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楯岡光直

楯岡 光直(たておか みつなお)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。最上氏の一門。嫡兄の義光からの一字拝領であれば、読み名は“あきなお”になる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。光直は700挺の鉄砲隊を含む1000の軍勢を率いて甥清水義親と共に参戦、志村光安の救援にあたった。この鉄砲隊により、直江兼続も苦戦を強いられたという。元和4年(1618年)、楯岡城主となった(1万6000石)。山形藩2代目当主最上家親が鷹狩りの後楯岡城に立ち寄った。家親は光直の饗応を受けたが、その夜突如家親は悶死したという説がある。史実では家親は江戸で死去しており現在では謬説とされている。家親が死去後、家中では後継者争いが発生した。家親の子である最上義俊(家信)を推す一派と、その叔父で藩祖義光の四男の山野辺義忠を推す一派とが対立した。「家信(義俊)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠をして家督たらしめんことをねがう」と伝わるほどに義俊の人望はなく、家臣の多数が山野辺義忠を推していたが、その筆頭にいたのが、鮭延秀綱や最上一族でもある楯岡光直であった。最上騒動と呼ばれた一連の問題は江戸幕府の介入と和解案によって、義俊後継とする両派融和決着の道が図られたが、光直ら多くの家臣がこれに納得せず、光直らは幕府に対し「家臣全員、高野山に上って出家する」などと回答するなど、相変わらず藩政が乱れたため、やむなく幕府は最上家の改易を決定した。元和8年(1622年)、騒動の中心人物の一人であるとされた光直は、最上家改易と同時に豊前の細川家に御預けの身となった。肥後では厚遇を受け、光直が病に臥せっていた際、当主である細川忠利自らが光直屋敷へ見舞いに来た話が残る。子孫はそのまま肥後藩に仕官し、同藩家老職となった。前述の山野辺義忠は同じく岡山藩池田忠雄の国許に幽閉とされる処分を下され、同地で12年を過ごしたが、徳川頼房により水戸藩が立藩された際、幕府に要請される形で同藩家老職(1万石)となり、頼房の後継者の光圀の教育係も務めた。山野辺家は代々同藩家老職を勤めたが、義忠の子の義堅に子がいなかったため、光直子孫の肥後楯岡家から婿養子(山野辺義清、光直の孫)を迎えて後継としたため、以降は光直の子孫とも言えることになる。

出典:wikipedia

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