内藤 尚行(ないとう なおゆき、1968年7月24日 - )は、愛知県豊川市出身の元プロ野球選手(投手)。現在はギャオス内藤の芸名で野球解説者、タレント(スカイコーポレーション所属)として活動。豊川高等学校から1986年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。同期に土橋勝征、飯田哲也らがいる。高卒ルーキーながら1軍ユマキャンプに抜擢され、挨拶代わりに地元の名産「ヤマサちくわ」をユマに持って行き、首脳陣、先輩、スタッフに渡した。その為、先輩に名前を覚えられたという。2年目からはリリーフ投手として活躍。1988年8月19日の阪神戦で3番手で登板し、5回を1安打無失点抑え初勝利を挙げる。関根潤三監督最終年の1989年には12勝8セーブを挙げ、オールスターゲームにも出場を果たす。1990年に野村克也が監督に就任。当時野村について内藤は「ノムさんは現役時代の成績を見れば、ものすごい選手というのは間違いない。ただ当時は評論家のイメージが強かったのでどんな監督なのか」と思ったという。1990年、春季キャンプで毎晩ミーティングを実施することにつき取材を受けた際、「ミーティングになると眠くなっちゃうんです」と発言しその番組を見ていた野村が「ミーティングで眠くなる? なあ、内藤」と名指しで言われキャンプ初日のミーティングで冒頭から槍玉に上げられた。野村のミーティングを実際に聞いてみたら「話がうまいから聞き入っちゃうんです。たしかに練習の後だから眠くなることもありましたが本当に面白かった。時間も集中力が持つ1時間と決めて、必要以上にはやらない。解説者になってからミーティングで言われたことは役に立っていますね」と語っている。野村は1990年と1991年に二年連続して内藤を開幕投手に起用している。1990年の開幕戦(対読売ジャイアンツ)、1失点の好投で3対1で迎えた8回1死走者2塁の場面で篠塚利夫と対戦。篠塚が放ったライトポールぎりぎりの打球が1塁塁審の大里晴信によって本塁打と判定。一気に同点となり、内藤はマウンドでうずくまった。結局、ヤクルトは延長戦の末に敗れた。この判定は当時、明らかな誤審ではないかと大きな話題になっている(詳しくは読売ジャイアンツの項目を参照)。千葉マリンスタジアム最初の公式戦となった1991年5月25日の中日戦で先発し、同球場初の勝利投手となった。1991年も二年連続で開幕投手に指名されるがこの頃から毎年先発・中継ぎ・抑えと全ての場面で起用されていた事から勤続疲労により故障がちになりだす。1992年も先発に抑えにとこなしていたが、シーズン途中に故障離脱。チームはリーグ制覇したが内藤は1992年の日本シリーズには登板できなかった。1993年9月2日にナゴヤ球場で行われた中日ドラゴンズ戦では、延長15回裏に無死満塁のピンチからクリーンアップトリオ(アロンゾ・パウエル、落合博満、彦野利勝)を三者三振に斬って取り、引き分け再試合に持ち込んだ。この年の優勝争いは中日とのマッチレースで、前日の直接対決で敗れて首位奪回されていただけに、同年のヤクルト優勝にとっては重要なターニングポイントとなった。その後は故障は更に酷くなり、1994年には一軍定着後初めて未勝利でシーズンを終える。1995年に青柳進との交換トレードで千葉ロッテマリーンズに移籍。開幕してすぐに先発ローテーションに入りこの時期先発投手になかなか勝ちがつかないチームの中、1ヶ月強で先発で3勝を挙げるがまたしても怪我で戦線離脱。1996年シーズン途中に与田剛との交換トレードで地元の中日に移籍するも故障は癒えず、1997年に29歳の若さで現役を引退。2度のリーグ優勝を経験しながら、日本シリーズは未登板で選手生活を終えた(ただし、偵察要員として出場歴がある)。アール・エフ・ラジオ日本およびJ SPORTSで解説者を務めるほか、プロ野球マスターズリーグでは名古屋80D'sers に所属。2006年 - 2007年シーズンで優勝した際の記念撮影ではなぜか上半身裸になっている。また、2006年に同チームが中日ドラゴンズのファン感謝デーでエキシビションゲームを行なった際、福留孝介に本塁打を浴びている。2013年からは新潟アルビレックスBCの監督を務める。登録名はギャオス内藤、背番号は現役当時に付けていたうちの1つである24。なお、解説者活動も継続して行っていたが、2014年シーズン終了後に監督退任が発表された。球速は140km出るか出ないか位だが球威があり、低めへのコントロールがピッチングの生命線、決め球はスライダー、フォーク。本人の言による『ズライダー』(タイミングをズらすスライダー、抜けスラ)で緩急をつけてカウントを整え、三振を狙う事も出来た。