大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍・柳原愛子である。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気を患った。侍医(主治医)の浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。このような状態ではあったが、明治天皇と皇后・一条美子との間には皇子女がおらず、また、側室出生の親王・内親王ら4人も、第三皇子である明宮の出生以前に相次いで薨去していたこともあり皇太子となった。誕生の翌年、皇室の風習により中山忠能の屋敷に里子に出された。この間、明治天皇は養育にほとんど口出しをしなかった。1885年(明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に戻ったが、弟宮の全員と妹宮のほとんどが薨去しており、年の近い兄弟姉妹が少なかった。そのため、嘉仁親王は家族と接する機会があまりなかった。 1887年(明治20年)8月31日、8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となる(儲君は皇后の実子とされる慣例があったので)。東宮侍従の小笠原長育より礼法教育を受ける。「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、「生母が柳原愛子」と言われてもなかなかそれを信じなかった。同年9月に学習院に入学した。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校。この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったという逸話が残されている。しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった。1889年(明治22年)、皇室典範の制定により皇太子となり、立太子礼を挙げる。他方学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けた。この時に重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江からは大きな影響を受け、漢詩作成を趣味としたという。明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきりであった嘉仁親王の養育を教育から健康まで総合的に行うため、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を与えることで、有栖川宮の祭祀を継承させている。1897年(明治30年)8月31日、満18歳となり、貴族院の皇族議員となった。成年式は、英照皇太后の喪中のため、翌年に延期された。1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九条節子(さだこ)と結婚した。このとき節子は15歳であった。この早い結婚については、「病弱の皇太子に早めの結婚を」との意図があった旨を『明治天皇紀』では記しているが、親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって結婚は非常にうれしい出来事だったようである。結婚後は明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。健康が回復してからの嘉仁親王は日本各地を行啓し、その範囲は沖縄県を除く全土であった。嘉仁親王は、巡啓中、興に乗れば漢詩を創作している。明治天皇や昭和天皇が和歌を好み多く詠んだのとは対照的である(#人物像の節に詳述)。1907年(明治40年)、嘉仁親王は大韓帝国を訪れ、皇帝・純宗や皇太子・李垠と会っている。このときの大韓帝国は、被保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊ということになった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。また、嘉仁親王は欧米への外遊を希望する詩作を行っており、民間でも新聞社説で嘉仁親王の洋行を歓迎する報道がなされたが、明治天皇の反対により洋行は実現されなかったという。次代の皇太子裕仁親王(昭和天皇)は1921年(大正10年)にヨーロッパ訪問を行っている。明治の終わり頃には、嘉仁親王はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している。また、エルヴィン・フォン・ベルツは、欧米風の自由な生活を送る皇太子を好感を持って記している。1912年(明治45年/大正元年)7月30日、明治天皇の崩御を受けて践祚し、「大正」と改元した。3年後の1915年(大正4年)に京都御所で即位の礼を行う。1917年(大正6年)に立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫り、寺内内閣がそれを押しとどめる事件も起きている。第3次桂内閣では桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発し、父・明治天皇と異なり政治的な判断が不得手であることが国民の目からも明らかとなった。御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された天皇の自由を奪っていくことになる。1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、1919年(大正8年)には食事を摂ることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していた。1920年(大正9年)3月26日、東京大学教授三浦謹之助は「幼小時の脳膜炎のため(中略)緊張を要する儀式には安静を失い、身体の傾斜をきたし、心身の平衡を保てない」という診断書を提出した。これを受けて松方正義内大臣が原敬首相に摂政の設置を提案したが、当面は天皇の病状を公表して関係者や国民の心の準備を待つこととした。摂政設置の動きが活発化するのは翌1921年(大正10年)半ばからである。5月から8月末日までに、原首相や山縣元老を中心に根回しが行われ、政府内の了解が固まった。10月4日に宮内省から「快方に向かう見込みがない」旨の病状発表がなされた後に、各宮家から了解を取り、10月11日には皇后の了解を得、10月27日には松方内大臣が大正天皇と当時20歳だった皇太子・裕仁親王(昭和天皇)の承諾を得た。原首相暗殺事件を挟み、11月20日には「宮中重要会議」が近いことが新聞報道され、22日には議題が皇室典範の摂政に関する条項に関連すること、24日には議題が「皇太子殿下の重大御任務」であることなど、間接的表現で皇太子の摂政就任が近いことが報道された。そして11月25日午前11時に皇族会議が皇太子を議長として開かれ、摂政設置案を満場一致で可決。午後1時には枢密院会議が開かれ、皇族会議の発議に対して満場一致で同意する。枢密院会議が午後2時に終了した直後の午後2時30分に天皇は詔書を発し、皇太子裕仁親王を摂政に任命した。同時に宮内省から『天皇陛下御容體書』が公表されるとともに、出生以来の病歴が別途発表された。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった。 この後、大正天皇が政務に復帰することは無かった。1922年(大正11年)4月にイギリスのエドワード王太子が訪日し1か月近く滞在した際、天皇の病状を憚った日本側は天皇と王太子の面会を設定しなかった。一方、6月20日には皇太子と良子女王(香淳皇后)の結婚の勅許を下している。その後、日光・沼津・葉山の各御用邸で転地療養を続けていたが、1926年(大正15年)11月に病状悪化が進み、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま心臓麻痺により崩御。宝算48。臨終の床に生母を呼んだのは皇后の配慮だったという。崩御後には「大正天皇」と追号され、1927年(昭和2年)2月8日、天皇として史上初めて、関東の地にある多摩陵に葬られた。毎年12月25日には大正天皇例祭が行われている。貞明皇后との間に4皇子をもうけた。陵(みささぎ)は、東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある多摩陵(たまのみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。大正天皇より陵は東京に移されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。「遠眼鏡事件」とは、「大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」とされる「事件」であり、それにまつわるさまざまな風説が流布されており、「大正天皇は暗君であった」と誤って評価される要因の一つであると言われる。この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なっており、信憑性は定かではない。また、語り出された時期は戦後の1950年代後半にほぼ集中している。ただし政治学者の丸山眞男は、大正天皇の在位中からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は著作「昭和天皇を廻るきれぎれの回想」において、以下のように記している。この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている。また、大正天皇は脳膜炎を患って以来、手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠眼鏡のように使っていたように見えたという説もある。。明治天皇は1887年までに9人の皇子女をもうけたが、大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死んだ2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった。大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ。また、1888年・1889年の『華族統計書』によると、公家華族や武家華族の3歳未満児の死因で最も多いのは脳膜炎で、31件中12件を占めていた。この点について、1923年、京都帝国大学小児科教授の平井毓太郎が脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症であるとの研究成果を発表した。禁裡院中の女子は、鉛あるいは水銀を原料とする白粉を用いたから、皇子女の脳膜炎様病症は、白粉から母親の体内に入った鉛毒・水銀毒の結果であると推定された。平井の発表に先立つ1907年の段階ですでに含鉛白粉の害は上流階級や有識階級の間で周知の情報となっていたとされている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。