎開した。そのまま終戦に伴って同村内の筑後地方航空機乗員養成所の広大な跡地を払い下げてもらい、家を建て、土地を切り売りしながら暮らしていた。堀江が生まれ育った1970年代~1980年代には、家の周囲は主に茶畑で占められていた。1943年(昭和18年)生まれの父は7人兄弟の末子で、高校卒業後一貫して自動車販売会社に勤めてきたサラリーマンであった。父はまったく本を読まず、堀江曰く「テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人」「文化や教養といった言葉とは無縁の家庭」であり、家には書斎はおろか本棚すらなかったが、当時訪問販売が盛んであった百科事典は家にあり、小学生の堀江はそれを最初から最後まで通読していた。百科事典通読のお蔭か、小学生時代の堀江はずば抜けて成績優秀であったが、あまり真面目ではなく、掃除や日直の仕事をやらなかったり、少しでも気に食わないことがあれば取っ組み合いの喧嘩をしたりしていた。そのため教師からは協調性がないと評価されることが多かったものの、小学3年の時の担任だけは堀江を面白がり、学習塾に通い私立中学に進むよう勧めた。そこで堀江は、小学4年から久留米市の学習塾(全教研)に通い始めた。1985年(昭和60年)、久留米大学附設中学校に入学。中学・高校時代の同級生に孫泰蔵がいる。中学の合格祝いの名目でコンピュータ(日立製作所製のMSXパソコン)を買ってもらったものの、ホビー向けの側面が強かったMSXパソコンでは徐々に満足できなくなり、中学2年の時に親に約20万円の借金をして、エントリーモデルながらも本格派パソコンだったNECのPC-8801mk2SRを購入(新聞配達によって全額返済)し、かなり複雑なプログラムを組めるようになっていった。当時堀江が通っていた全教研の英語スクールでも、授業そっちのけでパソコンに熱中していたが、あるとき塾講師からの依頼を受け、塾のコンピュータの教材システムの移植作業を一人で行ったこともある。このようにコンピュータに熱中した中学時代だったが、中学2年の後半頃、パソコン通信の電子掲示板を立ち上げた際、電子掲示板のユーザーがやたらに攻撃的・批判的だったために、それ以降は徐々にパソコンとの距離をとるようになった。高校時代には友人の家に泊まり込んで麻雀をしたり、ゲームセンターにたむろしたり、当時流行していたビリヤードで遊んだりと、自堕落な暮らしをしていた。中学・高校時代はほとんど勉強しなかったため成績は常に下位だったが、高校3年の夏に受験勉強に取り掛かり、苦手だった英語を集中的に学習するなど一日十数時間の猛勉強の末、1991年(平成3年)東京大学教養学部文科三類に合格・入学、八女を離れて上京、駒場寮の北寮へ入寮し、1・2年次を駒場寮で過ごした。大学1年の時に赤本(東京大学・文系)に合格体験記を寄稿している。元々、複数の科学雑誌を毎号読んでいたほどの科学少年で理系希望だったが、受験勉強の期間から考えて理系で入学するのは無理だと考え、まずは文科に入学して、その後進学振り分けによって理転し、生命工学の分野に進むつもりだった。しかし入学後、駒場寮の麻雀部屋に入り浸っていた博士研究員の先輩が、優秀な研究者であるにも関わらず、国からの研究費がつかずに劣悪な環境で研究しているのを見て、「天下の東大でドクターまで進んでも、しょせんこんなものなんだ」「こんなに優秀な人でも認められず、劣悪な環境に閉じ込められるのか」と驚き、少しずつ幻滅していき、理系進学を断念。塾講師・家庭教師などのアルバイトや、麻雀、ヒッチハイク旅行などに時間を費やした。大学3年次の1993年(平成5年)、同文学部宗教学・宗教史学専修課程に進学。駒場を離れて本郷の2DKのアパートで同級生とルームシェアをする。この時、麻雀からは離れたが、競馬にのめり込むようになった。当時は競馬で稼いで馬主になれたら最高だなと、半ば本気で思っていたという(その後ライブドア時代に競走馬ホリエモンの馬主になった)。その後、塾講師のアルバイトに甘んじている現状に危機感を抱き、大学4年次の1994年(平成6年)、中学時代に培ったプログラム技術を活かすべくプログラマーのアルバイトを始めた。ホリエモンという愛称は元々はYahoo!掲示板のライブドア板で書き込まれたもの。この名称が一般メディアで取り上げられたのは、2004年、井上トシユキが『SPA!』に連載していた「エッジな人々」が最初であると思われる。同年8月にライブドアのキャンペーンとしてインターネットで堀江の所有する競走馬の馬名を募集したところ馬名がホリエモンに決定し、さらにこの名称の知名度を上げた。その後マスメディアがその名称を馬主である堀江の愛称としてニッポン放送買収を期に使い始めたため、一気に広まった。またホリエモンに変わる愛称をインターネットの自身のSNSで募集した所、『ゼンカモン』というあだ名が一番多く上がってしまっている。ライブドア事件の後にライブドアグループは再編され、会社の顔でもあったポータルサイト「ライブドア」を含むメディア事業はLINEの前身であるNHN Japanが買収し、サービスも承継された。その後、同社はアプリ『LINE』の開発を経てLINEに社名変更しており、出澤剛(旧ライブドア・メディア事業部長)など、LINEの役員陣にはライブドアの幹部や社員であった人間が含まれている。堀江はLINE上場の際、元上司の立場から「長かった」とするコメントを出している。メディア事業だけがライブドアではなく、法人格も存続していないため、LINEを元ライブドア(堀江をLINEの元経営者)とするのは厳密には誤りである。自身の著書ではゴーストライターを使用している。いずれも過去のもの。
出典:wikipedia
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