プロ生活中常に奇麗なストレートを投げようと試みていたが、ストレートはシュート回転する癖球であった。また、投手ながらバッティングセンスはよく、1990年4月15日の対横浜大洋ホエールズ戦では、遠藤一彦から横浜スタジアムのレフトスタンドへ飛び込む決勝3ランを打ち込んだことがある。次の登板試合となった4月19日の阪神戦では一打席目に野田浩司からソロ本塁打を浴びせて2打席連続アーチを記録。高校進学時は、愛知4強の1つ東邦高校の練習に参加したが、当時の阪口慶三監督にあまり評価されずにその反骨心から地元・豊川高校を選んだ。高校時代は2学年上に阪急ドラフト1位指名となる白井孝幸投手がおり、また同学年には県内に近藤真一(享栄高校)がいたことでプロ野球スカウトの目に留まる機会が多かったという。尚、白井の弟康勝(後に日本ハム入団)は同期だが高校時代は内藤がエースで白井は外野手兼控え投手だった。プロに入りたい気持ちが強く、訪問するスカウトにも猛アピールしたという。マウンド上で「ギャオー!」と叫ぶパフォーマンスを見せたことから、「ギャオス」の愛称がつき、引退後も芸名として使用している。現役時代、好投した後のヒーローインタビューで「最後に一言」の問いかけに「全国のおばあちゃん。見てますか」と答えていた。プロ野球選手になる前からタレント志向は強く、高校時代もアイドルの振り付けや歌などが得意であった。高校時代には早朝に実家の周囲を毎日ジョギングしていたが、コースの途中に工事現場で資材がつんでおいてあり、その上をステージに見立てて毎日田原俊彦や近藤真彦などの歌の振り付けの練習を欠かさず行っていたという。まだ現役だった1995年、TBSの人気番組『スポーツマンNo.1決定戦』の第1回プロスポーツマン大会に出場。第2種目の「パワーフォース」では大本命の佐竹雅昭、広澤克実を抑え込んでNo.1に輝く。最終的な総合順位は6位。引退後の2000年秋に行われた「第7回芸能人サバイバルバトル」に出場。序盤3種目はまったくいい所が無かった。しかし、最初の足切りを暫定12位で凌ぐと内藤はここから驚異の大躍進を見せる。第4種目の「テイル・インポッシブル」では先発投手だった意地を見せ、決勝レースまで残り第3位(第2位は照英、No.1は元浦和レッズの水内猛)に輝き、暫定順位を10位に上げ大逆転で2回目の足切りを凌ぐ。第5種目の「パワー・フォース」では坂口憲二、水内猛、工藤順一郎に圧勝、下馬評通り決勝へ進出。決勝ではケイン・コスギ(前回大会まで、この種目4大会連続No.1)を秒殺して芸能人大会でもNo.1に輝き、そのパワーに衰えが無いという事を存分に示した。優勝後のインタビューでは「ケインと対戦がしたかったのでね~。できて良かったです!」と大興奮だった(ちなみに実況の古舘伊知郎はこのケインと内藤の一戦を「ウルトラマン対怪獣」と表現している)。これで暫定4位へ浮上し見事、最終種目への生き残りを決めた。最終的な総合順位は第4位 最終種目のショットガンタッチでは3回の試技で3回とも11m30cmを申告し1回目、2回目は成功したが最後の3回目でまさかの失敗を喫してしまった。(現時点において最初で最後のサバイバルバトル出場)。『野球狂のネタ4』(関西テレビ)(2002年12月千葉マリン改修中にロケ)に出演した際、自身がギャオスと呼ばれた理由について語り、さらに過去のヤクルト投手(岡林洋一、乱橋幸仁)の投球フォームの真似を披露すると、出演者のますだおかだ、升毅、佐野慈紀らから爆笑を取った。愛称の由来については「アニマル・レスリーのパクりやん」と出演者に突っ込まれた。2012年11月19日にアイランドタワークリニックで薄毛治療のため自毛植毛を行う。野球解説者としての活動を行っているが、野球解説者の里崎智也からは「現役時代から解説を聞いてイラッとしていた」「自分がされて嫌な解説はしないようにしてます」と抽象的な解説に苦言を呈されている。多くの交友関係を持つが中でも清原和博とは昔から仲がいい。年下にもかかわらず「キヨ!」とあだ名呼び、呼び捨てしている。また、1995年の春季キャンプでは、何故か自らヒッティングマーチを歌いながら清原のモノマネを披露していた。引退後はアール・エフ・ラジオ日本、J SPORTSで野球解説者を務めるほか、キャラクターを生かしたタレントとしても活動をおこなっている。台湾のテレビにも出演している。2007年、2008年に東海地方向けの中継に出演して以来、地上波の野球中継には出演していない。CS放送のJ-SPORTSの中継には出演している。
出典:wikipedia
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