伊勢ヶ濱部屋(いせがはまべや)は、日本相撲協会所属で伊勢ヶ濱一門の相撲部屋である。1993年4月から安治川部屋を継承していた年寄・4代安治川(元横綱・旭富士)が、2007年11月30日に年寄名跡を伊勢ヶ濱へ変更して9代伊勢ヶ濱を襲名したことに伴い、部屋の名称が安治川部屋から伊勢ヶ濱部屋へと改称された。伊勢ヶ濱部屋として見れば、同年1月にかつての伊勢ヶ濱部屋が閉鎖されて以来の再興となったが、新・伊勢ヶ濱部屋は旧・立浪一門からの派生であり、旧・伊勢ヶ濱一門だった旧・伊勢ヶ濱部屋とは系統が異なっている。2008年1月場所終了後に9代伊勢ヶ濱は、所属力士のうち幕下以下の力士について四股名の「安」を全員外し改名すると発表し、同年3月場所より幕下以下の力士は1人を除いて全員が改名した。呼出2人と床山1人も同時に改名した。また、9代伊勢ヶ濱は幕内・十両経験者の力士についても「昇進など改名する条件に合えば改名する」と明言し、同年11月場所後に関脇・安馬が大関に昇進すると、9代伊勢ヶ濱は安馬の四股名について「いつまでも“安い馬”では困る。上(横綱)を目指してほしいので、それに相応しい名に改める」として、新大関を機に四股名を日馬富士と改名した。現在では四股名に「安」の付く力士は安美錦1人のみであり、接尾辞に「富士」の付く力士が多い。2013年3月には閉鎖された間垣部屋から18代間垣(元横綱・若乃花)と若三勝(移籍後に照ノ富士と改名)など所属力士ら計7人を受け入れた。2015年2月1日には閉鎖された朝日山部屋から18代朝日山(元大関・大受)と所属力士ら計8人を受け入れた。熊ヶ谷部屋所属の清瀬川(当時は平幕)は、1921年(大正10年)1月に熊ヶ谷部屋の後継者が敷島猪之助に決まったため、内弟子を連れて楯山部屋の預かりとなった。その後、清瀬川は1929年(昭和4年)9月場所を最後に現役引退して年寄・5代伊勢ヶ濱を襲名し、同時に楯山部屋に預けていた内弟子を連れて伊勢ヶ濱部屋を創設した。5代伊勢ヶ濱は横綱・照國や平幕優勝を果たした備州山など多くの関取を育て上げ、一代で部屋を大きくした。この間に、もともとの本家だった熊ヶ谷部屋や大坂相撲から合流した朝日山部屋を配下として伊勢ヶ濱一門(旧・伊勢ヶ濱一門)を構成するようになった。1953年1月場所限りで横綱・照國が現役を引退して年寄・10代荒磯を襲名すると、5代伊勢ヶ濱は弟子全員を10代荒磯に譲って自らは取締役に専任したため、部屋の名称が荒磯部屋と改称された。1961年1月に定年制導入により5代伊勢ヶ濱が定年退職すると、10代荒磯は伊勢ヶ濱の年寄名跡を譲り受けて6代伊勢ヶ濱を襲名したため、部屋の名称が再び伊勢ヶ濱部屋へと改称された。6代伊勢ヶ濱は大関・清國や関脇・開隆山といった関取を育て上げたほか、稽古土俵を二面作るという稽古場を作り上げて評判になった。この時期には立浪一門と連携して役員選挙に臨み「立浪・伊勢ヶ濱連合」を構成していた。1977年3月に6代伊勢ヶ濱は逝去し、それに伴い、同年4月に伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方である12代楯山(元大関・清國)が7代伊勢ヶ濱を襲名して伊勢ヶ濱部屋を継承した。7代伊勢ヶ濱は先代から引き継いだ弟子の小結・黒瀬川や、自身の直弟子である幕内・若瀬川などの関取を育て上げた。2006年11月に7代伊勢ヶ濱が定年退職を迎えたため、伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方である10代若藤(元幕内・和晃)が8代伊勢ヶ濱を襲名して伊勢ヶ濱部屋を継承した。しかし、8代伊勢ヶ濱自身も2007年8月に定年を迎えるため、直ちに一門内外からの後継者擁立を進めていたものの、2007年1月場所後に8代伊勢ヶ濱は後継者擁立を断念し、同時に伊勢ヶ濱部屋を閉鎖した。8代伊勢ヶ濱は所属力士2人・世話人1人と共に桐山部屋へ、行司1人は高島部屋へ移籍した。この旧・伊勢ヶ濱部屋からは木瀬部屋(旧・木瀬部屋)と桐山部屋が分家独立を果たしたほか、1997年5月には旧・伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方である13代楯山(元大関・大受)が18代朝日山を襲名して朝日山部屋を継承している。また、旧・伊勢ヶ濱部屋は両国国技館に至近の位置に所在していたが、末期は台東区へ移転した。両国にあった時代の旧・伊勢ヶ濱部屋の跡地には現在「ちゃんこ照國」が立地している。
出典:wikipedia
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