アゼルバイジャン共和国(アゼルバイジャンきょうわこく、)、通称アゼルバイジャン は、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。北はロシア、北西はジョージア(ロシア語名:グルジア)、西はアルメニア、南はイランと国境を接し、東はカスピ海に面する。アルメニアをまたいで西南方に飛地のナヒチェヴァン自治共和国があり、アルメニア、イランおよびトルコと接している。首都はバクー。アルメニア人が多数居住する西部のナゴルノ・カラバフ地方は、事実上独立した状態となっている。正式名称はアゼルバイジャン語で 。日本語の表記はアゼルバイジャン共和国。通称アゼルバイジャン。英語表記では"Republic of Azerbaijan"。 その語源はアケメネス朝ペルシアのメディア総督(サトラップ)のアトロパテスに由来する説と、ペルシャ語で火を意味する「Azar」と土地を意味する単語に由来する説がある。紀元前後には、アゼルバイジャン人の祖先と見られるアルバニア人の国家(カフカス・アルバニア王国)が作られていた。歴史的には、イランの東アーザルバーイジャーン州、西アーザルバーイジャーン州とともにイラン高原を支配する政権の統治下にあることが多かった。もともとはイラン系の人々が住んでおり、南のイラン高原側と同じくゾロアスター教の拝火壇などの宗教施設が多数建立されていた。7世紀にアラブの支配下に入ったのちも住民はゾロアスター教徒が多く、シーア派の信徒たちも含めてイスラム教への改宗は緩やかだったようである。イスラム時代以降この地域は、バクーより北側の地域をシルヴァーン地方、バクー周辺をグシュタースフィー地方、アラス川北岸の内陸部をアッラーン地方、クラ川とアラス川が合流する低地一帯をムーガーン地方と呼んでいた。セルジューク朝の時代にオグズ・テュルク系遊牧民(テュルクメン)が進出してテュルク化・イスラム化が進んだ。特にイルハン朝時代は、ムーガーン地方周辺が南方のバグダードと並んでイルハン朝君主たちの冬営地に定められた地域でもあった。またイルハン朝滅亡後はカラコユンル朝やジョチ・ウルス系の諸政権の支配が及ばなかった集団の出入が激しく、これらテュルク・モンゴル系の遊牧勢力の浸透によって、これらの地域の住民のテュルク化・イスラム化はさらに進展した。一時ティムール朝の支配下にあったものの、イルハン朝滅亡後はこれらの地域を統括できる政治勢力は久しく現れなかった。17世紀にこの地方を拠点にサファヴィー朝が起こり、カスピ海南西岸地域一帯の多くのテュルクメン系の人々がシーア派へ改宗した結果、アゼルバイジャン人(アゼリー人)と呼ばれる民族が形成されていった。アラス川以北の現アゼルバイジャン共和国領は、元来イラン高原に属しウルーミーエ湖周辺のタブリーズやマラーゲを中心とするアーザルバーイジャーン地方とは別個の地域であって、アゼルバイジャンとは呼ばれていなかったが、南の東西アーザルバーイジャーン州との民族的共通性から次第にアゼルバイジャンという地名で呼ばれるようになった。アルダビール州からカスピ海沿岸部にかけてはの(1747年-1813年)が自治していた。1804年に始まった第一次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・ゴレスターン条約(1813年)でアゼルバイジャンの大部分がロシア帝国領に編入された。1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマーンチャーイ条約(1828年)で、ガージャール朝ペルシアのアラス川北岸地域もロシア帝国に割譲された。ロシアの統治下でアゼリー人の民族意識が高まった。1918年、この地域のアゼリー人民族主義者たちは十月革命後の混乱を縫ってアゼルバイジャン民主共和国を打ち立てることに成功したが、イギリス軍によって占領され、これに反応した赤軍がバクーに侵攻、ソビエト政権が成立した。1922年末、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の一部となり、同連邦の解体にともない1936年よりアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国として直接にソビエト連邦を構成する共和国の一つになった。1989年10月5日、共和国主権宣言。1991年2月5日、「アゼルバイジャン共和国」に国名変更。1991年8月30日、共和国独立宣言。1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS) に参加。1993年以来、元アゼルバイジャン共産党書記長のヘイダル・アリエフが大統領として政権を掌握し、強権的な政治を引いてきた。