文室 綿麻呂(ふんや の わたまろ、天平神護元年(765年) - 弘仁14年4月26日(823年6月8日))は、平安時代前期の公卿。従四位下・三諸大原の長男。延暦11年(792年)に父が文室真人から三諸朝臣へ改姓したことから同時に改姓したとされる。延暦14年(795年)、従五位下・右大舎人助に叙任。翌15年(796年)で近衛将監に転じた後、延暦22年(803年)に近衛少将と武官を務める傍ら、桓武天皇の治世では近江大掾・出羽権守・播磨守と地方官も兼ねる。この間の延暦20年(801年)には坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討への派遣を命ぜられ、田村麻呂らと共に昇叙され正五位上に昇進している。大同元年(806年)、平城天皇の即位に伴って従四位下に叙せられて、侍従に中務大輔を兼ね天皇の身近に仕える。平城期では右兵衛督・右京大夫・大舎人頭を歴任し、大同4年(809年)には三山朝臣姓、次いで文室朝臣姓を賜与されている。4月に平城天皇から譲位された弟の嵯峨天皇が即位すると左兵衛督に転じ、大膳大夫・兵部大輔・播磨守を務める。翌5年(810年)9月に発生した薬子の変では平城上皇と共に平城宮にいた所、平安京に召還され左衛士府に拘禁されてしまう。しかし、大納言となっていた田村麻呂が東国へ向かった平城上皇を迎え撃つために美濃道に向かう際に、武術に優れ辺境での戦闘の経験が豊富であることを理由に綿麻呂を同行させたい旨を上奏する。結局上奏は認められ、綿麻呂は正四位上・参議に叙任されて同行することになった。綿麻呂は歓喜勇躍し乗馬して出撃したという。薬子の変後、大蔵卿・陸奥出羽按察使を兼ね、東北地方に駐在して蝦夷征討の責任者を務める。特に弘仁2年(811年)には活発に活動した様子が『日本後紀』に記載されている。なお、同年12月には征討によって蝦夷を制圧し、辺境の防衛体制を解除させた功労により、従三位に叙せられている。後に左右衛門督・右近衛大将を経て、弘仁9年(818年)に中納言に昇進する。弘仁14年(823年)4月26日薨去。享年59。最終官位は中納言兼右近衛大将従三位。勲等は勲四等。
出典:wikipedia
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