2003年にアリエフは健康不安から引退を余儀なくされたが長男のイルハム・アリエフが後継者に指名されて大統領選挙に勝利し、権力の世襲委譲が果たされた。大統領は、直接選挙で選出され、任期は5年。政府閣僚は、大統領が任命する。立法府の名称は、国民議会(ミリー・メジリス)で、一院制で任期5年、議席数は125議席。複数の政党が存在するが、事実上はイルハム・アリエフが党首である「新アゼルバイジャン党」による一党独裁制である。なお、脱ロシア志向のウクライナなどと1997年にGUAMを結成し、創立時より参加を続けている。陸軍、海軍、空軍の三軍がある。このほか、アゼルバイジャン沿岸警備隊や国境警備隊を有する。海軍や沿岸警備隊はカスピ海に展開している。アゼルバイジャンの地方行政区画は、59の県 (rayon) 、県と同レベルの11市 (sahar)、および1つの自治共和国 (muxtar respublika) で構成される。カスピ海の西岸に位置し、北はロシア、南はイランに挟まれる。北緯38度~42度、東経44度~55度。南北400km、東西500kmに及ぶ。地形上、カスピ海・大コーカサス山脈・中央平原に3区分できる。すべての河川がカスピ海に注ぎ、最長はKur川の1515kmである。最高地点はバザルドュズ山 (海抜4466m) である。飛び地としてアルメニアに囲まれているがアゼリー人の人口が多い地域であるナヒチェヴァン自治共和国があり、領土内にアゼリー人居住地に囲まれているもののアルメニア人人口の多いナゴルノ・カラバフ地方がある。ナゴルノ・カラバフ地方ではアルメニア人の人口が多く、同地域のアルメニアへの帰属変更を掲げたことでアゼルバイジャンと分裂状態となり、ソビエト解体から1994年に停戦合意をするまで紛争地域となっていた。停戦合意後も2014年に衝突が起き不安定な状態を抱えていたが、2016年4月2日、ナゴルノ・カラバフ自治州でアゼルバイジャンとアルメニア軍による軍事衝突が発生している。戦闘は翌3日も続き、双方で兵士が死亡している。IMFの統計によると、2013年のアゼルバイジャンのGDPは735億ドルである。一人当たりのGDPは7,900ドルで、世界平均の8割ほどの水準にある。バクー油田など豊富な天然資源があり、ソ連崩壊やアルメニアとの紛争で落ち込んだ経済を支えている。天然資源の存在は第二次世界大戦やチェチェン問題とアゼルバイジャンの関係とも大きくかかわっている。2006年にはアゼルバイジャンの首都バクー、ジョージアのトビリシ、トルコのジェイハンを結ぶBTCパイプラインが開通した。同パイプラインはBPなどの日欧米企業が出資、輸送能力日量100万バレルの原油パイプラインである。これはロシアに対抗する欧州向け原油輸出パイプラインとして期待され、カザフスタン原油の輸出も計画されている。カスピ海では油田のほかにガス田も生産を始めている。こういった欧米の直接投資と原油高に伴う多額の収入が国内の経済を急速な勢いで成長させているが、一方で激しいインフレと失業率に悩まされている。また、環境汚染も深刻である。国内の労働市場は経済状況に比べれば不安定でIDP(国内避難民)も多く抱える同国の国民生活は決して経済成長率を反映しているとは受け取れない。住民は、民族的にはテュルク系のアゼルバイジャン人(アゼリー人)が人口の90.6%を占め、圧倒的に多い。アゼリー人の外、(2.2%)、ロシア人(1.8%)、アルメニア人、、山岳ユダヤ人が居住している。国語は、アゼルバイジャン語だが、日常的にはロシア語も使用される。タート語、ユダヤ・タート語。宗教的にはアゼリー人を含めたムスリム(イスラム教徒)が95%(シーア派85%、スンニー派15%)と圧倒的に優勢で、キリスト教正教会、ユダヤ教会、キリスト教アルメニア教会が少数派として存在する。アゼルバイジャンはワインの有名な産地であり、コーカサス有数の上質なワインで知られる。ロシア国内ではジョージア産のワインはよく見かけるが、アゼルバイジャン産のワインを見つけることはあまりできない。しかし、コストやクオリティなどを考えればロシアで人気のグルジアワインに劣らないだけではなく、フランスワインよりも一部の人々には好まれている。庶民が好んで飲むイワノフカは低価格で飲みやすくおいしい。また世界遺産に登録されている乙女の塔の名をとったワインもある。 アゼルバイジャン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。2000年に登録された「城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔」(危機遺産)および、2007年に登録された「ゴブスタンの岩絵の文化的景観」である。
出典:wikipedia
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